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 純太がシノノメの存在を知ったのは、小学校低学年の頃。いつも窓の外に向かって手を合わせる祖母に、何をしているのかを訊ねたことがきっかけだった。

「あそこの山の前に森があるでしょう? そこに神様がいるのよ」

「かみさま?」

「そう、神様。とっても大きな木に棲んでるの」

「……だいじょうぶかなぁ、かみさま。お母さんが、あぶないから近づいちゃだめって言ってたよ」

 窓の向こう、なだらかに上る町並みの先に、深い森が広がる。そしてその背後に小さな山が顔を出していた。

 純太は、母が教えてくれたことを祖母にも伝えようと手と口を動かした。

「こういう山を砂でつくってー、下をちょっとだけこわしてね。あの山もおんなじで、もっとくずれて森が土でうまっちゃうかもしれないからって」

 母の指が壊した部分の砂をさらに削って滑り落とすと、砂山のそばに置いていた小さな石が見えなくなってしまったのだ。

「だからあぶないんだよ。かみさま、こわくないのかなぁ」

「あの子はまったくもう……」

 その時の祖母は、実の娘である母のおよそ子ども向けとは言い難い教え方に呆れていたのだが、当時の純太にはわかるはずもなく。ただただ、そんな危ない場所にいる神様を心配していた。

 少しして祖母が、「そうね……」と目を優しく細めて窓の外を見た。

 純太は大きな目を瞬かせ、祖母の優しい横顔を見上げる。

「昔、おばあちゃんが若かった頃に大雨が降ってねぇ。ざぁざぁ、ざぁざぁ降って、とうとう……純太がお母さんに教えてもらったように、山が崩れてしまったの。山が崩れるとね、たくさんの土や岩や木がすごい速さで滑り落ちて来るのよ。純太、おばあちゃんの前のお家は覚えてる?」

 純太はうなずく。家の裏には森が続いていて、山が近かった。庭で遊ぶたびに、森へ入ってはいけないと、母と祖母から言い聞かせられていた。

「山のすぐそばに住んでいたからね。あの家なんて、あっという間に飲み込まれて潰されてしまう」

「でも、まだおうちあるよ?」

「ふふ、そうね」

 微笑んだ祖母が純太の頭を撫でた。

「守ってくれたのよ」

「だれが?」

「木の神様。土砂を堰き止めて、私たちを守ってくれたの。だから、『ありがとう。おかげさまで今日も元気です』って」

 難しい言葉の意味はわからなかったけれど、それでも純太は祖母の話を理解できた。森の中にいる神様が、母の指で崩れた砂みたいに滑り落ちた土から祖母を守ってくれたということだ。

 祖母は窓の外へ視線を戻すと、おもむろに手を合わせた。目を閉じて、穏やかな表情で拝んでいる。その姿は見慣れたものだが、純太の目には普段より一層丁寧に心を込めているように映った。

 純太はその姿をじっと見つめてから、祖母に倣い、つたない仕草で森に向かって拝む。何度かこの行動を真似したことはあったけれど、何かに向けての行いだとは知らなかったから、形だけだった。

(おばあちゃんを守ってくれて、ありがとう。おばあちゃんもお母さんもお父さんもぼくも、みんな元気です)

 神様という存在に心の中で語りかけるのは、この時が初めてだった。

(かみさまも、元気ですか?)


 ***


「毎朝のお参り、続いてるわね~」

 五時五十五分。朝の早い時間、台所で炊きたての白米を握る純太の隣で、寝起きの母が水を飲みながら言った。ふと思って口に出したのだろう母を一瞥して、純太は「ん」と短く相づちを打つ。本当のことを言うわけにはいかず、近所の神社への参拝に出かけていることにしているのだ。あながち間違ってはいない。

「小学二年生くらいだっけ? あんたが日本の神様とか神社に興味を持ち始めたの」

「あー、たしかそうだな。ばあちゃんがうちに引っ越してきた年だったはず」

 祖母との会話をきっかけに、自然神や付喪神、果ては日本神話や神道へと興味をもつようになった。勉強、学習というよりは大好きなヒーローについて知っていることを増やすかのように、楽しんでいた。

「それに加えて、ことあるごとに『なんで?』『どうして?』って質問が増えたのよねぇ。いつの間にか自分で調べ出してたけど……理由とか答えがわかった時の満足そうな顔がおもしろくてよく父さんと笑ってたわ」

「ひでぇ親だな」

「かわいかったのよ」

「はいはい」

 純太はむず痒さを誤魔化すように二個目のおにぎりに取りかかる。

 たしかに、はっきりとした解が存在するものは好きな方だ。その答えにたどり着いた瞬間の、頭の中がすっきりする感覚が特に。

「おばあちゃんの影響で神様とか神社とかに興味もってたけど、なんだかんだあんたは理数系の道に進むと思ってたわぁ、お母さん」

「極端だろ、それは」

「でもあんた、好きだったじゃない。数学とか物理とか」

「そうだけどさ」

 好きで得意ではあったが、より難問を解きたいだとか数字や方程式を用いて自然科学を学びたいだとかは思わなかったのだ。純太にとっては高校生までの学習で十分だった。それよりも、知識を深めたいものがあった。研究をしたかったのかと訊かれると、首を縦に振りづらいが。

 大学に進学して二年経つが、進路を迷いなく決めた時に、母はその熱量の違いになんとなく気づいたのだろう。とはいえ相当意外だったようで、今のように具体的な物言いではなかったが、これまでにも何度か似たようなやりとりをしたことがある。

