3
開いた窓から入るそよ風が、時折髪の毛を掠めていく。過ごしやすい秋の気配だ。
穏やかで集中した空気の満ちるゼミ室に、教授の声だけが通る。三人一組で行ったプレゼンテーションの批評が行われていた。
最後のグループの評価が終わり、教授が簡単に締めるやいなや、室内の空気が緩んで徐々に騒がしくなっていった。
純太も例に漏れず、立って鞄に荷物をつめながら、グループを組んだ女子二人へ声をかける。
「笹野、藤宮。おつかれ」
二人のうち、栗色の髪を高く結い上げた方――笹野がひらりと片手を上げた。
「お疲れさまー。無事終わって良かったぁ」
「相木くんのおかげで、スムーズに資料作れたね」
ダークブラウンの髪を揺らして微笑んだ藤宮へ、笹野の指がビシッと向けられる。
「それ! 助かったよ、ほんと」
「俺も、意見いろいろ出し合えてやりやすかった。ありがとな」
純太が二人と視線を合わせて瞳を和らげると、藤宮がぴんと背筋を伸ばして慌てたように口を開いた。
「こ、こちらこそ! ありがとう、相木くん」
「ああ。じゃ、お先に」
「あっ、うん、お疲れさま。また明日」
控え目に振られた手に軽く手を上げて返した純太はゼミ室を後にした。
講義室の並びから渡り廊下へ差し掛かると、階下までの吹き抜けとガラス張りの壁面により、ぱっと視界が明るくなる。外は青天の名残に薄橙が混ざっていて、まるできらきらと乱反射する宝石のようだ。薄暗くなるにはまだ時間がある。
(シノノメ様がとこ行くか)
放課後は資料の作成や発表の準備に追われ、毎朝の習慣が続いていたとはいえ、しばらく夕方に訪れることができなかった。ほぼ毎日、一日に二度も会っていれば、それだけで物足りなさを感じる。
そうして迷わず寄り道を決めた純太だったが、見晴らしのいい窓から見える図書館の一角に、あ、と足を止めた。
(本、返してくか)
参考資料として借りていた二冊を鞄から取り出そうとした純太は、視界に入った紙の束にまたしても思い出した。
クリップ留めされた十数枚のレジュメは、先ほど別れたばかりのゼミ仲間から借りたものだ。まだ居るよな、とゼミ室に戻ろうと純太が踵を返した時、ちょうど前方の廊下の角から藤宮が現れた。彼女が純太に気づくのに合わせて名前を呼ぶと、ぱちりと目を瞬かせた。
「相木くん。どうしたの?」
「これ、返すの忘れてた」
「ああ! 明日でもよかったのに、ありがとう。プレゼンうまくいってよかったね」
ちょっと緊張しちゃった、と胸元に手を当てて笑う藤宮に、純太も唇に笑みを浮かべる。それにはにかむように微笑んだ藤宮の視線が、純太の持つ本に注がれた。
「図書館で借りた本?」
「ああ。これから返しに行く」
「……一緒に行ってもいい?」
私も返したい本あるんだ、と返事を待つ彼女へ短く了承した純太は、促すように再び渡り廊下を進み始める。たたっ、と少し遅れて隣へ並んだ彼女に歩調を合わせ、お互いに口数が多い方ではないため言葉少なにぽつぽつと会話を交わしながら図書館へと向かう。
敷地内に建つ図書館は、ゼミで利用する講義室が入った棟からそれほど離れてなく、一本道を進んだ先にある。遊歩道のような幅広い道の両端には銀杏の木が立ち並び、緑の葉に混ざって黄色が見え隠れする。秋の優しい夕陽が銀杏の葉の向こうから透きとおり、学生のまばらな道へ薄く影を落とす。
「あの、相木くん」
「ん?」
「……この後時間あったら、少しお茶でもどうですか?」
秋の色を眺めながら耳を向けていた純太は、自然な態度からはほど遠いお堅い誘いに目を軽く見開いて隣を見下ろす。戸惑いからぴくりと唇が動く。
「あー、と……わるい。予定ある」
「そ、そうだよね。ごめんね、突然! いつも早く帰ってるもんね」
「まあ、約束はしてないんだけど、日課とか習慣みたいなやつ。最近忙しくて帰りに寄れてないから、久しぶりに行きたくてさ」
当たり障りなく、かつ嘘のない理由を伝えた純太は、「そ、そうなんだ」と、どこかぎこちなくうなずく藤宮に内心首を傾げ、しかし踏み込むことなく短く肯定した。すると今度は彼女が言い淀み、どこか申し訳なさそうに訊ねてきた。
「……えっと、彼女さん?」
純太は、思わず息を吐くように笑った。
「ふ、違う違う。恋人じゃない。……友達」
「そ、そっか友達かぁ。変なこと訊いてごめんね……」
いたたまれないような様子で目を逸らした彼女に、純太は「全然、気にすんな」と軽い口調で返す。
会話が途切れ、二人の間にさらさらと風が通る。なんとなく気まずさが漂う、そんな空気のまま図書館の近くに来たところで、純太は足を止めた。隣を歩いていた藤宮が一歩後ろで立ち止まったからだ。
「藤宮?」
