5

 リビングに、落ち着いた低音のナレーションが響く。しかし純太の耳にはただの音として入り、抜けていた。

『最後』とは、もう会わないということだろう。言葉を交わすことはなくなり、声も聞けず、共に過ごす時間が止まる。そういうことだ。

 あの後、唐突な終わりの言葉にうまく頭が働かず、何も言えないまま家へ帰ったが、だからといって納得や賛同をしたわけではない。できるわけがないのだ。

「あぁまったく、テレビつけっぱなしじゃないの」

 純太へ注意するというより独り言の調子で、台所から戻った母が言った。

「……」

 ぼんやりとしながらも眺めていたテレビ画面が暗くなる。純太は、カタン、とリモコンを置く音を聞きながらゆっくり立ち上がると、自分に気づいていない母に声をかけることなく部屋へ戻った。

 ベッドへ寝転んで、天井を見るともなしに見る。真っ暗な部屋に、夜の静けさが膨らむ。

『君を愛してしまった』

『君をこの世から消してしまう』

 シノノメの言葉を耳の奥で繰り返し響かせながら、まぶたを下ろす。腕で目を覆うと、まるで蓋をされたように、体内で漠然とした不安や焦燥が渦を巻く。言いようのない苦しさともどかしさに耐えきれず、純太は吐息と共に吐き出した。

「――嫌だなんて、言ってないだろ」


 ***


「なんて呼べばいいですか」

 登校前の早朝。純太は制服姿で大木を見上げていた。

『名はないよ。好きに呼びなさい』

「えぇ……。神様の名前を決めるなんて、恐れ多いっすよ。一応、主従関係だし。ゆるいけど」

『では、その主がよしとしているのだから、気にしなくていい』

 楽しそうに和らぐ声に、純太は視線を下げて考え始めた。そうして口の中で何かを吟味するように呟いた純太は、満足げにうなずく。

「じゃあ、シノノメで」

 ああ、いいね。――そう続くはずの声が重量のある轟音にかき消され、純太は目を覚ました。震える息を吐き、苦しいほどに跳ねる心臓をそのままに呆ける。

 見慣れた天井だ。夢を見ていた。シノノメと出会ったばかりの頃の記憶、高校生の自分。

 しかし、懐かしさには浸れなかった。

「……何だ、今の音」

 シノノメの声を遮った音は、記憶にないものだ。何か大きくてかなりの重さのあるものが落ちた、そういった腹に響く振動を感じた。

 ぎし、とベッドが微かに鳴る。純太は起き上がるとそばのカーテンを少し開けた。外は暗闇が薄くなりつつあり、スマホで確認すれば、夜明けに近い時間だった。

 ふと脳裏によみがえったのは、寝る前に流していたテレビ番組での、ナレーターの一文。

 ――神は消えてしまう。人々の心から、または存在そのものが、この現世から。

「……」

 夜の色の残る空は、藍色を水で伸ばしたように、ほのかな夜明けの気配を漂わせ始めている。それをぼんやりと眺める純太の頭の中で、ナレーターの語りと昨日のシノノメの言葉が繰り返し流れた。

 そして、夢の中で聞いた重く響く音。自然と連想された図。きっと大きな木が倒れたら、あんな音がする。

「――……」

 純太の目がゆっくりと見開いていく。瞬間、純太は部屋を飛び出した。

 外を出歩くには薄暗い中、純太は躊躇うことなく夜明け前の道を駆けて行く。広がる森は視界に入り続けていても、近くはない距離がもどかしい。住宅の並ぶ道を抜けて、畑に挟まれた狭い公道を脇目も振らずに走る。周りが野草でいっぱいになり、蹴る地面が砂利と土へ変わった頃、いつも森への入口としている場所へ着いた。見慣れているはずの森は巨大な影のかたまりのようにのっぺりとした黒を抱えている。けれど純太が足を止めたのは一瞬で、足を鈍らせることなく森の中を突き進んだ。

