第3話 送り主不明の告白メール(私 中学2年生)『希薄な赤い糸・女子編』

 『VINO・BLANCO』

(また、知らないメールアドレスだ。ビーノ・ブランコ…? スペイン産の白ワイン? 変なの!)

 最近、知らないアドレスからのメールが多い…。

 今朝(けさ)、空(から)になったワインボトルを見ていた。

 朝食を食べ終わり汚(よご)れた食器をキッチンのシンクに置いた時に、飲み終わった二つ(ふたつ)のワイングラスと空のボトルが目に入った。

 それは、お父(とう)さんが箱買いしたワインで、毎晩、お母(かあ)さんと二人(ふたり)で飲んでいる。そのワインボトルに貼(は)られたラベルの印刷された文字のスペルが、着信したばかりの知らないアドレスと同じだった。

 去年、中学生になったばかりの時に、『あなたも、これから何かと必要でしょう』と、お母さんが携帯電話を買ってくれた。

 中学1年生からは、クラスメイトの殆(ほとん)どが携帯電話のスマートフォンを持(も)っていた。

 お姉(ねえ)ちゃんも、中学校の入学時に持たされていて、私は、とても羨(うらや)ましくて、それまでは良く弄(いじ)らせて貰(もら)っていた。

 大容量でパワフルな林檎(りんご)マークの平(へら)べったい大画面の最新スマートフォンは、お母さんに何軒も携帯電話ショップを廻(めぐ)って貰(もら)って自分で選んだ、お気に入りのモバイル端末(たんまつ)だ。

 私は凄(すご)く嬉(うれ)しくて、クラスの女の子達に電話番号やメールアドレスを交換(こうかん)して貰った。

 あの嬉しさの勢(いきお)いが有った時以外に、私は、誰(だれ)にもメールアドレスを教えていない。

     *

 校則(こうそく)では学校にスマートフォンの持ち込み使用を禁止しているけれど、大半の生徒は、こっそりと持ち込んでメールを打つ。

 当然、持ち物検査では激(はげ)しいブーイングの嵐(あらし)の中で、先生に没収(ぼっしゅう)されていった。

 そんな或(あ)る日、先生による生徒一人(ひとり)ひとりのボディチェックと、鞄(かばん)やバッグや机の中やロッカー内の徹底(てってい)した検査が終わる頃(ころ)、没収されて教卓(きょうたく)の上に置かれたスマートフォンが次々と鳴り出した。

 短(みじか)いコールが、鳴っては消えていく。

 短いコールは、全(すべ)てメールの着信を知らせていた。

 生徒達は持ち物検査が始まると、あらかじめ用意していたメールを発信してからマナーモードをオフにする。

 着信するメールは親達からだ。

 リアルタイムで我(わ)が子と連絡を取りたい親は多い。

 一連のメールの着信音が鳴り止(や)み、先生は授業を始めた。

 暫(しばら)くすると、またスマートフォンが鳴り始める。

 今度のコールは鳴り止まない。

 それは電話の着信で、相手が出るまで鳴り止まない。

 子と親、子同士、親同士が結託(けったく)して連絡網を張り巡(めぐ)らしていた。

 緊急時の連絡に、タイムロスは避(さ)けたい。

 学校へ連絡して先生に取り次(つ)いで貰い、事情を説明し電話口に子供を呼び出してから、やっと用件を伝えられるのは面倒(めんどう)で、じれったくてイライラする。

 子供にしても、職員室まで行って親と電話するのは、多少なりに抵抗(ていこう)が有った。

 子供にスマートフォンを持たせれば、取り次いでもらう手間(てま)を省(はぶ)いて直接連絡ができるし、子供の受け答えする声を公(おおやけ)に聞かれずにプライバシーが守られる。

 最低限の文章構成の力量は必要だが、メールなら、より確実に用件が伝わって安心だろう。

 それよりも、事件や事故に遭遇(そうぐう)した子供からのヘルプやエマージェンシーコールと、常にオープンにされているGPSで親は状況と位置の情報を得(え)て、子供の安全を確保する緊急対応に備(そな)えたい。

