第8話 黄昏と炎の先に

 投じられたのは──磁器の水差しである。

 躱すことは容易い。

 だがアルヴィンは、あえて避けなかった。

 背後にベネットがいたからだ。


 水差しは肩に当たり、鈍痛を残す。

 床に落ちた磁器は割れず、漏れ出た水が絨毯を濡らした。

 アルヴィンは薄暗い室内に目を凝らす。


 右手の壁に、エウラリオの執務室と同じように宗教画が飾られていた。

 壺を抱えた男が、乾いた大地に水を注ぐ絵だ。

 その人物は確か……修道士ジョセフ、だっただろうか。 

 一介の修道士でありながら荒れ地だった聖都に水を引き、緑の地に変えたとされる聖人だ。


「何度来ても同じことだ。帰れ!」


 鋭い声が響き、アルヴィンは注意を正面に向けた。

 暗さに慣れてきた目に、天蓋付きのベッドが映った。 

 そこに上半身を起こした人影がある。

 その姿を目にして、驚きはない。


 半ば予想していた通り──大人、ではない。

 エウラリオとそう変わらない齢の、あどけない顔をした少年がいる。


「……枢機卿マリノでいらっしゃいますね?」

「私を消しに来たのか!」


 薄闇の中で、少年は声を荒げた。

 奇妙なことだった。

 処刑人は枢機卿の忠実な手先のはずである。

 だがマリノは、処刑人の白い祭服を纏ったアルヴィンを恐れているように感じられる。


「何を怯えていらっしゃるのですか」

「怯えてなどおらぬ!」


 それが虚勢であることは、誰の目から見ても明らかだ。

 アルヴィンは仮面を外すと、少年に向けて丁寧に腰を折った。


「僕は訳あって処刑人となりましたが、あなたに危害を加えるつもりはありません。昨夜の状況を訊かせていただけませんか」


 その返答は、態度から察するに否なのだろう。

 枕元にあった真鍮製の置き時計を、マリノが手にしたからだ。

 見るからに高価そうだが……投げつけるつもりに違いない。

 ベネットが進み出る。


「アルヴィン師、私に任せてください」

「ダメだ」 


 アルヴィンは首を横に振った。ほぼ即答だった。

 まがりなりにも、相手は枢機卿である。

 自信に満ちたベネットの声に、かえって不安が膨らむ。

 その時だ。


 置き時計が、ごろりと床に転がった。

 投げつけられたのではない。マリノの手から滑り落ちたのだ。


「お前は……アルヴィンなのか!?」


 初対面、のはずである。

 だが少年は、驚愕で目と口を大きく開いていた。


「そうですが……どこかで、お目にかかったでしょうか?」

「お前はベラナの弟子の、アルヴィンで間違いないのだな!?」


 問いかけは、前のめりになった問いかけよって返される。

 枢機卿の様子に、アルヴィンは呆気にとられた。


「確かに僕は、上級審問官ベラナの弟子です。師を、ご存知なのですか」

「知っておるさ! とんだ跳ねっ返りを弟子にしたと、手紙が届いたことがある。いつか聖都へ現れるだろう、ともな」

「ベラナ師が……僕のことを? どうしてあなたに?」

「奴とはオルガナの同期だったのだ。知友でもあった」


 二つの意味で、驚きだった。

 あのベラナが、いつかアルヴィンが聖都へ現れるだろうとマリノへ伝えていたこと。

 そして──


「オルガナの同期? ですが、あなたは──」

「七十二歳になる」


 アルヴィンの声を、少年は自嘲気味に遮った。

 ベッドの上に上半身を起こしたマリノは、どう見ても十歳程の子供にしか見えない。

 少年は眉間に、年齢に不釣り合いな深い皺を刻んだ。


「誤解するのは無理からぬことだ。ウルベルトを除いた枢機卿は皆、本来の姿を偽っておるのだ」


 その告白に驚きはない。

 まさか、よりも、やはりという思いが強い。


 ──偉大なる試み。


 三年前、リベリオから訊かされた、狂った計画が頭に甦る。

 それは人の不死化を目的とした、非合法の研究だ。 

 最悪の想像に、アルヴィンは声を固くした。


「つまりあなたがたは……不死を達成した、ということですか?」

「だとすれば、暗殺などされまい? 私が惨めに軟禁されることもなかったはずだ」


 不死は、未だ達成されていない。

 アルヴィンは思わず安堵する。

 そしてマリノが口にした軟禁──護衛の処刑人らから感じ取った違和感の正体に気づき、ハッとさせられる。


 一枚岩に見えた枢機卿派には、実は綻びがあるのではないか……

 アルヴィンは真剣な眼差しをマリノに向けた。


「師が友であったとおっしゃるなら、協力していただけませんか。僕には、あなたの力が必要です」


 それはマリノ自身の安全にも資する。

 だが……小さな枢機卿は沈黙した。

 表情の中に、複雑な迷いが見てとれた。

 床に転がった時計の秒針が五度目の円を描いたとき、ようやくその口を開く。


「ベラナの弟子よ、力は貸せぬ。悪いことは言わん、すぐに聖都を去れ」

 

 



「──これで良かったのですか?」


 前を歩くベネットが軽く振り返った。

 邸宅を出た時、すっかり日は暮れていた。

 門に向かって歩みを進めながら、アルヴィンは答える。


「無理に聞き出すことはできない。また出直すさ」

「私に任せてくだされば、すぐに口を割らせますが」

「……結果を急げば事を仕損じる。審問官を目指すのなら、冷静に見極めて行動することだ」 


 アルヴィンは嘆息する。

 枢機卿の口を割らせるなど、どこまでも不遜な教え子である。

 彼の教えはベネットの心に届いているのだろうか。

 少なくとも、不服そうな感情は隠せていないが……


 自身の能力を、少年は過信しすぎている。

 将来、仇となることがなければいいが──そんな憂いを、アルヴィンは抱く。 

 と。


「──アルヴィン師!」


 ベネットが警告を発したのと同時だった。

 バリバリと空気が震え、地面が大きく揺れた。

 庭園に、炎と黒煙が上がった。

 夜闇を焦がしながら飛来したのは──火球、である。


「魔女の襲撃だ!」


 怒声が上がり、処刑人が武器を抜く。

 ベネットは顔に緊張をみなぎらせた。


「私たちも加勢しましょう!」


 その声は……だが、師には届いていない。

 じっとあらぬ方向を凝視し、立ち尽くしている。


「アルヴィン師!?」


 アルヴィンの双眸には、混乱に乗じて邸宅へ侵入する、女の後ろ姿が映っている。


 その髪は、艶やかな──ダークブロンドだった。


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