第19話 鏡の国の魔女
「いいことを思いついたわ」
魔女は鼻歌を口ずさむかのように、朗らかに宣言する。
「あなたを切り刻んで、教会の連中への見せしめにするの。いいアイデアだと思わない?」
思わない。断じて思うはずがない。
だがベネットの意見など、元より必要とされていなかったようだ。
空気がゆらりと動いた。
ベネットに知覚できたのは、それだけだ。
魔女が放った斬撃は、一瞬で少年に達した。まさに不可視の一撃だった。
避けることができたのは、神の導きという他ない。
短剣が首を飛ばす寸前、床に落ちた生地に足を取られたのだ。
転倒したベネットの頭上を、天国への特急券が通り過ぎていく。
──全く見えなかった! なんて打ち込みだ!
ベネットは床にへたりこみ、慄然とする。
生まれて初めて死に直面して、少年は心の底から恐怖した。
プライドをかなぐり捨て、無様に床を這いつくばって逃げ出す。
「あら、どこに行くというの?」
魔女は口許に嘲笑を浮かべた。
ことさらゆっくりとした足取りで、ベネットを追いかける。
当然だ。
狭い店内に、逃げ場などない。
走るまでもなく、容易く追い詰められるのだ。
──どこだ! 拳銃はどこなんだ!? どこに落としたんだっ!?
ベネットは四つん這いのまま、必死に拳銃を探す。
極度の焦燥感に襲われて、心臓は早鐘のように打っていた。
拳銃は見当たらない。
魔女を駆逐するには、武器が必要だ。
だが同時に……頭の片隅に疑念がわき上がった。
昨夜、凶音の魔女に銃弾を命中させた。
狙いは正確だった。致命傷を負わせたはずだ。
それなのに何故、魔女は生きているのか。
──拳銃では、奴を倒せない……? いや、そうじゃない! 何か大事なことを見落としているんだ!!
それが分からなければ、拳銃があったところで結果は同じだ。
「つ~かま~えた♪」
場違いに明るい声が、ベネットの心を凍りつかせた。
身体が釘で打たれたかのように、ピタリと動かなくなる。
振り返り……少年は絶望的なうめき声を上げた。
魔女が彼の足を掴み、睥睨していた。
次の瞬間、ベネットは宙づりにされた。
それっ、という声とともに、壁へ叩きつけられる。
もはや悲鳴を上げる余力すらない。
抗いようのない暴風のような力の前に、為す術もない。
──こんなの無理だっ! 圧倒的じゃないか!
ベネットはずるずると壁からずり落ちると、力なく寄りかかる。
「そろそろお開きにしましょうかしらね?」
魔女はゆっくりと近づいていくる。
ベネットは歯ぎしりをした。
……浅はか、だった。
自分だって師のように魔女を駆逐できると、高をくくっていた。
だが結果は……この有様だ。
オルガナ首席の肩書きは、実戦で彼を助けてはくれない。
──どうすればいい!? 考えろ! 考えろ、ベネット! このままじゃ、なぶり殺しにされる!!
その時だ。
掌に痛みが走った。
周囲にガラス片が飛散していた。ショーウインドウに叩きつけられた時のものだろう。
よく見ると、ベネットの顔が映り込んでいる。
酷い顔だ。
髪は乱れ、額には血が滲んでいた。
若獅子のように生気と自信に満ちあふれていた秀麗な顔には、悲愴感が漂っている。
まるでボロ雑巾のようだ──ベネットは自嘲する。
そして、ふと違和感を覚える。
ガラス片には彼が映っていた。
いや、彼しか映っていなかった。
あるべき魔女の姿が……ない。
「……!?」
ベネットはハッと息を呑む。
ある可能性に思い至り、ガラス片をかざす。
やはり魔女の姿は映らない。
代わりに店の入り口に近い、誰もいないはずの空間──ガラス片はそこに、ローブを目深に被った老婆を映し出した。
──凶音の魔女は幻で……本体は奴なのかっ!?
老婆も勘づいたのだろう。
店の外へ向かって身を翻した。その行動が、ベネットに確信を与えた。
トドメを刺そうと、短剣を手にした魔女が急迫する。
瓶の底に僅かに残されたような幸運が、少年に最期のチャンスを与えた。
マネキンの残骸の下に……拳銃が見えた。
考えている間はない。ベネットは反射的に動いた。
過重労働に全身が抗議の声を上げるのを無視し、拳銃へ飛びつく。
魔女が短剣を振り上げる。
照準する余裕などない。撃てるのは、せいぜい一発だ。
店の出入り口──誰も居ない虚空に向けて、引き金を絞る。
同時に凶刃の切っ先が、振り下ろされた。
ベネットは強く目を閉じた。
無慈悲な一撃が急所を貫いた。
悲鳴が上がり、ドサッ、という音とともに床に崩れ落ちる。
致命傷だった。
ベネットが……では、ない。
恐る恐る開けた目に、入り口で倒れ伏した老婆の姿が映った。
銃弾は、老婆を射貫いていた。
凶音の魔女は、忽然とかき消えている。
「は……ははっ……」
ベネットは、乾いた笑みを漏らした。
死線を切り抜けた。
ぎりぎりの戦いだった。ほんの僅かな差が、生死を分けた。
「……私にも……できたっ……!」
肩で息を継ぐベネットは、まさに満身創痍だ。
だが今は、成し遂げた達成感の方が大きい。
手の力が抜け、拳銃が落ちた。
そしてベネットは──心地よく気絶した。
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