 例(たと)え学校内にいて授業中でも、突発的な不慮(ふりょ)の事態は発生するから、親の気持ちとしては当然だ。

 教卓上に並べられたスマートフォンの多くが、受着信を告(つ)げるLEDパイロット灯の点滅(てんめつ)する輝(かがや)きとメインやサブ画面を発光させながら、メロディーやソングを奏(かな)でて歌う。

 先生は鳴り止まないスマートフォンを無視できず、みんなに着信を受けるよう促(うなが)した。

 電話に出た女生徒の1人がスマートフォンを先生に渡(わた)し、躊躇(ためら)う先生に話してくれるようにお願いした。

 メールの返信ができず、電話に出られない理由は幾(いく)つも有る。

 テスト中や何かの回答中や発表中とか、体育授業のプレー中やスイミング中でも出られないし、音楽の授業での演奏中や合唱中、それに静かに拝聴(はいちょう)していなければいけない全校集会もそうだろう。

 不安顔の先生が、おどおどしながら話している電話の相手は、生徒の母親だった。

 電話向こうの見えない相手に頭を下げたり、頷(うなず)いたりを繰り返す、先生の受け答えのようすから一方的な会話のようで、聞こえてくる会話から相手は直(す)ぐにでも、学校に乗り込んで来る勢(いきお)いみたいだ。

 電話に出た生徒達は、みんなニヤニヤして先生の電話の遣(や)り取りを聞いている。

 いつも上から目線の先生の低姿勢な姿は、惨めったらしくて貧相にみえた。

(この人は、いつか、こうなる事を予測できない、その程度の考えだったんだ!)

 ひたすら謝(あやま)り、宥(なだ)める言葉を繰(く)り返していた先生は電話を切ると、没収したスマートフォンをあからさまに投げ遣りな態度で生徒達に返した。

 先生は、……説得(せっとく)され? 脅(おど)かされて……? 結局、相手の話す勢いに負(ま)けてしまった。

(自分の気の小ささと度量(どりょう)の少なさ、それに確固(かっこ)たる信念も無かったクセに、言い負けたら生徒や物に八(や)つ当(あ)たりするなんて、本当に最低な大人だな!)

 このようなトラブルは、クラスや学年を問(と)わずに発生し、先生や学校側と父兄の対談が何度も行われ、PTA総会のテーマにも取り上げられた。

 しかし、所詮(しょせん)は義務教育の学校や先生達に、徹底した強制力は無い。

 教育カリキュラムを妨(さまた)げ、教育委員会レベルまでに発展させる問題ではなかった。

 それ以来、授業の進行に支障(ししょう)にならない限り、マナーモードでの使用が暗黙(あんもく)のルールとなった。

 故(ゆえ)に、みんなは机の陰(かげ)でコソコソとタッチパネルを操作している。

     *

『ビーノ・ブランコ』、それは、私のスマートフォンに登録されていないメールアドレスだった。

【好きです。貴女(あなた)は、桜色(さくらいろ)が、とても似合(にあ)って、春風の中で輝いていました。貴女からは、桜の香(かお)りがするようでした。でも、とても、眠(ねむ)そうに見えました】

 朝の登校時に突然、そのメールは来た。

 ポケットの中のマナーモードにしていたスマートフォンが、いきなり、プルプル震(ふる)えて、飛び上がりそうなくらいびっくりした。

(……『輝いていました』って、過去形かよ! 香りって、それ、身体の匂(にお)いなの? スメルマニア? それに、『眠そう』ってなによ! 何見ているのよ! 誰? こいつ!)

 見られている!

 私は誰かに、……観察されている!

(寝ている私……、桜咲(さ)く季節……、私の様子を知っている? 麗(うら)らかな春の陽気(ようき)に、微睡(まどろ)む私を見ていたんだ。……以前のクラスメート? ……誰よ?)

