第36話 迷宮の魔女は笑う

 足取りは重い。

 それは、濡れた祭服のせいばかりではない。


「──フェリシア! エマ!」


 アルヴィンは迷宮を、ひとり彷徨っている。

 手がかりはなく、既に数時間、あてもなく歩き続けている。


 フェリシアが考察したとおりだ。この迷宮は一度はぐれると、再会することは極めて困難だ。

 どれだけ部屋を移動し、足を棒にしても、二人の影すら見いだせない。

 探せば探すほど、遠ざかっているのではないか……そんな気さえしてくる。


 アルヴィンは暗澹たる気持ちに陥る。

 全ての責任は、自分にある。


 あの時、なぜ二人を残して逃げたのか。

 ギリギリまで手を尽くすべきだった。

 これでは彼女らを……見殺しにしたも同然ではないか。


 問題は、それだけではない。

 このままでは囚われの教え子を救えず、聖櫃へ辿り着くこともできない。

 八方塞がりだ。

 息苦しさのようなものを感じながら、彷徨う。


 いや、と、アルヴィンは軽く頭を振った。

 二人は、生きている。

 普段の物言いはともかくとして、フェリシアは聡明だ。行動力もある。


 彼女なら、エマを連れて上手く逃げおおせているはずだ。

 今頃、合流する術を探しているに違いない。

 それは虫の良い、楽観的すぎる考えかもしれないが──今は、そう信じるしかない。

 

 ふと、アルヴィンは立ち止まった。

 目の前に、扉があった。


 いや、扉ならいくらでもある。

 違和感を感じたのは──黒い光沢を放つそれらの中で、一枚だけが白かったからだ。


 これまで、黒以外の扉は見たことがない。

 罠、かもしれない。

 警戒して……だがその馬鹿馬鹿しさに、アルヴィンはひとり笑った。

 仮に罠だったして、それがどうしたというのだろう?


 いま以上に最悪の状況などない。

 二人と合流するために、前に進むしかない。

 例え罠が待っていたとしても──乗り越えるだけだ。





 静かだ。

 押し寄せる水塊も、忍び寄る殺意もない。 

 予想に反してその空間は──澄み切った、静謐な空気で満たされていた。 


 部屋は円形だ。正確に言えば長円形で、壁際には三階に相当する高さまで書架が配されている。

 その雰囲気は……どこか、聖都の大図書館を思い出させる。

 もちろん、外に出られたわけではない。


 頭上には、本来あるべき天井がない。

 代わりに星々の瞬きと、ゆっくりと回転する、巨大な天球儀があった。

 迷宮の中で津波にまで襲われた身となっては、もはやその光景に驚きはない。


 パタリ、と本を閉じる音がして、アルヴィンは視線を戻した。

 部屋の中心に、安楽椅子があった。

 そこに背を向けて座る、長髪の女の姿が見える。 


「……フェリシア?」


 淡い期待が、アルヴィンの鼓動を早めた。

 この迷宮で妙齢の女性と言えば、彼女しかいない。

 だが、呼びかけに振り向いたのは──見知らぬ女だ。 


「珍しいわね、お客様だなんて」 


 そう言うと、静かに微笑む。

 カトレアの花を連想させる、成熟した優美な貴婦人である。

 瞳には強い意志の力を宿し、艶やかさを感じさせた。

 アルヴィンは最大級の警戒を持って、女に相対した。


 迷宮を彷徨う、四人目の人間、ということになるのだろうか。

 いや、違う。

 落ち着いた、大人の女性といった印象だが……この場合、表面的な情報は何の意味も持たない。


 魔女の年齢など、外見があてになるものではないからだ。

 アルヴィンは一目で直感した。


 ──魔女だ。


 それも、並の魔女ではない。

 思わず後ずさりしてしまいそうな、濃厚な魔力をまとっている。


「お客様がいらっしゃるなんて、何年ぶりかしらね?」


 女は口許をほころばせると、立ち上がった。

 いつでも拳銃を抜けるように警戒しながら、アルヴィンは頭を高速で回転させる。

 あからさまな敵意は感じられない。


 とはいえ、それが安全を保障するものではない。

 その気になれば、道ばたの雑草を刈り取るかのように、容易く首を飛ばされるだろう。

 アルヴィンは慎重に間合いを計り、魔女に問う。


「──あなたは?」

「部屋に入ってきたのは、あなたの方よ。訪ねてきた者から名乗るのが礼儀ではなくて、アルヴィン?」

「どうして──」

「僕の名を知っているんだ。この魔女は心が読めるのか」


 そう言うと女は、妖しく謎めいた表情を浮かべる。

 この迷宮は、どこまでも意地が悪いようだ。


 新たな部屋で、アルヴィンは強大な力を持った……そして、心を読む魔女と対峙することになったのだ。

 

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