番外編「誠一郎の過去」
ジュージュー…
朝のキッチン。フライパンの上のソーセージが、美味しそうな音を立てて並んでいる。菜箸がそれを転がす。長い菜箸に対して、それを握る手は少し小さかった。
「おはよう、誠一郎」
ダイニングの方から声がした。
「おはよう、父さん」
名前を呼ばれた少年──柊誠一郎が、笑顔で答える。
「見て、父さん、今日の卵焼きは上手に巻けたんだよ!」
そう言って、ダイニングテーブルの上に並ぶ、二つの弁当箱を指し示した。ネクタイを整えながら弁当箱に視線を落とした父親は、思わず「おお」と感嘆の声を上げた。
「本当だ。とっても綺麗に出来てる。誠一郎も随分、料理が上手になったね」
「今からちゃんと練習しておかなくちゃ。母さんが帰ってきたら、僕が手伝って…母さんに楽させてあげるんだ」
それを聞いた父親から、ほんの一瞬だけ笑顔が消えたのだが──ソーセージが焦げないようにフライパンとにらめっこをしていた誠一郎は、それに気が付かなかった。
「……ああ、そうだね。父さんも誠一郎を見習って、掃除と洗濯は頑張らなくちゃ」
何事もなかったかのように、元の優しい笑顔で返す。
誠一郎の母親は、もうかれこれ数か月、病気で入院している。どうにかしてあげたくても、誠一郎にはどうにもできない。ならば自分のできることをしようと、少し前から料理を始めたのだった。
二人で朝食を食べ、会社へ向かう父親を見送り、最後に自分も家を出ようとして…玄関で立ち止まった。
「──忘れてた」
シューズボックスの上のキーフック。何本かの鍵とともに、大ぶりな十字架のペンダントが掛けられている。それを手に取って、額に当てながら、目を閉じる。
──神様、どうか母さんの病気を早く治してください。
そう念じて、祈り、ネックレスをもう一度フックに掛ける。そうして、照れくさいのを誤魔化すように、バタバタと家を出て行った。
なぜ照れ臭いかって、成長するにつれて、本当は神様なんていないと感じ始めているからだ。見たことも会ったこともない。神様なんて、人間が心の拠り所にするために勝手に作った幻想にすぎない──なんて、年の割にませたところのある誠一郎はそう考えていた。
それでも毎日、こっそり祈りを捧げているのは、ひとつに母親がクリスチャンで、毎朝同じようにしていたから。そして、母親のために何か行動していないと苦しかったからだ。たとえそれが神頼みみたいな根拠のない行動でも、自分が母親のために何かしているという実感が欲しかったのだ。
家を出てから程なくして、誠一郎は見慣れたお団子頭が前を歩いているのを見つけた。野中真依香。赤ん坊のころからよく遊んでいる幼馴染だ。
「うん、うん、へぇ、そーなんだ!ここで、そっかあ!大変だったねぇ、痛くないの??」
明るく元気な声で、相槌を打っている。しかし、その目の前には──誰もいない。虚空に向かって大声で話す少女を見て、犬を散歩させていたおじさんが怪訝そうな顔をして通り過ぎていった。しかし誠一郎は動じず、声をかける。
「真依香、おはよう。“また”おしゃべりしてたの?」
「あっ、せーちゃん!おはよー!そーなの、一人でしょんぼりしてたからねぇ、どーしたのってお話聞いてたの!」
真依香は時折、こうして一人で──本人曰く、普通の人間には視えない“何か”と──会話をしていることがある。「幽霊さんとお話するの楽しいよ!」と真依香はよく言っているが、誠一郎から言わせてもらえば、神様同様幽霊だって存在しない。誠一郎なりに少し調べたこともあったのだが、これは真依香のイマジナリーフレンドだろうという結論に至った。小さい子供が、空想上の存在をあたかも実在するかのように扱い、一緒に遊ぶというあれだ。
「ごめんね、マイカ学校行かなくちゃだから、またお話聞かせてね!ばいばーい!」
真依香は何もいない空間に向けて手を振ってから、誠一郎に向き直った。
「お待たせ、せーちゃん!一緒に学校行こ!」
チャイムが鳴り、国語の授業が始まった。担任の先生が宮沢賢治を朗読している。誠一郎はそれを聞きながら、重要そうなところを自分なりに考えて、ノートに鉛筆を走らせる。
しばらくして、コンコン、というノック音。先生の朗読が止まった。誠一郎がノートから顔を上げれば、教室のドアの向こうにもう一人、先生が立っていた。担任は教科書を伏せて教壇に置き、教室のドアを開けて応じる。二人、何やら小声で話したかと思えば──
「柊君、ちょっとこっちへ」
何故か、突然名前を呼ばれた。
少しざわざわとする教室。不思議な顔をしつつ、誠一郎は二人の先生のもとへ歩く。ドアから出てすぐの廊下で、担任の先生が小さな声で、言った。
「…柊君、お母さんが────」
