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彼女に返事をした。純太の答えを受け止め、礼を口にして控えめに笑った彼女が、今までどおり同じゼミ生としてよろしくね、と気遣いすら見せてくれた。その日から、何も変わらずに日々を過ごしている。そのはずだった。
彼女を含む周りとの関係性は変化していない。しかし、ある違和感を覚えるようになった。
驚かれることが増えたのだ。いたずらを仕掛けているわけではもちろんなく、どうしてか純太の存在が気づかれにくくなっていた。もともと影は薄い方だが、声をかけても気づかれないなんてことはなかった。「声、小さくなったか?」と教授にまで言われる始末だ。
そして、その不思議な現象は家に居ても変わらず起きていた。
純太はベッドの上で仰向けになりながらぼうっと天井を見上げる。ここ数日で顕著になった違和感を、純太は自分の胸にのみ収めている。誰にも――母、そしてシノノメにも言わず、頭の中で一つ一つ確かめていた。
「純太ぁ、ごはんー」
階下からの母の呼びかけに、脳裏で順になぞっていた記憶の画が掻き消える。
複雑な感情を吐き出そうと意味のない呻き声が純太の口から漏れる。思考を無理やり止めようと目をつぶり、一、二分してから体を起こした。そうしてベッド下に両足を下ろして座った純太は、切り替えるように息を吐くと、ようやく部屋を出た。
階段を下りて居間へ入った純太は、耳に届いた母の独り言にぴたりと動きを止めた。
「遅い。まさか寝てる……?」
まったくもう、と小言をこぼして母が椅子から腰を上げる。純太はその様子を『真正面』から見ていた。
声を出せず、その場で立ち尽くす。信じがたかった。文字どおり正面にいるのだ。部屋の中央と入口で離れているとはいえ、視界に入らないはずがない。純太は瞬きも忘れて母を凝視する。
(……見えてない)
呆然と目で動きを追う。食卓テーブルから離れた母が顔を上げた。その視線は純太をすり抜け、体越しにドアを透かし見ているようだ。一向に目が合わない。お互いまっすぐ目を向けているはずなのに、一度も。明らかにおかしい。
純太は細く、深く息をした。
「母さん」
瞬間、母が驚いて飛び上がった。ばちっと鳴りそうなほどしっかりと二人の視線が重なる。
母が胸に手を当てて盛大に息を吐いた。
「びっくりしたわぁ、もう。あんた、影薄くなったんじゃないの」
純太は母の冗談混じりの言葉を「かもな」と軽く笑って流す。
違和感を覚えていない母を見て、純太は自分を取り巻く周囲の人々の微かな異常を確信した。
大学でも同じだった。純太の存在に『気づきづらくなった』ことは自覚するのに、その変化を誰も『おかしい』と思わないのだ。
(……気のせいかもしれないけど)
思い当たる節は、一つしかない。
いつもと変わらない朝。純太は持ってきたおにぎりをシノノメに捧げ、供えていたものを朝食として口にした。
高校二年生の頃から三年間、毎日欠かさず、自分の手で供物を用意している。
いつも飽きずに、シノノメのこと、シノノメとの時間を考えておにぎりを握っていた。今日もその点に変わりはないが、心に浮かぶ感情は戸惑いと緊張、そして少しの期待の混ざった複雑なものだ。
純太は朝食を平らげると、小鳥が教えてくれたという秋の木の実について話すシノノメを呼んだ。
「……シノノメ様」
『なんだい?』
純太は伏し目がちの目をまっすぐ上げると、背後に向き直ってシノノメを見上げた。
「最近、不思議なことが続いててさ」
『うん?』
「俺の姿、見えづらくなってるか?」
『――……』
音のない静けさが張り詰める。森の気配が際立った。
一向に返ってこない反応に純太が名前を呼ぼうとしたその時、遠くに思いを馳せるような声がぽつりと落ちた。
『純太、私は人間をほとんど知らない。背後の山が崩れかけてからしばらくは、人々の声が風に乗って届いていたけれど、それだけで彼らを深く知ることはできない。そしてその声も、時を重ねるごとに減っていった』
純太は黙ってシノノメの話を聞く。いつだったかシノノメが言っていた。「ここに来れるのは純太だけだ」と。
