第55話 旅立ちの朝に

 風はまだ冷たい。

 息を切らしながら、街を走る。

 アルビオを水の都、と揶揄する者も一部にはいるらしい。だが未曾有の大水害に見舞われた街は、確実に復興しつつあった。


 郊外の墓地へと続く道沿いには、ゼラニウムやネモフィラの花が咲いていた。春の訪れは、もう間もなくに違いない。


 ──大水害の後、巨人を見たという噂が流れた。


 だが無責任な流言は教会によって封殺され、魔女の介在についても公式に否定されている。

 教会と市警察の初動が的確に行われたことにより、災害の規模に反して犠牲者の数は僅かで済んだ。 

 その多くは、市民を避難させる途上で殉教した聖職者たちだ。


 教会は一夜にして、二人の上級審問官と三十名近い審問官を失ったとされる。

 その立て直しには、数年を要するだろう──


 呆れたことではあるが、彼の指導官にはその辺りの切迫感が明らかに欠如していた。

 優秀、ではあるらしい。

 ただし抜けている点の方が、遙かに多い。

 そもそも、こんな大事な日にどこへ行ったというのか──

 墓地には、薄く朝靄がかかっていた。目当ての人物を見つけ、彼は手を振った。


「──審問官アルヴィン!」


 呼びかけに、痩身の、黒髪の男が振り向いた。

 その顔は、幾分か大人びていた。


 ──アルビオを未曾有の大水害が襲ってから、三年が経っていた。


「ベネットか。どうした?」

「どうした? じゃ、ありませんっ! 今日が何の日かお忘れですか!? 審問官アリシアとエルシアがお待ちですよ!」


 今にも噛みついてきそうな勢いの見習いの少年に、どちらが指導官か分からないな、とアルヴィンは内心で苦笑する。

 もちろん、忘れてなどいない。

 今日は、聖都へと発つ日だ。 

 一週間前、聖都への転任の辞令を受けとった。再三提出した転任願いが、よくやく認められたのだ。


 いわゆるアルビオ大水害の後、聖都の教皇派は猛烈な巻き返しを図った。

 メアリーの証言によって偉大なる試みが白日の下にさらけ出され、研究所は直ちに閉鎖された。

 計画に加担した枢機卿らは拘束され、有罪とされた。 

 ただし──反撃は、そこまでだった。


 粛正が行われる、まさにその日の朝、教皇が再び昏睡に陥ったのだ。以前よりも、はるかに強固な眠りの呪いを受けて。

 結果として、教皇派の巻き返しは頓挫した。教会の実権を握るのは、依然として不死を目指す枢機卿たちである。


 審問官となったアルヴィンは、聖都を目指すことを誓った。

 それは、過去との決着をつけるためだ。

 父に手を下したのはベラナであっても、背後で黒い糸を引いていたのは枢機卿たちなのだ。


 そして……彼女を、探すためでもある。 

 事件の後、アルヴィンは遺体を探し続けた。

 だが塔の崩壊に巻き込まれた彼女を、ついに見つけることはできなかった。

 後日訪れた診療所は、もぬけの殻となっていた。エレンも、あれから行方不明だ。

 それは彼に、彼女が生きているという確信を深めさせた。


 ベラナが死の間際に言い残したアズラリエル──

 それに繋がる手がかりが聖都にあることを、アルヴィンは突き止めていた。

 彼女が姿を消した理由は、分からない。

 だが……真実へと近づく途上に、必ずいるはずだ。


「アルヴィン!? いつまで待たせる気なのっ!?」

「時間は有限なのです! さっさと来るのです!」


 けたたましい双子の声が、墓地の粛然とした空気を破った。

 どうやらせっかちな先輩方が、しびれを切らしてやってきたらしい。 

 アルヴィンは小さく嘆息した。

 これでは、別れの挨拶もままならない。

 彼はそっと墓石の前に、使い古された黒い革表紙の聖書を置いた。


「……貴方の教えは忘れません。全てが終わったら、また来ます」


 胸元で十字を切り、アルヴィンは静かに呟く。

 短い祈りの後、彼は墓所を後にした。ふと見上げた空には、雲ひとつなかった。


 風はまだ冷たい。

 だが今は、それが心地良い。

 アルヴィンはやれやれと苦笑しながら、騒がしい双子の元へと足を向けた。





 第一部 完

(第二部 聖都編につづく)

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