声をかけた純太へ返ってきたのは、「あの、」と話の接ぎ穂を探すかのような声だった。それに続いた己の名前に純太が口を開けずに短く返事をすると、彼女の伏せられていた目が、静かな色を湛えてまっすぐ純太を見上げた。
「相木くん、好きです」
純太は目を丸くした。口からこぼれたのは、声になり損なった吐息だけだ。
突然ごめんなさい。彼女が言った。つっかからず震えもない声が、純太へ真っ直ぐ言葉を紡ぐ。
「片想いなのはわかってるの。でも、少しでも可能性があるなら……返事はすぐじゃなくていいから、考えてみてほしい、です……」
尻すぼみになっていく彼女の声。それを追うように純太の口が開いた、その時。
「――その本っ、一緒に返しておくね!」
「えっ」
腕から引き抜かれた本に純太が気を取られている隙に、藤宮は純太を追い越し、さらに離れるように図書館の敷地へ入ると、振り返ってお辞儀をした。
「じゃあ、あの、よろしくお願いします! またね!」
「…………おう……」
呆気にとられている間に話の区切りがついており、純太の気が抜けたような返事だけがその場にぽつりと落ちた。
***
『純太。何かあったのかい?』
シノノメの問いに純太ははっとして我に返った。予定どおり訪れたはいいものの、気づけば会話もせず、ぼんやりと考え込んでいたらしい。純太の頭の中で、数十分前の出来事が何度も思い起こされていた。
「いや……」
反射で出た否定の言葉だったが、その後が続かない。言う必要はない。けれど、秘密にしておく理由もない。悟らせてしまったのなら、なおのこと。
純太は大仰にならないよう、さらりと答えた。
「告白された」
『……告白』
意表を突かれたようなおうむ返しだ。純太は感じたことのない居心地の悪さを覚え、もたれていた幹から背中を離すと、あぐらをかいた足に目を落とす。ああ、と肯いたその声は、ほとんど純太自身の体に落ちた。
『以前もあったね……純太が十七の頃かな』
「よく覚えてるな」
『恥ずかしがって詳しく打ち明けてはくれなかっただろう? 困らせたくはないから黙っていたけれど、あの時はしばらく気になってしまったから』
「あー……悪い」
シノノメが思春期も終わる頃の当時の己を気遣ってくれていたと知って、純太は申し訳なさと感謝の気持ちが混ざり微苦笑した。笑いつつ、当時の『告白』にまつわる思い出を話そうとした時、シノノメが不意に、しんと静かな声で言った。
『その先には何があるんだい?』
『その』とは、告白のことだろう。振り向こうとした純太は、しかし顔を上げるに留まる。
「二通りある。一つは、断って、断られて、想いが成就しない未来。もう一つは、友人でも知り合いでもなく、もう一歩進んだ関係を築く未来。想いを受け入れて、自分も同じ想いを返す」
『それは、「愛し合う」と同義だね』
「……間違ってはないな」
純太は身の丈に合わない表現に歯切れ悪くも肯定しながら、黄金に焼ける空を眺める。
「高二の時は、付き合ったよ。今ので言うと二つ目だな。まあ、二ヶ月も保たなかったけど」
『……では、今回はどうするんだい』
空気が厚くなったのは気のせいではないだろう。少しずつ、少しずつ、シノノメの領域が狭くなって、見えない壁が純太へ近づいてきている。そう感じられる圧が、微かに漏れていた。「純太、私は」シノノメの内からこぼれてしまったような、漠とした一言。その一言に、純太の声が被る。
「断るよ」
『いいのかい』
「いい。その子に恋愛感情はもってなかったし、試しに付き合うって選択はそもそもないからな。……というか、時間を減らしたくないんだよ」
『なるほど、忙しいのか』
「違うって。……シノノメ様との時間がなくなるだろ」
顔を隠すように俯いた純太の声は、羞恥も相まって吐息混じりの微かなものとなった。
『それは、できるだけ私といたいということだね』
「……人があえて表現を変えてるんだから、言わないでくださいよ」
拗ねた純太の頭上へ、ふわりと木漏れ日のような微笑が降る。「すまない」と、ゆったりと付け足された言葉。嬉しさに満ちた音だ。
「笑ってるじゃん……」
『見逃してくれ』
シノノメが再び、ふふ、と笑う。「嬉しいなぁ」と、心もぽろりと漏れている。いつの間にか純太を包む空気が、元の軽く広々としたものに戻っていた。
シノノメが笑みを湛えるように、大事に言葉を紡ぐ。
『――純太、君は本当に愛おしいね』
降り注ぎ包み込んでくる大きな親愛の情。不意打ちに近いシノノメの想いに顔を赤く染めた純太は、抱えた膝に顔をうずめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます