第31話 三人目の迷い子

 少女に駆け寄ると、アルヴィンは上体を抱き起こした。

 首筋に指を当てる。 

 脈は、ある。


「君! 大丈夫か!?」


 強く身体を揺する。 

 ややあって、薄く目が開いたのを見て、アルヴィンは安堵した。


 少女は女の子らしい、ふんわりとした印象のワンピースを着ていた。 

 髪は肩口ほどの金髪で、三つ編みを二つ結びにしている。 

 肌は陶器のように白い。まるで深窓の令嬢といった雰囲気である。

 

 意識は戻ったものの……呼吸は、まだ弱々しい。 

 アルヴィンは、辛抱強く回復を待った。

 正直に言えば──時間が惜しい。


 日の出までどれほどの猶予があるのかは分からないが、時間がダイヤモンドよりも貴重であるのは間違いない。


 だが今は……待つべきだ。

 半刻ほどの時が経つ。


 少女の顔に血色が戻ったのを見計らって、アルヴィンは尋ねた。


「僕はアルヴィン。彼女はフェリシアだ。君は?」


 少女は無言だ。

 なるべく優しく訊いたつもりなのだが……警戒されているのだろうか。

 目覚めたら見知らぬ大人がいたのだ。当然の反応かもしれない。


 だが表情をうかがって、それが杞憂であることに気づかされる。

 何かの病気、なのだろうか。 


 伝えたい意志はあるのに、声が出せない、そんな様子が感じ取れる。 

 少女はアルヴィンの手を取った。

 そして、掌を開かせると──Emmaと、指でなぞる。


「エマ……君は、エマ、かい?」


 アルヴィンの問いかけに、少女はニコリと頷いた。


「どうして君はここに?」


 少女は困ったように、小首をかしげる。

 なぜここにいるのか、当人も分からない様子だ。


 迷宮に囚われているのは、自分たちだけではなかった。アルヴィンの驚きは大きい。 


 現実世界を模倣した出来の悪い部屋、変わる扉の番号、そして声を失った少女…… 

 この迷宮は、不可解な出来事が多すぎる。


 アルヴィンは少女を見やる。


「僕たちは、外に繋がる扉を探しているんだ。エマも一緒に来てくれないか?」


 ここに置いていくわけには行かない。

 素直に頷いてくれたのは幸いだった。


 アルヴィンは窓際にある、8690番の扉を選んだ。

 新たな同行者を加えた三人は、扉をくぐる。


 次は、何が待ち受けているのか──


 最初に一行を出迎えたのは、生ぬるい風だ。

 鼻腔に、潮の匂いが香る。


「今度こそ……外に出たのか?」


 アルヴィンの呟きを、潮騒がかき消した。

 そこは、部屋ですらない。

 

 眼前に海岸線が伸び、夜空には星が明滅している。

 暗い海の向こう──空の中程に、青白い月が見えた。


 二人を残して、アルヴィンは足早に波打ち際へと駆けた。 

 打ち寄せる波が靴を濡らす。手で掬った海水は塩辛い。


 ──海、である。 


 放心気味に周囲を見回し……アルヴィンはすぐさま表情を固くした。 

 海岸線から少し離れた木々の向こう側に、無数の扉が見える。

 淡い期待は、やはり期待でしかなかったらしい。


 もはや悪魔めいた力としか思えないが……ここはまだ、迷宮の内部なのだ。

 そこに、二人が追いつく。


「アルヴィン」


 フェリシアは、アズラリエルを手にしていた。

 そして告げたのは、思いもよらない言葉である。

 

「もしかしたら、だけど、外に出る方法が分かったかもしれないよ」

「なんだって……?」


 驚きにサンドイッチされる形となって、アルヴィンは食傷気味である。

 フェリシアの、翡翠を思わせる、深い緑色の瞳をまじまじと見つめる。

 冗談──では、ないようだ。


「本当なのか、フェリシア?」

「方法が分かるのと、出られるのはイコールではないんだけどね」


 フェリシアの物言いには、どこか含みがある。 

 彼女はアズラリエルを開いた。


 エマが落ち着くまでの間、熱心に目を通していたようだが……何かを見つけたのだろうか。

 細く長い指が紙面をなぞり、燐光を放つ文字が浮かび上がる。

 フェリシアは、やっぱり、と声を漏らした。


「おぼろげながら──だけど、この書に何が書いてあるのか、見えてきたよ。この書が迷宮から出る、鍵になるかもしれない」

「アズラリエルに、何が書かれてあるんだ?」

「一言で言うとね、世界の記録」

「記録……? 歴史書、なのか?」


 アルヴィンは思わず聞き返す。

 アズラリエルは、ベラナが最期に遺した言葉だ。

 そしてこの書を巡って、三人の枢機卿が命を落とした。


 二人は幻惑の魔女エブリアの手によって、一人はあの男の手によってだが……血なまぐさい争いの末、ようやく得られたものが歴史書とは……拍子抜けした感は否めない。


 クリスティーは、アズラリエルが白き魔女へと導くと言い残した。

 てっきり、強力な力を秘めた魔道書を想像していたのだが──


 フェリシアは神妙な顔で、首を横に振った。


「歴史書とは、少し違うかな。正確には、記録ではなくて、世界ができてからの記憶……が近いかもしれないね」

「どちらにしても、とんでもない書だな……」

「そうだね。でもね、こうも考えられるでしょ? 二百年前、禁書庫を造った当時のオルガナの記憶を見つけ出して、辿れば──」

「……! 迷宮の……法則も!?」

「そういうこと」


 満足げにフェリシアは笑う。


「ただし、気の遠くなるような情報量なんだ。目当ての記憶を探し出すのに、時間がかかると思う。ギリギリになるかもしれない」

「見つけるのが早いか、閉じ込められるのが早いか、か……」


 危うい賭け、である。

 だが他に有効な手がない以上、アズラリエルに賭けるしかない──


 と。アルヴィンは視線を落とした。

 エマが、祭服の袖を強く引っ張ったのだ。

 必死な顔で、何かを訴えかけている。


「エマ、どうしたんだ?」 


 小さな手が、海を指さした。 

 何気に見やり……アルヴィンは愕然とした。


 沖合に黒い壁がそそり立っていた。こちらへと、急接近してくる。

 アルヴィンは、顔を青ざめさせる。


 ──津波だった。

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