第43話 霧の向こう側へ

「あなたたちは、聖都を去りなさい」


 馬車を降りると、クリスティーは告げた。

 人気のない郊外の空き地に、四人の逃走者の姿がある。


 あれだけの死線をくぐり抜けて、誰にも怪我らしい怪我はない。 

 追跡の苛烈さを思えば、奇跡という他ない。

 とは言え──馬車は、惨憺たる有様だ。


 客車のガラスで、無傷なものは一枚もない。限界を超えた走行の連続で、車輪は外れかかっている。

 これ以上、馬車で逃走するのは難しいだろう……


「心配はいらない。安全に脱出できるように、協力者が手配してくれているわ」

 

 クリスティーの口ぶりは、全てが予定通りであるかのようだ。

 処刑人の魔手から、逃れられる。

 ベネットは安堵し……いや、思い直したように首を振った。

 まだ、やるべき事が残っていた。


「私は、聖都を去らない」 


 決意を込めて、そう口にする。

 そして短剣を抜くと、クリスティーの鼻先に向けた。


「凶音の魔女、地下牢から救い出してくれたことに、礼を言う」

「感謝を表現するにしては、随分と個性的な方法ね?」


 刃を突きつけられて、クリスティーに動揺の色はない。


「やめなさい」


 魔女はベネットの目を真っ直ぐに見据えると、厳とした声を発した。 

 だがそれは──少年に向けたものではない。


 ビクリと肩を震わせたのは、馬車の脇に立ったエレンである。

 栗色の髪の少女は、ジャケットの中へ伸ばした手を止めた。


「無事に逃げおおせた後、駆逐してもいいと言ったものね。いいわ、約束ですもの。駆逐なさい」 

「先生! 駄目です!」 


 両腕を広げて見せたクリスティーに、エレンが悲鳴を上げた。


「ベネットさま、この方を傷つけてはいけません」


 ソフィアの小さな手が、背中に触れる。

 ベネットは──短剣を引かない。

 微笑みを絶やさない魔女を、油断なく睨みつけた。


「──凶音の魔女」

「クリスティーよ」

「……クリスティー……ひとつ訊く。アルヴィン師は、あなたと内通して教会を裏切った──事実か」

「最初は敵、次は取引相手、今は仲間かしら? 私は母を救うため、彼は復讐のために手を組んだわ」


 クリスティーはダークブロンドの髪をかき上げながら、答える。

 少年の瞳が、動揺で揺れた。


「復讐? アルヴィン師が……誰に?」

「それは個人の事情というものだから、私からは話さない」

「教会なのか」

「知りたければ、本人に訊くことね。でもね、聖人君子ぶった教会の指導者たちが、地下で何をしていたのか、あなたは見たはずね?」


 地下での、おぞましい光景が脳裏に蘇り──悲痛な思いがこみ上げた。

 教会は、正義だ。

 そう信じてきた…… 


「さあ、話は終わり。ぼやぼやしていたら、また追っ手が来るわ。早くしてくださる?」

「──分かった」


 ベネットは、重々しく息を吐き出した。

 鋭く踏み込み、短剣を一閃させる。


「先生!」  

「ベネットさま!」


 悲鳴が上がった。

 同時に甲高い金属音が響き、何かが地面に突き刺さった。

 それは──クリスティーの首ではない。


 クロスボウの矢だ。


 物陰に潜んだ処刑人が放った一矢を、ベネットが弾いたのだ。

 すぐさまエレンがジャケットに忍ばせた拳銃を抜き、応射する。


「ほんと、油断も隙もない連中ね」


 崩れ落ちた処刑人を一瞥して、クリスティーは心底呆れた声をあげた。

 死に直面したというのに、その顔は、どこまでも涼しげだ。

 ベネットが彼女を守る──そう確信していたかのように見える。


 ──最初から、見透かされていたのか。

 観念したように嘆息すると、短剣を下ろした。


「──教会は、間違っている」


 ベネットは、視線を地面に落とした。

 そして、声を絞り出す。


「でも私は……非力だ。ひとりでは、立ち向かえない。力を貸して欲しい」

「あらあら。教会を正すために、魔女と手を組むっていうの?」


 白く優美な手を頬に添えると、クリスティーはわざとらしく、困ったような表情を浮かべた。


「彼はどう思うかしら? 大事な弟子を巻き込んだと知ったら、私が叱られちゃうかも」

「……アルヴィン師には、私から話す。それに、手を組んでも、審問官の矜恃を捨てるわけじゃない。おかしな真似をすれば、すぐに駆逐するつもりだ」

「良い心がけね。じゃあ、手を貸してあげる。全ての決着をつけましょう」


 言って、クリスティーは微笑んだ。


「──決着?」

「もうじきアルヴィンが戻ってくるわ。聖櫃への、しるべを持ってね。その時が、私たちと教会の、決着の始まりよ」


 クリスティーはそう言うと、聖都の街並みへと視線を転じた。

 風が吹き、霧が流れて行く。

 遠くの空がうっすらと、白み始めた。





◆ ◇ ◆ ◇ ◆





「──役立たずがっ!」


 怒声が地下に反響した。

 処刑人の顔を殴りつけたリベリオの怒りは、収まらない。うずくまった男の腹を、さらに蹴りつける。


「ネズミを取り逃がしただと? どの面を下げて帰ってきた!?」


 震え上がった部下たちを前にして、リベリオは顔を赤黒く染め上げる。

 差し向けた追っ手は、彼らの専売特許であるはずの暴力によって、ことごとく返り討ちにされてしまった。

 処刑人の面子は、丸つぶれである。


「グングニルを持ってこい!」


 リベリオの声には、不穏な響きがある。


「審問官リベリオ、あれは会主のお許しがなければ──」


 一歩進み出てた処刑人の諫言は、不自然に中断された。

 額を、撃ち抜かれたのだ。


「さっさと、持ってこい!!」


 硝煙を上げる拳銃を手にして、リベリオは咆哮する。

 蜘蛛の子を散らしたように、男らは走り出した。


 地下の中央に、赤く混濁した、毒々しい液体を満たした穴がある。

 そこから、幾本もの鎖で繋がれた、棒状の何かが浮かび上がった。 

 それは──赤い槍だ。


 リベリオは、笑った。

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