第32話 救いの声

「戻るんだ!」


 迫り来る津波を前にして、アルヴィンは緊迫した声を発した。

 三人は砂浜を駆け出す。


「──エマ!」


 砂に足を取られて、少女が転ぶ。アルヴィンは咄嗟に手を伸ばし、

倒れかけた身体を支えた。

 いわゆるお姫様抱っこをする形で抱き上げると、最短距離にある扉を目指す。


「いいなぁ。ボクもして欲しかったのに」

「冗談を言っている場合かっ! とにかく走るんだ!」


 心底うらやましげな目をするフェリシアに、構っている余裕はない。

 水塊が暴力的な強さと勢いを持って砂浜を呑み込み、黒い触手を伸ばす。

 背後の空気がビリビリと震える。


 もし追いつかれれば──それは即、死を意味する。

 三人は息を切らしながら、扉へと辿り着いた。 

 ノブを回す手間さえ、じれったい。


「早く、中へ!」


 波が月を隠し、闇が濃さを増した。 

 すんでのところで、三人は扉へと飛び込んだ。





 ──新たな迷宮は、最初の部屋とよく似ている。

 無個性な回廊が伸び、白壁に沿って扉が続く。


「安心するのは、まだ早いよ!」


 フェリシアの直感は、回廊が不気味に軋む音によって証された。


 ──扉はまだ、閉じられていない。

 

 アルヴィンは咄嗟に跳躍した。

 その敏速な反応は賞賛に値するものだが──報われない。扉に手が触れた時、既に遅い。


 黒い水面が、沸騰したように泡立った。

 間髪を入れず、水塊が堰を切ったように流れ込む。

 人が抗しようのない、圧倒的な力だ。


 アルヴィンを容易く吹き飛ばし、呑み込んでしまう。

 膨大な海水が三人を押し流し、瞬く間に廊下を満たした。 


 息が、出来ない。

 どちらが上下なのかも分からない。

 アルヴィンは水中を必死にもがく。


 肺が悲鳴を上げ、身体が酸素を渇望する。

 溺死の二文字が手足に重くまとわりつき、暗い水底へ沈めようとする。


 意識が薄れた。身体から力が抜ける。

 迷宮で津波に呑まれ、溺死する……道半ばで、まさかこんな結末が待っていたとは……

 もはや、抗うこともできない。

 限界だった。


 ──諦めるのかしら?


 それは死の間際、脳が見せた幻影だったのだろう。

 ぼやけた視界の隅に──ダークブロンドの、女の後ろ姿が映った。


 ──ここで終わりだなんて、期待外れだったわね。


 彼女は振り返らない。 

 玲瓏とした、そして皮肉まじりの声だけを残して消える。

 アルヴィンは、目を見開いた。


 ──まだ、死ねない!!


 ありったけの力を振り絞る。

 手足をばたつかせ、水を蹴る。


 ──もう一度! 君に会うまでは!


 水面に顔が出たのは、生への執念がつかみ取った結果に他ならない。

 大きく息を吸う。

 酸欠にあえぎながら、アルヴィンは、二人の姿を求めて視線を走らせた。


「フェリシア! エマ!」


 力の限り叫ぶ。

 だが、水が渦巻く轟音にかき消され、何も聞き取れない。

 水位が瞬く間に上がり、天井に迫った。

 危機は、まだ去ったわけではない。


 残された僅かな空間が水に満たされれば、万事休すだ。

 窮地から脱するための術を、必死に探す。時間がない。

 アルヴィンは、一点を凝視した。


 数メートル先の天井に、へばりつくようにしてある扉が目に入った。 

 不自然極まりない位置にある扉の意味を、考える暇はない。

 最後の力を振り絞り、水をかく。

 天井にしがみつく。アルヴィンは扉を開け、這い上がった。





「──くそっ!!」


 全身ずぶ濡れだ。

 だがそんなことは、どうでもいい。

 アルヴィンは怒りにまかせ、床に拳を叩きつけた。


 自分の不甲斐なさに、心底嫌気がさす。 

 最悪の事態だ。

 そこにフェリシアと、エマの姿はない。アズラリエルもない。


 アルヴィンは、ひとりになってしまったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る