第30話 彷徨える子羊たち

 苦しく……ない。

 息ができる。

 そして、ほのかに明るい。 


 恐る恐る目を開け……息づかいが聞こえそうな距離に、フェリシアの顔がある。 


「──大丈夫かい?」

「ひっ!?」


 アルヴィンは、かっきり三メートルの距離を飛び退いた。

 心拍数が跳ね上がったのは、間近にあった紅唇のせい──では、決してない。見慣れぬ空間にいたからだ。

 神に誓って、そうである。


 そもそもフェリシアは、外見は見目麗しい銀髪の美女でも……中身は男なのだ。

 安全な距離を確保して、アルヴィンは叫ぶ。


「大丈夫だ! 問題ないっ!」

「だったらいいけど」


 アルヴィンの慌てぶりに、フェリシアはクスリと笑う。

 この状況下にあって、態度は悠々としたものだ。


「ほら、ボクの言ったとおりでしょ? 案ずるよりも産むが易し、ってね。ちゃんと無事に移動できたじゃないか」


 言われてアルヴィンは、自分たちが円形の空間にいることに気づく。学校の教室ほどの広さがある。

 殺風景ではあるが、少なくとも身の危険は感じない。


 目につくのは、東西南北に相当する位置にある、扉だ。

 そして、部屋の中央に螺旋階段がある。

 アルヴィンは冷静さを取り戻すと、階段へ歩みを進めた。


 のぞき込んだ途端、強風が吹き付け黒髪を揺らす。

 やはり、というべきか……アルヴィンは心中で暗澹たる気分になる。

 眼下に、数え切れないほどの階層が見える。


 上方にも、だ。

 先ほどの空間は廊下にそって、そしてここは階段にそって、無数の扉が存在するのだろう。 

 ポニーテールの髪先をはためかせながら、フェリシアが隣に立った。


「ハズレだったみたいだね。そう都合良く、一枚目で出られるとは思わなかったけど」

「それぞれの扉の先に、こんな空間があるのか? ……つくづく、とんでもない魔法だな」

「言ったでしょ? 面白みはないけれど、厄介だって」


 フェリシアは、軽く肩をすくめて見せる。

 迷宮を彷徨う当事者からすれば、厄介以外の何物でもない。


 螺旋階段から離れると、アルヴィンは入ってきた扉へと視線を転じた。

 そして、違和感を覚える。


「フェリシア、これを見てくれないか」


 変化は些細なものだ。

 だが……妙に胸がざわつく。


 扉につけられた銀のプレートには、1992番と刻印されていたはずだ。

 それが、8622番へと変化していたのだ。

 フェリシアも気づいたらしい。


「アルヴィン、戻ってみよう」


 扉を開くと、やはり黒い水面が現れる。

 今度は躊躇なく、二人は踏み込んだ。

 向こう側は──赤絨毯の引かれた廊下ではない。


「外に、出たのか……?」 


 そうアルヴィンが口にしたのは、無理からぬことだ。

 真っ先に目に飛び込んだのは、煌びやかな光である。


 花模様があしらわれたクリスタル製のシャンデリアが、黒大理石の床を照らしていた。

 壁際の円卓には、料理を盛り付けた皿が並ぶ。


 この空間に──見覚えがあった。


「アルビオの……公会堂じゃないか」


 アルヴィンは、唖然とするしかない。

 かつて仮面舞踏会が催され、不死の魔女と対峙した場所である。


 だが──なぜ?


 疑念とともに、違和感が湧き上がる。

 公会堂にしては……何かが、おかしい。


 よく見ればシャンデリアの配置はちぐはぐで、床から生えているものすらある。

 料理にしても、一度落としたものを拾い上げて皿に盛ったような酷いものだ。料理長が見れば、卒倒するに違いない。 

 そしてこの空間は……やはり奥へと、際限なく続く。


 アルヴィンは、フェリシアの顔を見た。


「ここはまだ、迷宮なのか?」

「残念だけど、そうみたいだね。ほら」


 彼女は壁際を指さした。

 本来窓に相当する位置に、扉がずらりと並んでいる。

 二人はまだ、迷宮の中にいるということなのだろう。


 フェリシアは、でたらめで奇妙な空間を前にして、しばらくの間黙考する。

 ややあって、言葉を選ぶようにして続けた。


「これはボクの推測、だけど……扉を移動すると、大陸のどこかにある空間を模した部屋が造られるんじゃないかな……?」

「模倣するにしては、随分雑な仕事だな」

「このスケールの魔法だもの。綻びのひとつや二つはあるよ。──あとね、別行動で扉を探すのは控えるべきだろうね。もし離ればなれになったら、二度と会えなくなるよ」


 フェリシアの懸念は、おそらく正しい。

 この部屋に入るために使用した8622番の扉は、6354番へと変化している。


 部屋を移動すると、扉の配置もリセットされるのだ。

 何かの拍子で、もしはぐれれば……再会は困難となるだろう。

 アルヴィンは秀眉をよせる。


 ひとつひとつ扉を確かめるような正攻法では、とても時間が足りない。

 だが、たった一枚を引き当てる強運を持ち合わせているわけでもない。

 だとすれば──この迷宮の法則を、解き明かすほかない。


 番号が振られているのならば、外へと至る法則があるはずだ。

 いや、そう思わせて、存在していない可能性もあり得るが…… 


 と。

 アルヴィンは、表情を変えた。

 解法が閃いたのではない。

 あり得ないものが目に入ったのだ。


 円卓の影に──足が、見えた。

 それは、小さな子供のものだ。


「……!?」

「どうしたんだい、アルヴィン!」


 アルヴィンは円卓へ駆け寄る。

 やはり見間違い、ではない。


「この子は……?」


 追いついたフェリシアが問う。

 アルヴィンは、黙って首を横に振るしかない。 

 二人しか居ないはずの迷宮に──十二歳ほどの少女が、倒れていたのだ。

 

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