第3話 未知との遭遇
── 午前四時過ぎ。
オルガナは、深い眠りの底にある。
薄暗い廊下を、アルヴィンは気配を殺して足早に歩く。
すれ違う者は、いない。
当然だ。もし誰何の声をかけられれば、それは退学を意味する。誰かと遭遇することなど、あってはならないのだ。
しばらくして、アルヴィンは厨房の前に立った。
注意深く辺りを見回し── 気配は、ない。
アルヴィンは安堵すると同時に、ふつふつと怒りが湧いてくるのを感じた。
今頃、あの双子は幸せな夢の中だろう。
彼女らの好奇心を満足させるために、なぜ自分が退学の危険を冒さねばならないのか……
憤懣やるかたないが、前に進まないことには終わらない。
アルヴィンは、ノブに手をかける。
冷厳な雰囲気をまとった扉は、意外なほどあっさりと開いた。
僅かな隙間に、するりと身体を滑り込ませる。できるだけ音をたてないようにしながら、厨房へと忍び込んだ。
この時間帯、婦人は一人で朝食の支度をしているはずだ。
手近な調理台の影に伏せ、アルヴィンは神経を研ぎ澄ました。
万に一つもはないだろうが── もし、トワイライト婦人が魔女であった場合、速やかに教官へ通報しなくてはならない。
深入りは禁物だ。
そしてアルヴィンは厨房を満たした、唯ならぬ違和感に気づく。この空間にいるのは、婦人だけのはずだ。
そのはずだが……仕込みの音、食器を準備する音、鍋を煮込む音、複数の作業音が耳に入る。
まさかアリシアの推理通り、”魔法”なのか。
現認しようと、身を乗り出し──
その人物と、目があってしまった。
ピンクのエプロンと三角巾をつけ、ボウルに入った卵黄をかきまぜている人物は──
トワイライト婦人、ではない。
「ヴィクトル教官!?」
素っ頓狂な声をアルヴィンは上げる。
ピンクエプロンの男は、驚きに目を丸くし、次に恥じ入ったように顔を伏せ、最後に鬼の形相でアルヴィンを睨みつけた。
「貴様っ!」
── 何をしているんですか?
その問いかけは、声にならない。
ボウルを放り出すと、アルヴィンに飛びかかり、口を手で押さえたのだ。
「しゃべるなっ! 静かにしろっ」
ヴィクトルは小声で、鋭く警告する。
彼が放り出したボウルが、甲高い音を立てて転がった。あれはカウント外らしい。
「なぜここにいるっ!? 警告を忘れたのかっ!」
「教官こそ……何を、しているんです!?」
アルヴィンは、詰問に疑問で返す。
なぜ審問術の教官が、早朝の厨房で、ピンクのエプロンと三角巾をつけて、クッキーの仕込みをしているのか? 間近で見ると、花柄のエプロンではないか。
普段の厳格な雰囲気など、微塵もない。
それだけではない。
厨房には、慌ただしく働く十数人の姿があった。
パンを焼く射撃術のリノ教官、チョコエクレアにトッピングをする教会史のゼフィリオ教官……全員が、教官なのだ。
「これは……」
目の前の光景が、悪い冗談にしか見えない。
呆然とするアルヴィンの腕を、ヴィクトルが掴んだ。
「説教は後だ。お前は早く部屋に戻れっ!」
「なぜです?」
「いいから来い!!」
ヴィクトルは、明らかに冷静さを欠いていた。
何が焦らせるのか。
その時だ。
「あら、お客さまかしら?」
品のいい、老女の声がした。
隣に立つヴィクトルの顔が、凍り付く。
振り返った先にいたのは……小柄な、白髪の老婦人だった。
アルヴィンを見ると、頬の辺りで両手を合わせ、満面の笑みを浮かべる。
「まあ! 現役生がきてくれたのかしら!? 何年ぶりかしら、嬉しいわ。最近の子供達は恥ずかしがりなのかしらね? なかなかきてくれなくて、寂しかったのよ!」
顔を輝かせる、老女。
隣に立つヴィクトルの肩は── 小刻みに、震えていた。
二人の様子は、実に対照的である。
「初めまして、ご婦人。僕は一年のアルヴィンです」
アルヴィンは、深々と頭を下げた。
状況が掴めない以上、どう動くべきか、慎重に見定めるべきだ。
彼は最上級の礼儀正しさで挨拶し……老婦人は、飛び上がらんばかりに笑顔を浮かべる。
「なんて礼儀正しい子なのかしら! 私は、寮母のモルガン・トワイライトよ。あなたもクッキーを焼いていかないかしら?」
やはり、この老女がトワイライト婦人なのか。
婦人の背後で、数人の教官が首を激しく横に振っていた。
”断れ”と。
口パクで、懸命に伝えてくる。
教官らは、一体何を畏れているのか……
彼らと婦人の間には、何か特殊な関係性があるように見える。
立ち入り禁止とされた厨房。温和な雰囲気の老婦人を、畏怖する教官ら。そして、いかにも不似合いなピンクエプロンをつけたヴィクトル……
風向きが変わった、アルヴィンはそう直感した。
そして、さも申し訳ないという顔をすると、婦人に告げたのだ。
「トワイライト婦人、申し訳ありません。せっかくお誘いいただいたのですが……お手伝いできそうにないのです」
「いいのよ、アルヴィン。きっと大事な用事があるのね?」
「実は……デメリットが貯まっていて……どうしても、懲罰行進に行かなくてはいけないのです」
「あなたが謝る必要なんてないわ! 長い学院生活ですもの、そんなこともあるわよ。ちなみに、おいくつくらい貯まっているのかしら?」
「……三十デメリットです」
心底困ったような、弱々しい声で答える。
だが心中でアルヴィンは、ほくそ笑んだ。
「まあ!!」
予想通り、婦人は大げさに口許を抑えた。
そして、隣に立つピンクエプロンを睨みつけたのだ。
穏やかな笑顔から、般若のような形相に一変していた。
「ヴィクトル! この子のデメリットを取り消してあげなさい!!」
「は、はあっ!?」
ヴィクトルは普段の姿からは微塵も想像できない、情けない声を厨房に響かせた。
その姿には、威厳の欠片もない。
教官らと、婦人の特別な関係性。
── つまり彼らは、トワイライト婦人に頭が上がらないのだ。
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