何度もお見舞いに通った病院、見慣れた病室、見慣れたベッド。しかし、その上に横たわる人の顔には、見慣れぬ白い布がかけられていた。
死んだ、ということは、理解できた。
しかしなぜか、涙も悲しみも追いついてこなかった。呆然として、頭が真っ白になって、それからようやく湧いてきた感情は怒りに近かった。
嘘つき。母さんの嘘つき。やっぱり神様なんていないじゃないか。母さんを助けてくれなかったじゃないか。あんなお祈り、あんな十字架、馬鹿馬鹿しい。母さんが何をしたっていうんだ。なんであんなに優しい母さんが死ななくちゃいけないんだよ。なんで。なんで。なんで。
荒んで爆発しそうな心を抱えたまま、誠一郎は病院からの夜道を歩いていた。隣を父親が歩く。
「……誠一郎、明日もう一度病院に行って、母さんに『お疲れ様』って言おうか。母さん、最期、すごく頑張っていたから──」
悲しそうに、寂しそうに、それでも一定の落ち着きを持って話す父親が、なんだか気に食わなくて、誠一郎は睨むように父親の顔を見た。
「……父さん、随分落ち着いてるよね。もしかして、知ってたの。母さんの病気が治らないってこと」
「──────それは」
「知ってたらどうして言ってくれなかったの?僕に隠してたの!?嘘つき!!父さんも嘘つきだ!!」
こんな大声で叫ぶなんて、誠一郎にはとても珍しいことだった。
「…誠一郎に隠し事をするつもりはなかったんだよ、でも──」
「えっ?」
父親が言いかけたところで、聞き覚えのある声がそれを遮った。道の向こうに、見覚えのあるお団子頭。真依香だ。誠一郎の表情が固まる。どんな顔をして、なんて言えばいいのかわからなくなった。
しかし、近づいてきた真依香は、誠一郎には目を合わせず、その後ろの虚空を見ていた。
「せーちゃんの、ママ」
それだけ言って、真依香も固まった。
「……………え?」
真依香の言葉に、誠一郎はそれまでの思考が一切吹っ飛んだ。
「せーちゃんママ、どうして………え、そ、そーだったの、うん、そっか、それで」
誠一郎とその父親には目もくれず、虚空と会話し続けている。
「ま、真依香、待って、今誰と、話してるの」
そう尋ねた誠一郎の声は、震えていた。
「…せーちゃんの、ママ。今、せーちゃんの隣に、いるの」
そう言われて、誠一郎は息をのんだ。
「母さんが何か話してるの…!?なんて言ってるの?真依香、母さんはなんて言ってる!?」
真依香の肩を掴んで尋ねると、真依香はふっと目を閉じて、耳を澄ますような仕草をした。それから、ゆっくりと目を開ける。
「ごめんね、って、言ってる」
「ごめん、ね……?」
「うん、ごめんねって言ってる」
真依香は繰り返した。
「死んじゃってごめん、治ったら旅行に行くって約束守れなくてごめん、って。病気のこと、いつかちゃんと話そうと思ってたけど、容体が急変して…気づいたら体から離れちゃったんだって」
目を見開いたまま、誠一郎は動けなかった。旅行の約束のことなんて、真依香が知るはず、ない。
「でもね、治療とか手術とか痛くて大変だったけど、今は痛くなくて、体も軽くて、すっごく楽なんだって。ずっと病院にいたけど、これからはそばにいるよ、って……言ってるよ」
「………そっか、そうなんだ、母さんが──」
言葉を続けようとしたが、喉がぐっと詰まって、それから嗚咽が止まらなくなって、言葉にならなかった。誠一郎はここで、母親が亡くなってから初めて涙を零した。一粒零れたら、あとは止まらなくなって、ぼろぼろ溢れて、わんわん泣いた。その体を、父親も泣きながら抱きしめた。夜空が、二人分の泣き声を包んでいくようだった。
ジュージュー…
朝のキッチン。フライパンの上のソーセージが、美味しそうな音を立てて並んでいる。菜箸がそれを転がす。菜箸を握る手は、以前より少し大きくなった。
「おはよう、誠一郎」
「おはよう、父さん」
そう返事をする声も、以前より少し低い。
「おっ、今日は卵焼きか。相変わらず誠一郎は料理が上手だなぁ」
ダイニングテーブルに置かれた二つの弁当箱を見ながら、父親が話す。
二人で朝食を食べて、会社に行く父親を見送り、最後に自分も家を出ようとして…玄関で立ち止まった。
「──忘れてた」
シューズボックスの上のキーフック。何本かの鍵とともに、大ぶりな十字架のペンダントが掛けられている。それを手に取って、首にさげた。
相変わらず、神様の存在はいまいち信じていない誠一郎であったが、今日も胸元のペンダントに祈りを捧げる。
どうか今日も僕たちをお守りください、……母さん。
END
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