第54話 それでも夜は明ける

「──魔鈴で、原初の魔女は支配できぬ」


 大聖堂に隣接する居住棟を、四人は胸元まで水につかりながら進む。洪水は引くどころか、ますます水位を上げていた。


「魔鈴とは元来、人の理性を支配し隷従させるものだ。肉体が朽ち数百年を経た彼女らに、もはや理性など残っておるはずがない」


 なぜあの時ベラナが追跡を止めさせたのか……アルヴィンはその理由を理解した。

 そして隻眼の上級審問官が迎えたであろう結末にも、おおよそ察しがつく。


「……どうしたのです?」


 ふと、エルシアは怪訝な顔で尋ねた。

 アルヴィンは足を止めると、背後の扉をじっと見やったのだ。チリチリとした、棘のある違和感が急迫していた。

 不気味、としか形容しがたい音が鳴り響いた。


 半瞬の間をおいて、扉の蝶番がはじけ飛んだ。圧倒的な力が扉を吹き飛ばし、居住棟へ濁流が流れ込む。

 津波が押し寄せたのかと、錯覚するほどの水量だ。


「上へ! 急ぐのですっ!」


 焦りの声をエルシアがあげた。

 アルヴィンはベラナを、エルシアはアリシアに肩を貸しながら、階段を上がる。

 黒く濁った水がみるみるうちに高さを増し、四人に追いすがった。二階に上がっても尚、勢いは衰えない。


 さらに上へ。三階に達した時、ようやくしつこい追跡者は魔手を収めた。 

 そして、アルヴィンは呻く。廊下の窓越しに飛び込んだ光景に、唖然とする他ない。


 巨人の姿はどこにもない。その代わり、街は見渡す限り水没していた。 

 あれほど猛威を振るった雨と風は、ぴたりと止み、急速に雨雲が引いていく。

 そして──山影に、月が没しようとしていた。


 信じがたいことに、鐘塔が傾いたように見えた。

 それは錯覚などではない。


 魔力の源泉は、月だ。 

 月が没すれば、魔女は魔法を使うことができない。

 半壊した塔は、クリスティーの魔力によってかろうじて支えられていたのだろう。

 彼女が力を喪失した今、崩壊を始めたのだ。


「クリスティー!」


 崩壊に巻き込まれれば、いくら彼女とて無事ではいられまい。

 アルヴィンは走りだそうとし──その鼻先を、鋼製の矢が掠めた。


「!?」


 壁に矢が、深々と突き刺さる。前触れのない殺意の投射に、思わず息を呑む。

 視線の先に、クロスボウを構えた男が立っていた。憤怒を両眼に燃え上がらせ、粗暴な声が響く。


「アルヴィンっ!! よくも俺をコケにしてくれたな!」


 廊下の中程に立っていたのは──リベリオ、だ。白い祭服は泥で汚れ、髪は乱れている。

 息を潜め、じっと機を窺っていたのか……呆れた執念深さだ。

 残念なことに、主導権は男の手にあった。引きつった笑みを浮かべ、狙いをアルヴィンに定める。

 尖った金属音と共に、復讐の矢が放たれた。


「──伏せろっ!」


 有無を言わせない力を受け、アルヴィンは床に押し倒された。矢は──受けていない。

 受けたのは、ベラナだ。老人の胸が見る間に赤く染まった。


「あいつ!!」


 エルシアが拳銃を抜いた。直後、リベリオの右肩を撃ち抜く。

 不利を悟ると、男は恥も外聞もなくクロスボウを投げ捨てた。脱兎のごとく駆け、手近な窓を破る。


「このままでは済まさんぞっ! 覚えていろ!」


 個性の欠片もない捨て台詞を吐くと、躊躇なく三階から身を投げ出す。

 エルシアがすぐさま追撃した。だが……外は濁流が渦巻いており、リベリオの姿を見出すことはできない。

 それ以上の追跡は、諦めるほかなかった。

 彼女の背後で、より切迫した事態が進展していた。

 

「上級審問官ベラナ!」


 アルヴィンは床に倒れた老人を抱え起こし、叫ぶ。

 息は荒く、顔は蒼白となっていた。

 リベリオは矢に、致死性の毒を塗布していたのだろう。一目見て……瀕死の状態だった。


「なぜ僕を庇ったんです!?」


 もう一度叫んだとき、老人は目を大きく見開いた。そして猛然と、アルヴィンの襟首を掴む。

 その顔には、後悔の念が深く刻まれていた。発せられたのは、懺悔にも似た訴えだ。


「信じてくれ、アーロンっ!!」


 その言葉に、アルヴィンは耳を疑った。


「ぼ、僕は……」

「……裏切る気は……なかった! 魔鈴の力に抗えなかった!」


 アルヴィンは、咄嗟に言葉が出ない。

 死の間際、老人は彼の持つ面影の中に、別の何者かを見ているようだった。

 普段強い眼光を宿した老人の双眸は、弱々しいものとなる。


「…………許してくれ……!」


 老人の哀願に、彼は思わず顔を背けた。

 ベラナが父の命を奪った──それが魔鈴に支配された結果であったとしても──アルヴィンは平静ではいられない。

 ありったけの憎しみの言葉を吐きかけるべきなのか。

 ……いや、そうではない。

 葛藤は、僅かな時間だった。

 アルヴィンは、襟首を掴む手を握り返した。


「――あなたを、許します」


 そう静かに告げる。

 死の淵にある老人を前にして、自然と許しの言葉が出た。


「……すまない……」


 悔恨に満ちたベラナの表情が、和らいだ。同時に手の力が、フッと弱くなる。


「ひとつ教えてください」


 アルヴィンは声に、力を込めた。 

 彼がベラナに師事した目的、それがまだ果たされていなかった。

 全ての始まりとなった、魔女の居場所だ。


「──彼女を、どこに幽閉したのですか」

「……彼女……?」

「白き魔女です」

「……私は幽閉……など……していない……」

「幽閉……していない……?」


 アルヴィンは困惑した。

 十年前、ベラナは白き魔女を大陸のどこかへ幽閉した。アルヴィンとクリスティーは、そう考えていた。

 だが……老人の口から語られた真相は、真逆のものだ。

 ベラナの声は力を失い、途切れ途切れになっていく。


「……あの時……私は返り討ちに……は自分の意思……姿を隠し…………」

「彼女は、自分の意志で姿を隠したのですか? どこにです!?」

「……アズ……エ……ル……」


 もはや声は、聞き取れないほど小さい。

 アルヴィンはかろうじて唇の動きを読み取った。


 ──アズラリエル。


 それが最期の言葉だった。

 上級審問官ベラナは、静かに息を引き取った。 

 夜の終わりを告げる旭光が差し込み、アルヴィンは顔を伏せた。 

 真実を知るために支払った代償は、あまりにも大きかった。


 アルビオのいちばん長い夜は、終わった。

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