夜明けの狭間で息をする
紀田さき
1
とあるゼミで使用されている講義室。教授、そして学生達が雑談を交えながら各々身の回りのものを片付けていた。
ホワイトボードには、『日本における神とは』、『古事記』、『アミニズム』、『本居宣長』など、関連性のある語句がばらばらと散りばめられている。その黒字にクリーナーを被せた教授が、何かを思い出したらしく、「ああ」と声を出して室内を振り返った。誰かを探して動く目が、驚いたように軽く見開かれる。
「相木はもう帰ったのか」
「ほんと、早いですよね」
近くで筆記具をポーチにしまっていた女子が慣れたように反応する。
「渡さなきゃならんものがあったんだけどなぁ」
「……あの、まだいるんすけど」
そう言って前方に歩み出てきたのは、黒髪短髪で目付きの鋭い青年だ。圧を感じさせるその目を一転、不思議そうに瞬かせながら「渡したいものってなんすか」と続けた。
「おお、いたか。これ、昨日時間内に配るの忘れててな。相木が帰った後に配ったんだ。すまん」
A4サイズのプリントを受け取った青年はその内容にさっと目を通していく。
「課題概要な、それ。レポート作成して、今月末までに提出するように。まあお前だから心配はしとらんが、締切厳守で頼むぞ」
「はい」
プリントから顔を上げてうなずいた青年は、最後に「じゃあ、失礼します」と軽く頭を下げてから、プリントを片手に講義室から出て行った。
青年の後ろ姿を見送っていた教授が、しみじみと言う。
「……二年目になるが、あいつは変わらんなぁ」
変に感心されていることなど知るよしもなく、当の青年は図書館に寄ってから足早に大学を後にしたのだった。
鮮やかで力強い緑色が頭上で夕陽に透ける。土や雑草の青臭く爽やかな香りが充満する中、相木純太は森の奥へ進んでいた。その足取りに迷いはなく、慣れたように小道を辿る。やがて頭上から枝葉の傘がなくなれば、純太の視界いっぱいに空が広がった。夕方といえども陽が長くなった今の時期、見上げた空は薄く伸びる水色にほのかな黄金色を滲ませ、金や銀の箔がきらめくようで目にまぶしい。
純太は顔を戻すと、目の前に現れたひらけた空間へ歩を進める。背の低い草や小さな花が絨毯のように敷き詰められた自然の庭に、一本の大木が聳え立っていた。
森を構成する樹木達が大木を避け、あるいはそばに控えるように、その木を中心としてぽっかりと広い空間が生まれている。
大木は、『天に向かい伸びる』と形容するほどの高さはないが、しかしどっしりと太く大きくその場に鎮座する姿に、厳かさと安心感を覚える。
純太は大木の目前で足を止め、視界に収まりきらない姿を見上げてから、軽く背を伸ばして姿勢を正す。そうして体に染みついているのがわかる自然な動きで、二度礼をし、拍手を二つ、最後に一礼すると、純太は目線を上げた。太く分かれた枝の、人が一人座れそうな分岐点を見据えた純太は、無愛想な表情を緩めて唇に気安い笑いを浮かべた。
「朝ぶり、シノノメ様」
トートバッグから一人用のレジャーシートを取り出した純太は、慣れた手つきで根元に敷くとそこにどさりと腰を下ろした。水筒やスマホ、本、ペン、ルーズリーフなどを次々とシートの上に無造作に置いていき、過ごしやすい環境をテキパキと整えていく。その手際は慣れたもので、一分も経たずに純太は幹に背を預けて一息ついた。ぐぅ、と腹の虫が小さく鳴く。純太は音の発信源にちらっと視線を落としてから、頭上を仰いだ。
後頭部が木肌に擦れるのも気にせず、首を軽く反らして木の股を見上げる。
「シノノメ様、おにぎり一個もらっていいすか」
純太の問いが空気に霧散せず豊かな葉に吸収される。広い空間の中心、自分と大木以外の気配が薄い膜で隔てられているような感覚を、純太は気に入っていた。
声が増えたのはその時だ。
『いいよ。君がくれたものだ、好きにしなさい』
女とも男ともとれる不思議な声。純太は「さんきゅ」と短く返すと、立って背伸びをしながら木の股を覗いた。丸太のように太い枝と枝の分かれ目に窪みがあり、そこに海苔の巻かれたおにぎりが二つ、ラップに包まれて置かれていた。
おにぎりを一つ手に取ると、純太は再び元の位置に腰を下ろして、幹に背中を預ける。あぐらをかいた足の間におにぎりをいったん置き、「いただきます」と手を合わせてからラップを剥がす。山のてっぺんへかぶりついてもぐもぐと口を動かす純太の視線は、何かを想像するように宙へ浮いた。
「……やっぱり、祠建てません? お供え物が小動物の隠した餌みたいになってる」
『祀るほど優れた存在じゃないさ。それに純太、私は君とこうして過ごすのが楽しいから、対等がいい』
「主と従者なのに?」
『それを言われると困ってしまうな』
情けなさすら感じる声色に、純太は軽く吹き出した。
「ははっ、冗談だよ。形だけの主従だもんな?」
『……意地が悪いよ、純太』