 本来なら足下も周囲もよく見えず、一歩進むことすら危険なはずだが、純太はその不自由さを微塵も見せずに歩みを早めている。純太にとっていつもと何ら変わらない、守られた道だった。

「……あんなでかい木、そう倒れないだろ」

 自分に言い聞かせるその声に、殺しきれない不安が滲む。

 弾む呼吸と共に不安を飲み込んだ純太の視界が、ほのかに明るくなる。着いた。

 純太の足は自然と走り出していた。

 わかったと、一言も言っていない。最後だというその言葉を了承していない。あの後は何も話せず帰ってきたから、言いたいこと、言うべきことを一つとして伝えていない。

 小道の木々を通して守るように包まれている感覚は、慣れ親しんだものだ。道の先、ひらけた場所には、一本の大きな木が悠然と立っているはずだ。

「――ほらな」

 純太はほっと笑った。弾む息を整えながら、黒く静かにそびえ立つ大木を前に足を止める。頭上を覆う枝葉の向こうは透けて見えず、けれども家を出た時より、辺りがぼんやりと輪郭を持ち始めている。

「シノノメ様」

 声が静寂に消える。返ってくる音は、ない。

 なあ、と出た声は張り詰め、信じたくないと言うように震える。渇いていく喉からは、掠れた音しか作れない。

「シノノメ様、いるんだろ?」

 急かすように木肌へ触れる。朝露でしっとりとしたそこは、自然の気配しか感じられない冷たさだ。どくりと心臓が嫌な音を立てる。シノノメが純太の呼びかけに応えないことなど、一度もなかった。

 ひゅ、と乾いた息を吸った純太は、焦燥を滲ませて背後を振り向く。誰もいない、何もいない空間へ助けを求めるように目を走らせ、そして――はっと息を呑んだ。

 近く、遠く。鳥のさえずりが耳に届く。森の奥からは川のせせらぎが微かに聞こえてくる。

「なんで……」

 この空間で、葉擦れとシノノメの声以外を耳にするのは初めてだった。いつもシノノメの気が、薄い膜のように満ちていたからだ。

 理解したくない。認めたくない。……何が、いけなかった。

 見上げた空は薄紅をぼかしたみたいに焼けて、夜から遠ざかっている。

 純太は夜明け前の色彩越しに、頭の中で途切れた夢の続きをなぞる。 


「じゃあ、シノノメで」

『ああ、いいね』

「実は初めて会った日さ。日の出前に目ぇ覚めて空見てたら、急に『今日、森に入ってみるか』って思い立ったんだよな」

『初耳だなぁ。だから「東雲」か』

「安直だけどな」

『いい名だよ。私はその時分が好きなんだ』

 

 笑みを含んだその声が嬉しそうだった。だから純太も、

「シノノメ様」

 名前を呼ぶことが好きだった。

『純太』

 返ってくる声が好きだった。

 しかしもう、優しく包み込む声で名前を呼ばれることはないらしい。

「……シノノメ様」

 純太の声が掬われることはなく、冷える空気を微かに揺らして、ただ消えていく。

 悲しいのか。苦しいのか。それすらもわからないほど、心が鈍くなっている。

 ――返事がない。シノノメの気配を感じない。それらが何を示すかを理解しないよう、思考が止まっていた。純太にできることは、ただ記憶をなぞることだけだ。


「死ぬまで。できれば死んでからも。シノノメ様と時間を共有したいです、俺は」

『それは、とても魅力的な未来だ』

「でしょう?」


 笑い合ったのは記憶に新しい。共にある未来を、純太だけでなくシノノメも描いていたのは、確かだった。

 純太は、紅色の濃くなる空に目を細めてから、朝の気配に背を向ける。目の前の木肌に額を預けて、揺らぐ瞳をそっと閉じた。

「……隠してよかったのに」

 ――……純太、君は本当に愛おしいな。

 耳の奥で鮮やかによみがえる記憶が、今、純太を包み込む唯一の声だった。

 薄紅に染まっていた空は茜色に焼けつき、白み出す。

 夜明けが、始まろうとしていた。


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夜明けの狭間で息をする 紀田さき @masuzaki

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