身近ではない神は、語り継がれでもしなければ鮮やかな存在のまま残ることはなく、記憶をもつ者はこの世を去り、やがて人々の心から消えていく。――「祈りがなければ死んでいく」とは、教授の見解だっただろうか。
『でも君のおばあ様は、遠くからずっと声を届けてくれた。純太もこの木の姿すら知らないのに、幼い頃から話しかけてくれたね』
純太は目を見開いた。出会う前から自分を認識していたなんて知らなかった。
『君の心もおばあ様の心も、どちらも嬉しかった。とても心地よかった。届いていた「祈り」の中で、君たちが最も綺麗で鮮明だったよ』
嬉しいと、声が言っていた。今までに何度か「心」が嬉しいと伝えてくれていたが、綺麗と形容されたのは初めてだ。自分ではわからない、受け止める側である神様しか知り得ない感覚なのだろう。
『純太が私のもとへ通うようになった頃、「それほど長くは存在していられない」と話をしたのは覚えている?』
「……もちろん。だからその次の日からおにぎりを持っていくようになったんだよ。人の祈りがあれば消えないって教えてくれたから、『じゃあ俺が毎日届ける。他になんでも仰せ付けください』って。そこで主従みたいだ、なんて話もしたな」
『ふふ、そうだね』
純太は懐かしく思いながら、まだ大人と子どもの狭間にいた頃の記憶を辿る。結局シノノメは、その後も他に何かを要求することはなく、友でいてくれている。
『私は、もともと人に知られていなかった』
シノノメがささやくように言った。
『遠い昔は山越えの人々が己の身の安全を祈るために供物を添えていったけれど、そのうち、この場所は奥深く道からも逸れていて危険だと、誰も寄りつかなくなった』
そうなのかと、純太は他人ごとのように胸中で呟く。危険を感じたことなど、純太は一度もなかった。
『思いのほか、人の祈りを源としていたらしくてね。時が経つにつれ、力を失っていくのを感じていた。それからいくらか経った後に、あの大雨が降ったんだ。……後はもう朽ちるだけの我が身、いつでも消えることを選べた。だから、守ったのは気まぐれだよ』
祖母からよく聞いた話をシノノメから聞くのは初めてだ。――今日はずいぶんと初めてのことがある。純太は胸の奥に少しのざわめきを覚えた。
『気まぐれの行動に、君のおばあ様は毎日祈るようになって、私へ力をくれた。彼女だけが、欠かさずに毎日。ならば、せめて彼女が生きている間だけはと、人の世に留まることを決めた。そうして気づけば、――君の声が増えていたよ』
優しさを纏う声に聞き入る。落ち着かない心が、どこか遠くに感じた。
『一生懸命に、「守ってくれてありがとう」と祈って、「神様も元気ですか」と気にかけてくれた。その頃から、楽しかったこと、嫌だったこと、嬉しかったこと、学んだこと。いろいろな話をしてくれたね。今もそうだ』
私はそれが楽しい。そう言ってシノノメは言葉を切った。俺も同じだと、何故か言えなかった。シノノメが、純太の反応を求めているように思えなくて、言葉は喉元まで上がっているのに、それ以上動けなかった。
『君の心をこの身に宿すのは心地がいいんだ。満たされて……でも、足りない。放しがたくて……――際限なく欲するようになった』
何も言えず、動けず。シノノメへ視線を向けたまま、純太は体を包む声に思考を奪われる。
「私は、」シノノメが一呼吸おいてから言った。
『――私は……君を愛してしまったよ、純太』
言葉が。声が。体を撫でていき、耳へ注ぎ込まれ、熱をともなって胸へ落ちる。
夢を見ているのかもしれない。純太はぼんやりとしながら、それでも引き寄せられるように両手を伸ばす。
その手が木肌へ触れる直前、
『だから、これ以上はいけない』
線を引かれた。
細く、簡単に飛び越えられる境だとしても、動きを止めるには充分だった。
純太は戸惑いをあらわに、ゆるゆると手を下ろす。
「……何で?」
『これ以上共に過ごせば……君をこの世から消してしまう。それだけはしたくない』
優しい声で続くだろう言葉を形にしてほしくなくて、咄嗟に口を挟む。
「シノノメ様俺は、」
『――純太。これで最後だ』
少しも止めることができず、はっきりと耳に届く。
シノノメの声を聞いて苦しさを覚えるのは、初めてだった。
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