「すみません」
言いながら、純太は口元に笑みを浮かべた。
純太が『シノノメ』と呼ぶ存在は、大木に宿る神である。人または異形の姿で顕現することはなく、いついかなる時も樹齢百年あまりの立派な大木がその場にいる。声のような音と清らかな空気の膜だけが、純太にシノノメの存在を知覚させていた。
『珍しいね、今日は読書かい?』
広く、空気全体へ浸透して伝わる声が、方向という概念などないように純太の全身を包む。純太はおにぎりの最後の一口を頬張り、腹におさめた。
「ああ。レポート用の資料読むのに、家だとだらけるからさ。ここなら集中できるし」
そばに置いていた本を手に取る。『「神」と「人」の在り方』。
純太はタイトルが浮き出しされた装丁を一撫でしてから、傘のように覆う豊かな枝葉を見上げた。
「神様の御前なら気も引き締まるんで」
『くつろいで気の緩んだ君なら、よく知っているよ』
一瞬の沈黙。それもすぐに、優しく重なる二つの笑い声によって、穏やかに消えていった。
存在が薄れ、消えかけていたシノノメを現世に引き留めたのは純太だった。
獣は通れど人は踏み入らなくなった、山麓へ続く森の奥。そこに現れたまだ高校生だった純太は、大木に宿る『存在』に気づき、怖がりも疑いもせずに言葉を交わした。そして現状を把握するなり、「力にならせてほしい」と口にしたのだ。シノノメは彼の願いとも言える申し出に応える形で「供物を届けてほしい」と頼み、存在を維持するための源を得た。
供物から伝わる間接的な想い。たった一人の人間から直に届く祈り。シノノメはそれらだけで神としての存在を保ち、この世に留まっている。
出会って幾日か過ぎた頃、純太が言ったのだ。
「なんか従者みたいだな」
『……信者ではなく?』
「別に縋ってるわけではないんで。導いてほしいとかじゃなくて、あくまでも力になりたいってだけだし」
『そうか……一理あるね』
「でしょう? まぁ、ガチガチの主従じゃないけどな」
『……私は、君を従えたくはないよ』
純太がシノノメを見上げた。その双眸はおかしそうに細められている。
「ごっこ遊びみたいなもんすよ。友人って枠組みの一つな」
『ごっこ遊び……なるほど』
「ゆるくな」
『緩くか』
「そ。今までと何も変わんないですよ」
言って、純太は耐えきれないというように軽く吹き出した。
「っ、はは、ごめん。軽口で言うには重いよな。シノノメ様、神様っすもんね」
『一応、名を付けるとしたら「神」だね』
「怒りました?」
『まさか。軽口もかわいいものだよ、純太』
「……そういうのはわざわざ言わなくていいって」
気恥ずかしさで一瞬詰まった声の後に、葉擦れに似た優しい笑いが続く。純太は後頭部を咎めるように木肌へぶつけた。
『私が、君の主ということだね』
「そういうこと。神様と人間の主従って、なんかかっこいいな」
『ふふ、初めてだ。面白いね』
「俺は態度を改めるべきっすかね?」
柔らかな風が、純太の前髪を撫でて通り過ぎる。
『不要だよ。何も変わらなくていい。「友」の内だからね』
「よっし。神様のお墨付き」
年齢相応に歯を見せて笑う純太を、そよ風に揺れる木漏れ日が包み込んだ。
――その時と似て、今は橙色の陽が大人へと成長した純太へ降り注ぐ。緑の隙間から差す光は、焼け付くような鮮烈さの中で『終わり』へと向かう物寂しさを誘う。
純太は本から目を上げた。頭上の枝葉で隠されていない、ひらけた夕空を眺める。
『純太。もうじき日が暮れる』
シノノメの呼び掛けが空気に馴染む。「ああ」と軽くうなずいた純太は、本を閉じて周りに広げていた物をトートバッグにとしまっていく。
『集中できたかい?』
「かなり。明日もここでやるかな」
よっ、とかけ声と共に立ち上がった純太は、レジャーシートを折りたたんで鞄へしまう。トートバッグの持ち手を肩に掛けながら純太は片手を上げた。
「じゃ。明日の朝は、梅干しと昆布のおにぎりな」
『ふふ、わかったよ。気をつけて帰りなさい』
「また明日」
『ああ。待っているよ』
口角を上げて返した純太は、軽く手を振りシノノメに背を向けると、木々が挟む小道へ入った。
途端に、木や雑草、植物による清涼感ある空気と、それら森の気配を五感が感じ取る。いつもどおりの、慣れ親しんだ感覚。神の領域から、現し世に戻ったという証。
相木純太は、形のないものに仕えている。
厳密に言えば『形』はあり、命あるものとして存在しているが、思念が宿っているだけで生物とは異なる。それはもちろん人間ではなく。――いわゆる、八百万の神のひとつだ。
神と人間の主従。しかしそれは強制力のない口約束のようなもの。そして、彼らにとってはただの枠組みの一つ。
相木純太と大木の神。彼らが築いた関係は、主従、延いては『友』である。
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