第42話 夜霧と死闘

 十六年間の人生で、今ほど自身の反射神経を讃えたくなったことは、なかったかもしれない。


 銃口が向けられた瞬間、ベネットは渾身の力を込めて客車の扉を蹴りつけた。

 幅の狭い路地だ。

 元より、馬車と騎馬の距離はほとんどない。


 突如前方を塞いだ扉に激突し、処刑人はバランスを崩した。

 悲鳴だけを馬上に残して、男は固い石畳の上に落下する。

 けたましい金属楽器の奏でる不協和音は、すぐさま遠ざかり消えた。 


 その間に、背後で新たな濁音が生まれていた。

 野太い、男の悲鳴だ。

 反対側を併走する処刑人を、クリスティーが仕留めたのだ。


「まずいわね」


 だが、彼女の表情は冴えない。

 理由を問おうとして──ベネットは、唐突によろめいた。


 衝撃が走り、馬車が左右に大きく傾いだ。

 同時に屋根を突き破って、何かが客車に飛び込んでくる。


 それは──血に飢えた、長剣の切っ先だ。


 ベネットの頬をかすめ、深々と座席に突き刺さった。

 何が起きたのか──


「上がってこい、背教者ベネット!」


 凄みを利かせた声が、屋根の上から降らされた。

 ベネットは、喫驚せずにはいられない。


 信じがたいことだが……疾走する馬車の上に、処刑人がいる。

 外を見ても、併走する騎影はない。

 あらかじめ先回りをして、建物の上階から馬車へと飛び降りたのか……その行動は、命知らずとしか言い様がない。


「どうした? 来ぬのなら、御者の娘を殺すぞ!」


 悪意のこもった、粘液質な警告が耳を刺激した。 

 いや、それは警告などではあるまい。

 ベネットは焦りを感じながら、クリスティーを見やる。


「凶音の魔女! 魔法で屋根ごと吹き飛ばせないのか」

「無理ね。時間切れよ」

「……時間切れ?」

「月の入りよ!」


 クリスティーは、うんざりしたように肩をすくめる。

 魔力の源泉は、月だと言われる。つまり、魔法が使えるのは月夜に限られるのだ。

 月が没すれば、魔女は力を失う。


 よりにもよって、このタイミングで──ベネットは、呻く。

 こうなれば屋根で待ち構える処刑人を、ひとりで退ける他ない。


 手元には、地下を脱出するときに失敬した、拳銃と短剣がある。

 ベネットは一計を案じた。


 短剣を手に取ると、客車から身を乗り出す。

 這い上がった屋根は、狭い。 

 そこに、強風に祭服をはためかせた処刑人が、超然と立っていた。


 ベネットは進行方向に向かって、男は逆方向に向かう形で対峙する。 

 手を伸ばせば、容易に触れあう距離である。

 激しく揺れる屋根にあって、男の身体の軸は一切ぶれない。

 相当な手練れであることは、一目で分かる。


「……まだ夜だというのに、仕事熱心なことですね。道化師の見送りを頼んだ覚えは、ありませんが?」

「ほざけ」


 窮地にあっても毒舌で報いるあたりは、師譲りなのだろう。

 処刑人は仮面の下で、歯ぎしりのような、くぐもった音を立てた。


「魔女の力なしでは逃げられんぞ。投降しろ」


 唇の端に、男は毒々しい悪意を宿す。


「お前にはまだ人質の価値がある。今なら片手の指を切り落とすだけで許してやろう」


 男は寛大さを装った、悪魔めいた笑みを浮かべた。

 吐き気を催すような言葉が、ただの脅しでないことは、両眼にちらつく光を見れば分かる。


 これまで多くの無実の人間を、そうやって痛めつけてきたに違いない。

 ベネットは、嫌悪感を隠さない。


「生憎ですが、あなたの悪趣味につき合う暇はありません」

「情けをかけてやったのに、つくづく馬鹿な小僧だ」


 元より、情けなど存在しない。

 あるとすれば、狂気に染まった加虐嗜好だけだ。

 男は作り物のような目をギラつかせると、二本の短剣を両手に構えた。


「──っ!!」


 続いた打ち込みは、苛烈だ。

 赤い火花が、暗闇に散った。

 雷光のごとく繰り出された凶刃を、ベネットは、ほぼ反射神経のみで弾き返した。

 

 男がただのサディストではない確認は、その一撃で十分だった。

 重い斬撃に右手が痺れる。

 間髪を容れず、二本の短剣が襲いかかる。


 まるで双頭の蛇が、獲物を狙うかのようだ。

 剣裁きは自在で、間断なく、ベネットをたちまち翻弄する。

 元より足場は狭く、激しく揺れ、逃げ場はどこにもない。


 至近距離での死闘は、一瞬の油断も許されない。

 軍配は早々に、処刑人へ上げられた。

 防戦一方となり、注意が疎かになった足元を払われたのだ。


 無様に転倒すると身体を強打し、息が詰まる。転落を免れたことだけが、唯一の幸運だ。

 とはいえ、それは死期を僅かに先延ばししたに過ぎない。


「神のご加護を」


 不吉な祝詞と共に、刃がにぶい光を放った。

 振り下ろされた一撃は不可避で、ベネットの喉を深々と切り裂く。 

 白と黒のモノクロームの世界に、鮮やかな赤が付け加えられた。


 いや──違う。


 短剣は、屋根に突き刺さった。

 白刃が振り下ろされた刹那、馬車が急カーブを切ったのだ。

 御者のエレンの機転が、ベネットを救った。


 片輪が浮かび上がるほどの方向転換に、練達の処刑人といえど姿勢を保てない。

 だが、猛烈な遠心力に翻弄されたのは、ベネットも同様だ。


 必殺の一撃から逃れた代わり、屋根を転げ、空中へと投げ出される。 

 石畳が、迫る。


 ──落ちたら、命はない!!


 咄嗟に伸ばした手が……屋根のへりを、奇跡的に掴んだ。

 腕一本でぶら下がり、なんとか転落を免れる。


「……しぶとい小僧だ」


 忌々しげな声が頭上で発せられ、ベネットは呻いた。

 今度こそ悪運は尽きたらしい。


 見上げた先に、体勢を立て直し、酷薄とした色を浮かべた処刑人が立つ。

 男は、屋根を掴むベネットの指に足を乗せた。


「さあ、命乞いをして見せろ。慈悲を乞え。ここで死にたくなどあるまい?」

「……そろそろ、助けたらどうなんですか」

「なんだ、その口の利き方は?」

「引き金を引くだけでしょう!」


 それは、明らかに処刑人に向けたものではない。

 死に直面して、気でも触れたのか。 

 男はベネットの掌を踏み砕こうと、容赦なく体重を加える。


「強者への非礼を、地獄で悔いて来い!」

「地獄で懺悔するのは、あなたよ」


 声と共に、閃光が瞬いた。

 風切り音が、銃声と断末魔をかき消した。


 一瞬の空白のあと、ベネットが視界の隅に捉えたのは──驚愕の表情を貼り付かせた、処刑人だ。

 額の中央に、弾痕がぽっかりと空いている。


 力を失い、男は屋根から転落する。

 夜霧と夜闇が、たちまちその姿を覆い隠した。

 発砲したのは──ベネットではない。


「知らなかった? 魔法は使えなくても、拳銃くらい使えるのよ」


 客車から身を乗り出した、クリスティーである。 

 拳銃は屋根に上がる前、ベネットが手渡したものだ。注意を引きつけている間に撃て、と。

 だが──


「凶音の魔女! どうして直ぐに撃たなかった!?」


 烈火のごとき怒りを双眸に宿し、ベネットは魔女を睨みつけた。


「あなたがどこまでやれるのか、試してみたくて」


 悪びれた様子もなく、クリスティーはさらりと言ってのける。

 謝罪の代わりに手を差し出し、ベネットを客車の中へと引き戻す。


「試す……? もう少しで、死ぬところだったんだぞ!」

「そうね。でも、あいつは黒幕の手下の手下の手下よ。そんな相手に苦戦するようじゃ、力不足じゃないかしら?」


 ベネットは、咄嗟に反論できない。


 自分には、力が足りない。

 このままでは到底、教会には抗えない──

 唇を噛み、視線を落とす。


 馬車は速度を緩めない。

 追跡を振り切り、逃亡者たちは、乳白色の厚い壁の向こう側へと消えた。


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