第6話 仰げば尊し

 引き返さず尖塔を駆け上がれば、勝利はアルヴィンのものとなっただろう。


 ──みすみすチャンスを捨てるなんて、甘すぎる!


 双子がいれば、非難の声を上げたに違いない。

 だが……ひとりうずくまった彼女を、見捨てることなどできない。


「……これは何の真似ですか……」 

「階段までだ! あそこは死角になる!」


 すぐ脇を本がかすめ飛ぶ中で、ベアトリクスに肩を貸す。

 階段へ、二人は必死に走る。

 無傷でたどり着けたのは、神の加護があったとしか思えない。 

 アルヴィンは安堵のため息を漏らしながら、ベアトリクスを見やった。


「怪我は?」

「……優しいのですね」


 続いたのは──だが、感謝の言葉などではない。

 カミソリのように鋭い回し蹴りである。

 

 ベアトリクスが放った一撃を、アルヴィンはかろうじて躱す。

 ただし回避できたのは、その一蹴りだけだ。

 すでに疲労の極にあった身体は、超過労働を強いられてよろめく。


 体勢が崩れ、間髪を入れずに放たれた正拳突きが、みぞおちに突き刺さった。

 容赦のない打撃に、表情が歪む。


「──でもあなたには、無様な姿の方が似合うわ」


 散々な返礼である。

 床に手を突いたアルヴィンを、ベアトリクスは冷淡に見下ろす。



 よろよろと、腹部を押さえながら立ち上がった時……彼女の姿は、どこにもない。

 階段を駆け上がる足音が、遙か上方から響く。


「くそっ!」


 こみ上げた怒りは、彼女に対してではない。

 咄嗟の状況に対応できなかった、未熟な自分に対してだ。

 アルヴィンは拳を強く握った。


 勝負を、まだ諦めるわけにはいかない。

 呼吸を整え、すぐさま後を追う。


 石造りの薄暗い階段を、二段飛ばしで駆け上がる。

 螺旋状の階段を一心不乱に上り……突然、視界が白一色に染まった。

 同時に強風が襲いかかり、思わず目を閉じる。


 最上階の鐘楼へと出たのだと、半瞬遅れて気づく。

 まぶしい太陽の光が差し込んでいた。目が慣れると、深い緑の中に点在する校舎と、湖の全景が見渡せる。

 地上に目を転じれば、人が米粒ほどの大きさにしか見えない。


 身体がすくみ、目がくらむような高さである。 

 そして……階段を使えるのは、ここまでだ。


 この先は青銅製の屋根を、よじ登る他ない。

 円錐形の屋根は急な傾斜を描き、天に向かって伸びる。先端に十メートルほどの細い円柱があり……黄金に輝く大天使は、その頂点で翼を広げている。


 ベアトリクスは、既に柱の基部に取りついていた。

 アルヴィンは、躊躇なく緑青色の屋根に上がった。


 少しでも気を抜けば、足を滑らせそうになる。

 バランスを崩せば数十メートル下の石畳まで真っ逆さまだ。


 慎重に、そして可能な限り早く。

 アルヴィンはなんとか柱の基部へと辿り着く。


 大天使の像を頂く柱は、想像していたよりも細く頼りない。

 柱には等間隔で小さな突起がある。

 そこに足をかけて登れ、ということなのだろう。


「──ベアトリクス!」


 振動と強風で、柱は大きく揺れている。今にも折れそうなほどだ。

 アルヴィンの頭の中で、危険の二文字が激しく点灯した。


「話を聞いてくれ! そこから降りるんだっ!」

「怖いのなら、そこで見ていらっしゃい! これは、あなたのためよ!」 

「そうじゃない! 柱が──って、僕のためってどういう意味だ!?」 

「白々しいことを言わないで! 手紙を読んだのでしょ!?」


 あの鉄の女が、感情を露わにしながら叫び返してくる──アルヴィンは驚きを隠せない。

 挑戦状ならエルシアが持ったままで、目は通していない。

 だが書いてあることなら、大体察しがつく。


 暗澹たる気分で頭上を仰ぎ見て……アルヴィンは、言葉を失った。

 視線が釘付けになった。

 オルガナの女子の制服は、スカートである。


 ベアトリクスは彼の頭上にいる。

 強風でスカートの裾がはためき……均整のとれた脚が露わになった。

 それだけではない。黒いタイツで覆われた太ももの、さらに奥の──


「ウッ!!」


 罪深い光景に、アルヴィンは思わずうめき声を上げた。

 双子から普段、干し大根と嘲笑される男にとって、それは刺激が強すぎた。


 上へ。

 とにかく彼女よりも、上へ。  


 この煩悩の世界から抜け出すには、彼女を見上げる位置から脱する他ない。

 アルヴィンは柱に足をかけると、驚異的な速度でベアトリクスを抜き去った。

 あっという間に頂上に達する。


 黄金に輝く大天使ラジエルを目の前にする。

 そして……アルヴィンののぼせた頭が、スッと冷静さを取り戻した。 

 違和感があった。


「──?」


 像の首元に、ロザリオがかけられていたのだ。

 最近のものではない。長い歳月を経たのだろう、錆が浮かび朽ちかけている。


 腕をのばし、そっと裏返す。

 うっすらと、アーロンの名が読み取れた──


「あっ!!」


 生じた悲鳴は、アルヴィンのものではない。

 同時に足元で、パキッ! と何かが折れる音がした。

 腐食していたのだろう、ベアトリクスが足をかけていた突起が折れたのだ。


 バランスを崩した彼女は、宙に投げ出された。

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