第25話 大図書館の最奥で
「──運のいい小僧だ」
彼を嵌めた男は、口惜しげにそう言った。
だが運がいいとは、とても思えない。
おそらくここは、地下なのだろう。
足元をドブネズミが走り回る。
太陽の光が一切届かない空間は、湿気とカビ臭さで満たされている。
時折、水滴が落ちる廊下を歩かされながら、ベネットは視界の隅を見やる。
無数の牢がある。
感じられるのは息を押し殺したような気配と……絶望と恐怖だ。
この場所だけ、まるで暗黒時代に逆戻りしたかのようだ。
ベネットは戸惑いを隠せない。
神に最も近い神聖な聖都に、こんな施設が存在するなど聞いたことがない。
いや……地下に隠された、非合法の研究所……噂なら耳にしたことがあった。
数年前だ。
偉大なる試みと称される、狂気じみた計画が暴露され、枢機卿が失脚する事件があったらしい。
詳細は知らない。
計画に関与した施設は閉鎖されたというが──ここは、その一部なのではないか。
「入れ」
思索にふけっていたせいで、反応が遅れた。
背中を蹴りつけられ、ベネット冷たい床に倒れこむ。
「お前は実に運がいい。だが──今死ぬか、緩慢に死ぬか程度の差であろうがな」
不吉極まりない声とともに、鉄扉は閉じられる。
上体を起こし……ベネットは気づく。
牢には先客がいたらしい。
複数の、そして敵意のこもった視線が少年を刺し貫いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
夜の大図書館は、ひっそりと静まりかえっている。
無数の書架に収められた蔵書もまた、眠りについているかのようだ。
アルヴィンは、ゆっくりと周囲に視線をめぐらせる。
エウラリオの執務室を出て以降、処刑人の姿はない。見張りの気配すらない。
いや、見えないだけで監視されているはずだ。
これまでの経験からして、それは確信に近い。
アルヴィンは関係者以外立ち入り禁止区画の、さらに奥──大図書館の最奥にいる。
そこに、禁書庫がある。
黒檀で造られた、三メートル四方ほどの立方体である。表面は磨き込まれ、黒鏡のようだ。
実際に目にして、畏怖よりも驚きの感情が先立つ。
たった一冊の書、禁書アズラリエルを収め、いまだかって生きて還った者のない書庫──にしては、こじんまりとした印象は拭えない。
想像していたよりも、ずっと小さな造りだ。
だが、油断は禁物だろう。
あえて閉館まで待ったのは、不測の事態に備えるためである。
館内にいるのはアルヴィンと、颯爽とした美人といった印象のフェリシアだけだ。
……いや、もうひとり、招かれざる来訪者がいた。
「お前とかかわると、ロクなことにならん!」
ことさら大声で憤慨したのは……敢えて説明する必要もあるまい。
デリカシーに欠ける無遠慮さに、フェリシアは眉をしかめている。
「禁書庫に立ち入るなど、正気の沙汰ではないぞ! やめておけ!」
「……枢機卿ウルベルト、危険は百も承知です。ですが、僕の決意は変わりません」
厚い面の皮に不機嫌の三文字を貼りつけて、男は腹を揺らす。
「融通の利かん奴め。そこまで言うのなら、勝算はあるのだろうな!?」
「それは、なんとも」
アルヴィンは肩を軽くすくめた。
三日をかけて、二人は禁書庫に関する文献をしらみつぶしにあたった。
だが得られた情報といえば、二百年前にオルガナの手によって造られた……それくらいだ。
とはいえベネットを人質にされた今、あきらめる選択肢などない。
事情を察したのだろうか。
ウルベルトは鼻を鳴らすと、右手を差し出した。
それはおそらく……激励の握手、なのだろう。
アルヴィンは素直に感謝する。
憎まれ口を叩きつつも、本心では二人の身を案じているのだ。
差し出された手を握り……次の瞬間、身体が浮いた。
ウルベルトが、力任せに引き寄せたのだ。
熱く抱擁されるような格好となって、背筋に、ぞわりとした悪寒が這う。
「な、何をっ!?」
脂ぎった顔が急接近する。
思わず悲鳴を上げ──耳元に生じた囁きが、アルヴィンを真顔に戻させた。
「──オルガナが動いた」
「……!?」
「俺は、教皇猊下を目覚めさせる手段を探すつもりだ──」
それだけ告げると、解放される。
アルヴィンは、ウルベルトの顔を見た。
打算でしか動かないこの男が、引き留めや激励のために、わざわざ足を運ぶはずがない。
本当の用件は──これ、だったのか。
全てを理解して、アルヴィンは頭を下げた。
「枢機卿ウルベルト、ご忠告感謝します。あなたのお言葉を肝に銘じて、微力を尽くしますよ」
「礼などいらん。結果を出せ」
すでにウルベルトは背を向け、出口へと向かっている。
その背中に、アルヴィンは深々と一礼した。
何か通じ合った様子の二人を見て……事情を知らないフェリシアは気味悪げだ。
「……感動の激励会はおひらきなのかな? 時間は貴重なんだから、さっさと行こうよ」
実に正論である。
苦笑を浮かべながら、アルヴィンはフェリシアと肩を並べた。
黒檀の扉を前にして、彼女の横顔を見やる。
「フェリシア、君まで巻き込んでしまって、済まない」
「良いんだよ。他ならぬキミの頼みだしね」
禁書庫の危険性を、彼女には事前に話した。
永遠に還ることができなくなるかもしれないことも。
だがフェリシアは、気にかけた様子もない。
「危険があったらボクを守ってくれるでしょ? それに研究者として、アズラリエルに興味があるしね」
怖じけずいた様子もなく、しれっと言い切る辺り、審問官顔負けの度胸である。
「騎士に守られる姫君役も悪い気はしないし。危険を二人で乗り越えたら、愛がより深まるだろうしね!」
最後のくだりは、聞こえなかったことにする。
アルヴィンは祭服から、古びた真鍮の鍵を取り出した。
禁書庫で何が待ち受けているにしても──前に、進むしかない。
アルヴィンは、大きく息を吸った。
鍵を鍵穴に差し込む。
──禁書庫の扉が、開かれた。
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