 純太の米飯を握る手がわずかに止まる。

「……神様の世界を、もっと知りたいと思ったんだよ」

 そうすれば、存在をもっと近くに感じられると思ったから。胸中でそう続けた純太だったが、次第にむずむずと唇を引き結ぶと湧き上がる羞恥を誤魔化すように仕上げの握りに力を込めた。きれいな形のおにぎりの横に、少し歪なおにぎりが並ぶ。

「神主さんは見えたりするのかしらね。神様のこと」

「さあな。そういう人もいるんじゃねぇの」

 跳躍した、心当たりのある話題に止まりかけていた手は、水栓を上げることで誤魔化した。

「あんたは見えないの? これだけ通ってるんだから、ビビビッと気配感じたりとか」

「ないよ」

「やっぱり、フィクションみたいにはいかないか。そういう力があったら、あんた今以上に通い詰めそうね」

 純太の口から、思わず曖昧な相づちが落ちる。

 現在、そして今に至るまでの数年間が、まさに『神様の声は聞こえ、気配も感じられると知って通い詰めている』状態であるとは、さすがに言えない。

 何を想像したのか、母がおかしそうに続けた。

「気に入られて神隠しされても楽しんでそうね。ここぞとばかりに質問攻め」

「そこまで怖いもの知らずじゃねぇよ」

「心配するから、その時は事前に言いなさいよ。ご挨拶にも行かなきゃだし」

「そんな暢気な事象じゃないし、いろいろとズレてんだよなぁ」

 神隠しを神様宅でのお泊まりと勘違いしていそうな母に乾いた笑いをこぼせば、「冗談よ、冗談」と飄々とした声が返ってくる。それから母が時計を指差した。

「ほら、時間なくなるわよ」

「誰のせいだよ……」

 声に笑いを滲ませた母へ頬を引きつらせながら、純太は手早くおにぎりを包んでいった。

 シノノメのもとへ着いた純太は早速おにぎりを供えると、レジャーシートに腰を下ろした。シート越しに、朝露の冷たさがうっすら伝わる。

 静寂。鳥のさえずりすら純太の耳に入ってこないのは、シノノメの領域に入っているからだ。ともすれば飲み込まれそうな無音の分厚い壁は、大きな古木の柔らかに包み込む空気で和らいでいる。通い出してから数年、とっくに肌で覚えた。

「シノノメ様と出会って、四年くらいか。あっという間だな」

 純太は、くっと喉で笑う。

「母さんがさ、『これだけ通ってたら神様の気配感じるようにならないの』って」

『最初から聞こえてたね、私の声』

「なんでかわかんないけどな。さすがに母さんには言えない」

『うん、心配してしまうだろうね』

「あー、それもあるけどさぁ……」

 口ごもる純太へ、シノノメが「うん?」と促す。純太は立てた膝に頬杖をつくと、その手のひらで口を覆う。隠しきれずに覗く頬がほのかに赤で色づく。

 心配をかけたくないのは本当だ。だが何より純太以外に『大木の神様』を『シノノメ様』として認識されるのが嫌なのだ。

「……神様を独り占めしたいって、よく考えればかなり不遜だな」

 少しの間を置いて、シノノメが声に喜色を乗せて言った。

『嬉しいな』

「……シノノメ様って、俺のこと結構好きだよな」

『そうだね』

 間を開けずの肯定に純太は手のひらの下でうめく。神様に羞恥という感情は備わっていないのだろうか。

 純太の口から、面映ゆさを逃がすようなため息が落ちる。外れた手の下から現れた口元には、隠すのを諦めた笑みが小さく浮かぶ。

 純太の脳裏にまたしても母の声が再生され、それは純太の言葉となってシノノメに向けられた。

「神隠ししたいって思います?」

『――純太』

 咎めるような、諭すような響きに、純太ははっと口を閉ざす。

「ごめん」

『謝ることではないよ。でも、そうだね。純太は危機感が足りないな。私じゃなかったら、攫われてたよ』

 そう簡単に持っていかせないけれど、と言ったシノノメは、静かに続けた。

『私は、君を隠さないよ』

「……そっか」

 純太は木の幹に背中を預ける。そこまで怖いもの知らずではないなどと、どの口が言ったのか。けしてシノノメに畏怖していたり危険だと思ったりすることはないが、それでも「神」と「人間」であることに変わりないのだ。最低限の自衛意識は必要である。……そう考えるのが、普通なのだろう。

「でもさ、俺はずっと一緒にいたいよ」

 白んでいた空が薄く爽やかな青へと変わっている。

「神隠しされたいってことじゃないですよ」

『うん』

「俺、卒業後もこっちで就職するし、外に出るつもりないです。シノノメ様と離れるの嫌なんで」

『……私は嬉しいけれど、純太はいいの?』

「いい」

 言って、純太はシノノメと向かい合うように座り直す。おもむろに木肌に触れ、豊かな枝葉を見上げると、からりと笑った。

「死ぬまで。できれば死んでからも。シノノメ様と時間を共有したいです、俺は」

 風はない。鳥のさえずりもここには届かず、耳で捉えるのは優しくも厳かな大木の息吹だけ。薄明るかった空は、青天の気配を見せ始めていた。

 シノノメの声が、純太を包む。

『それは、とても魅力的な未来だ』

「でしょう?」

 姿は見えずとも、笑い合えているとわかる。長く続く未来を心待ちにしているようなシノノメの声に、純太は人知れずほっと息をついた。自然と形となった言葉は、自覚していたよりも大きな想いを含む。

 忠誠心ではなく、友情にしては大きいように思える自身の言葉に、純太の腹の奥はしばらくそわそわして落ち着くことはなかった。


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