第34話 凶宴のはじまり

「何を悩む? 何の縁もない、見ず知らずの小娘ではないか。身代わりとなって、惨たらしく死ぬ必要などあるまい?」


 赤黒い歯茎をむきだしにして、リベリオは笑う。 

 ベネットは沈黙した。


 身を賭す覚悟なら、オルガナに入学したときに済ませている。

 そのつもりだった。

 かつて、師にもそう大見得を切った。


 だが……どうだろう?


 凄惨な現実を見せつけられて、決意は揺らいだ。

 死の覚悟など、本当はできていなかった。

 何も分かっていなかったのだ。


 恐ろしい。

 死にたくない。

 少女を犠牲にすれば……自分は助かる。

 ベネットは、震える手を凝視した。 


「どうした? 早くやれ!」


 苛立ったように、リベリオが声を荒げる。

 怒声が響き、少女が振りかえった。

 ほんの一瞬目が合い……ベネットは自分の浅はかさを恥じた。


 少女は、微笑んでいた。


 ──私のことは心配しないで。


 そう言っているように見えた。


 死にたくは、ない。

 ここから生きて還りたい。

 だが……少女を犠牲にして生き延びて、何の意味があるのか。 


 深く、息を吐き出す。

 この地獄から出るのなら……それは、二人でだ。

 自分を鼓舞するように、震える拳を強く握る。

 幼さの残る顔に、ベネットは決然とした表情を宿した。


「──審問官リベリオ。私は悪魔と取引をするつもりはありません」

「なんだと?」

「あの娘を突き落とすなど、お断りです。私は……腐肉を漁る豚にはなれない」

「……師弟そろって、愚かな奴らだ……!」


 リベリオは、ドスの利いた唸り声を上げた。

 一般人であれば卒倒しかねない、すごみを帯びている。


「図に乗るな、小僧! 生まれてきたことを後悔させてやるぞ!」


 口汚く、男は罵る。


「小娘を殺せ!」


 それが、凶宴の始まりの合図となった。

 処刑人が少女を蹴落とそうと動く。


 ベネットは即座に反応した。 

 両脇には、処刑人が立つ。

 その片方、右側の男へ向けて、渾身の力で体当たりを見舞う。


「始末しろ!」


 リベリオが吠え、左側の処刑人が拳銃を抜く。

 発砲音と共に、閃光が走った。


 至近距離から放たれた銃弾は、致命傷となった。鉛玉を叩き込まれ、身体を痙攣させたのは──ベネットではない。

 体当たりをされた処刑人である。


 男に掴みかかるや体勢を入れ替え、盾代わりにしたのだ。

 同時に少年の手には、奪った拳銃が握られている。

 躊躇なく引き金を引く。 


 学院を首席で卒業したベネットは、決して大口を叩くだけの未熟者、ではない。

 いや、審問官としての経験不足は否定できないが──射撃の精度には、目を見張るものがある。


 火線が走り、たちまち三人の処刑人が絶命する。

 ベネットは哀れな盾を解放すると、床を転がった。


 背後から、殺気が急迫した。

 放たれた斬撃が空を斬る。

 長剣を手に迫る処刑人に、対応する間はない。


 今まさに、少女が突き落とされようとしていた。

 剣先をぎりぎりで躱し、ベネットは起き上がりざま銃弾を放った。


 自分か、少女か。

 どちらの安全を優先すべきか、考えるまでもない。

 銃弾は、少女を害しようとした男の眉間を、正確に射抜く。


 神罰というべきだろう。

 男は、煮えたぎる液体の中へと転落する。

 だが少女を救い、これで終わり──では、決してない。


 ベネットが正面に意識を戻した時、人数に等しい数の拳銃が向けられていた。

 すぐさま床を蹴り、跳躍し──不意に、足の力が抜けた。

 その場に膝を折り、ベネットは愕然とした。


 体力の限界は、唐突に訪れた。 


 この数日間、ろくな食事も与えられず、不衛生な地下に幽閉されていたのだ。

 激しい命のやり取りに、体力はたちまち消耗した。

 手足が鉛のように重くなる。


 暴力のプロフェッショナルである処刑人が、異変を見逃すはずがない。

 身の程知らずの背教者を誅殺する、銃弾が放たれる。


 ベネットは自嘲した。

 全力を尽くしたつもりだ。 

 だが結局は少女を救うこともできず、これでは自己満足の悪あがきだ。


 ──師がいてくれたら……

 ──少女を救い、切り抜けられたのではないだろうか……

 ──いや、師は……魔女と手を組んだ裏切り者ではないか……!


 複雑な思いが胸裏に渦巻く。 

 ベネットは歯を食いしばり、目を閉じた。

 その瞬間は──来ない。


 おそるおそる目を開いた時、銃弾は本来の役割を放棄していた。

 ベネットの足元に、バラバラと転がったのだ。

 それだけではない。


「……!」


 ベネットは我が目を疑う。

 周囲を、厚い水のヴェールが覆っている。

 神がもたらした奇跡……ではない、これは──


「──魔法!?」 

「ほんと、野蛮な連中ね」 

 

 うんざりした声が、事態の急変を報せた。

 入り口に光が差し、ふわっと百合の花びらが舞ったように見えた。 

 そこに悠々と、そして優美に佇む女の姿がある。


「聖都には、人のフリをした豚の多いこと」


 不快げに眉をひそめ、処刑人らを一睨する。

 ベネットは、その女を知っていた。

 あの夜、師がクリスティーと呼んだ魔女。


 ──凶音の魔女だ。

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