第44話 生と死の境界で 1

 地下へと向かう。

 長く続く階段は、焦りともどかしさを強くさせる。駆け下りたい衝動を抑えながら、怪しまれないぎりぎりの早さで降りる。


 双子と同様、アルヴィンも仮面をつけ、処刑人の白い祭服を着ていた。

 胸元のホルスターに収めた拳銃は、普段よりも重たく感じられる。

 無理もない。装填されているのは模擬弾ではなく、実弾だからだ。人を殺傷する力を得た凶器は、高揚感よりも、むしろ気分を暗然としたものにさせた。


 まとわりつくような陰湿さを帯びた地下に降りて、アルヴィンは足を止めた。

 幸い、というべきか。ここまで誰かとすれ違うことも、誰何の声が投げかけられることもなかった。

 そのことにアルヴィンは、安堵よりも胸騒ぎを覚える。


 水牢の前には、本来いるべきはずの牢番の姿もない。

 怠慢、ではあるまい。

 それは囚人の不在……彼女の身に、何かがあったことを意味するのではないか。


「──それとも罠、か」


 アルヴィンは独語する。

 心の中で、警鐘が打ち鳴らされていた。

 油断なく周囲の気配を探りながら、拳銃を抜く。牢に鍵はかかっていなかった。


 重い鉄製の扉を押し開き、アルヴィンは言葉を失った。

 胸騒ぎが現実のものとなって、彼の心臓は凍り付いた。

 牢には踝ほどの高さで、浅く水が張られている。その中程で……クリスティーが倒れ伏していた。周囲の水面を、赤黒く染めて。


「クリスティー!」


 アルヴィンは駆け寄り──だが、直感が足を止めさせた。

 牢内を、拭いようのない違和感が満たしていた。

 それに気づいたのは、幸運としか言い様がない。廊下から差し込んだ明かりが、隠れた凶器の存在を知らせたのだ。


 目の前、だ。

 目の前に黒塗りの鋼線が、張られていた。あと一歩踏み込んでいたら、首を落としていたかもしれない。


 ──やはり、罠か。


「あなたが、やったのですか?」


 憤りを込めて、アルヴィンは息を吐き出す。

 死角に潜んでいた処刑人に、容赦のない目を向けた。口調こそ丁寧だが、声はただならぬ怒気をはらんでいる。


「僕は急いでいるんです。邪魔をしないでもらいましょうか」


 返答は、ない。

 代わりに、ヒリヒリとした殺意の波動が照射された。沈黙したまま、男の手が動く。

 数本の鋼線が、水中から跳ね上がった。


 不吉な風切り音が空気を震わせ、アルヴィンを襲う。僅かでも触れれば、ただですまないことは明白だ。

 鋼線は細く、暗がりの中ではほぼ視認できない。

 不可視の攻撃を、アルヴィンは直感だけで回避する。


 跳躍し、銃口を処刑人に向けた。引き金を引くことに、躊躇はない。 

 牢内に閃光が走り、銃声が轟く。

 処刑人は──傷一つ負わずに、立っている。銃弾が命中したのは、天井だ。


「ちっ……!」


 アルヴィンは自分の冒した失態に舌打ちした。

 予想外の方向から伸びた鋼線が銃身に絡み、射線を狂わせたのだ。拳銃は手から弾かれ、水没している。

 致命的なミスだった。


 拳銃以外の武器は携行していない。素手で、鋼線を操る処刑人と戦うのは分が悪すぎる。

 数本の鋼線が、アルヴィンを取り囲んだ。数秒も要さずに肉塊へと変わることだろう。

 おぞましい未来に、思わず身を固くし……足先に、何かが触れた。


「……!?」


 処刑人を睨みつけたまま、それが何であるのか、全意識を集中する。 


「終わりだ」


 嘲笑とともに、男はかすれた声を漏らした。

 死の包囲が、狭まった。

 一か八か。

 咄嗟にアルヴィンは、それを蹴り上げた。 


 ……結論から言えば、賭けは負けだった。ただし、処刑人の負けだ。 

 水しぶきと共に目の高さまで跳ね上げられたのは、短剣だ。

 スローモーションのように跳び上がったそれを掴むと、アルヴィンは手首を一閃させた。


 処刑人の額に、短剣が深々と突き刺さる。

 何が起きたかすら、男は理解できなかっただろう。

 悲鳴すら上げることなく、崩れ落ちる。同時に鋼線が力を失い、水面を叩いた。

 ……処刑人に投げつけた短剣には、見覚えがあった。


 クリスティーを審問した際、リベリオから耳を削げと手渡されたものだ。拒否し、投げ捨てたものが残っていたのだ。

 思わぬ形で、あの男に救われるとは……皮肉なものである。


 アルヴィンは意識をクリスティーに戻すと、駆け寄った。


「クリスティー!」


 跪き、上体を抱え起こす。

 呼びかけに、反応はない。血の気の失せた顔は、蝋人形のように青白い。 

 腹部に負った傷は、一目見て深かった。

 遅かった、のか……。

 アルヴィンの胸に、強い悔恨の念が湧き上がった。


 ──もっと早く駆けつけていれば。

 ──あの時、街から去るように、強く説得していれば。


 いや、そうではない。アルヴィンは強く首を振った。

 それらは末節に過ぎず、真因ではない。

 取引を解消したこと、クリスティーを信じることができなかった自分の弱さこそが、この結果を招いたのだ。

 彼女はリベリオから、彼を守ろうとしたというのに。


「僕は、とんだ愚か者だ……」


 きらりとしたものが、頬を伝った。氷のように冷え切った、クリスティーの手を握る。

 白く細い手が、僅かに動いたような気がした。

 気のせい……ではない。弱々しい力だが、確かに手が握り返される。


「!?」 


 クリスティーの胸が、僅かに上下していた。


 ──まだ息がある!


 アルヴィンは、クリスティーを抱き上げた。濡れそぼった身体は、驚くほど華奢で軽い。

 リベリオは、この水牢が魔法の発動を制限すると話していた。彼女を外へ出せば、あるいは──

 牢を出ると、一縷の望みを抱いて廊下に横たえる。


 そしてアルヴィンは、声の限り叫んだのだ。

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