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 職場での昼休み。

 修一はひとり休憩室で、「ハッピー・ハッピー・ベーカリー」で買ってきたパンを食べていた。

 結局、夢に出て来たパンと全く同じパンは見つからず、彼はそれによく似たパイ生地の上にフルーツが盛られたパンを買った。

 生地がパサパサしていて、やたらとテーブルの上に落ちたが、修一は特に気にしなかった。社員の殆どは外で昼食を取っているため、彼の周囲には人がいなかったから。

 パンの上に盛られたフルーツは軟らかくて甘かったが、とても冷たいと修一は感じていた。


-今はどんなに状況が悪くても、生きていればきっとそれは変わるから……生きろ-


 ひとりでパンを食べていると、なんだか恭介の声が聞こえて来たような気がした。

 今朝夢に出て来た友人のことを思い出しては、一々感傷に浸る自分に対して修一は苦笑いを浮かべていた。


 仕事のあと、修一はすぐには自分のアパートへ戻らず、駅の近くの公園へと向かった。


 割と広めの園内は、買物袋を提げた主婦や、学校帰りの学生たちの姿が疎ら(まばら)に見られた。

 彼はゆっくりと歩きながら、再び恭介のことを考える。


 修一と恭介は同じ高校に通っていた。人見知りで、引っ込み思案の修一には、恭介だけが唯一の友達だった。


-修が変われば、周りも変わると思うよ-


-ラブレターなんてすげえな! 絶対相手も喜んでるぜ!-


-オレ、結婚したから。次は修の番だからな! 呼ばれなくても絶対行って滅茶滅茶にしてやるよ!-


 公園の奥にあるベンチに腰かけた修一の頭の中に、恭介との想い出が次々と蘇ってきた。

 項垂れるように座っていた彼の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。それは、紺色のスラックスを静かに濡らした。


 凍り付いたような無音の時間だけが過ぎていく……。


 修一が我に返って顔を上げると、周囲に人影はなく、辺りはすっかり暗くなっていた。

 彼がベンチから立ち上がろうとしたとき、ふと近くの外灯に目が行った。

 薄暗い電灯の下には、蛾の集団がせわし気に群がっている。その背後に見え隠れする月。


 月はただそこにいて、静かに青白い光を放っている。

 外灯には相変わらず蛾の集団が忙しそうにしている。


「月は何故いつもあんなところにいるのだろう。もし、オレが月に行けたとしたら……、いや、もし、オレが月そのものになれたとしたら……」


 修一は再びベンチに腰を下ろすと、暫くの間月を眺めていた。そして、月と自分のことを考え続けた。


「あるいはもし、今のオレがあの蛾の集団の中にいたとしたら……。いや、蛾の集団だろうと、月だろうと、人間だろうと、この世界では何が違うというのだろうか……」


 たったほんの数秒だけ、彼は考え込むように再び項垂れる。

 その数秒の間、彼の頭の中には言葉では言い表せない「何か」が駆け巡っていた。


-オレ、結婚したから。次は修の番だからな! 呼ばれなくても絶対行って滅茶滅茶にしてやるよ!-


「……恭介、何で、おまえは……」


 修一は恭介の声を振り払うかのように首を強く振った。

 そしてベンチから立ち上がると、何事もなかったかのように整然と歩き始めた。




「おはよう!」


 翌朝、修一は「ハッピー・ハッピー・ベーカリー」へ行くと、いつもの若い女性店員に大声で挨拶をした。

 彼女は一瞬戸惑った様子を見せたが、すぐに「おはようございます!」と彼に挨拶を返す。

 修一は適当にパンを選んで買うと、逃げるように店を後にした。

 彼の心臓は、少し高鳴っていた。


「さあ、新しい一日の始まりだ」        


 誰に言うでもなく彼は声に出して呟くと、パンの袋を抱えて足早に電車に飛び乗った。




              -了-


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オレだけが残った…… Benedetto @Benedetto

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