 好きな言葉が連(つら)なる、そのメールを何度も読み返した。

(……桜の香り……、私からするの? 私の匂い? 美味しそうな桜餅(さくらもち)か、花見団子(はなみだんご)みたいな……)

 私の気持ちを擽(くすぐ)る文字が気になる。

【私は、過去形? 私は、眠そうにボーっとしているの? 私が臭(くさ)い? 私を食べたそうなあんたは誰? イスパニアの白ワイン】

 名無しで失礼なメールは、無視しようかと考えたけれど、私を観察していた相手が誰か気になって、夕方にメールを返した。

 1年生の7月に三人、12月には五人から、告白や、お付き合いをお願いされ、上級生の2年生や卒業間近(まぢか)の3年生からも申(もう)し込(こ)まれた。

 下足箱(げそくばこ)の中へ置かれた手紙や、直接に面と向き合っての言葉で告白され、同級生からは電話とメールでもされた。

 申し出は暑い夏休みや聖夜と年末年始の冬休み、そして、フリーダムな春休みの前に集中しているから当然、イベントと休みの期間をいっしょに遊んで過(す)ごしたいって意味を含(ふく)めているのでしょう。

 どれもが、私を可愛(かわい)いとか、綺麗(きれい)だとか、素敵(すてき)だとかの理由で、好きになったと書かれていたし伝えられた。だけど私は、自分の容姿に褒(ほ)め称(たた)えられるだけの、意義(いぎ)や価値を見出すことができない。

(可愛いはブリッ子する時も有るから分かるけれど、私の何処(どこ)に綺麗や素敵の要素が見えるのかな? ありえないな。そりゃ、見苦(みぐる)しくないように鏡を見て人並みに体裁(ていさい)は整(ととの)えているけれどね)

 誰だって寝起きのままで、学校や職場へ行かないと思う。

 毎朝の自分の手入れは、顔を洗(あら)って歯を磨(みが)く、それから髪を梳(と)き、産毛(うぶげ)を剃(そ)るだけ。

 自分の外見なんかに興味が無くて、ほとんど無関心だった。

 容姿を褒められて、悪い気はしない、でも私は、嬉しいとは思わず、はっきり言って、どうでも良かった。

『ごめんなさい。お断(ことわ)りします』

 私は、全て即答(そくとう)する。

(私のどこが、綺麗なのですか? 私は、どんなふうに可愛いのですか? 私の何が、素敵なのですか?)

 返答は、誰も彼もが、私の上辺(うわべ)しか見ていなかった。

『今、付き合っている人や、好きな人がいるのですか?』

 断っても、誰も納得しない。

 断られても、決まって訊(き)いてくる。

『いません!』

 私は、はっきり否定(ひてい)する。

(『いる』と、言ったほうが良いのだろうか?)

『お友達から、始めてくれませんか?』

 殆どが、そう返って来る。

(お友達ってどんなのよ? いっしょに歩いたり、話したりするのが、嫌(いや)だから断っているのに!)

『いやです!』

 曖昧(あいまい)には、答えない。

 謝りはしない。

 再度、いや、何度でも、はっきりと強く断っていた。

 暫くして、マナーモードを解除(かいじょ)していたスマートフォンが、メロディーを奏でながら震えて、メールの着信を知らせる。

 『名無し』からのメールだ。

【突然メールを送って、ごめんなさい。麗らかな春の光りや、風や、匂いと桜が、貴女に溶け込むように似合っていました。それは、いつも、僕が、貴女を慕(した)う時に想(おも)うイメージです。優しい貴女が、大好きです】

 謝りの言葉と言(い)い訳(わけ)めいた文を、綴ったのが届いた。

 なのに送り主の名前は無くて、『名無し』が、誰なのか分らない。

(無記名(むきめい)で、よく送ってくるよ。こいつは!)

 また、擽る文字が並んでいて、私をイラつかす。

(私が、優しいだってぇ~? こいつ、ムカつくう! 一方的に私を刺激して卑怯(ひきょう)な奴(やつ)!)

【なぜ、私を好きなわけ? 優しいから? 眠そうだから? 匂うほど、春眠(しゅんみん)が似合っているから?】

 メールには書かれていない、私を好きになった理由を訊いてみる。

【春眠が、似合うのも、眠そうなのも、可愛いと思います】

(微睡む私のアホ顔が、可愛いと、来たですか……)

 変わった外観重視をしてくれる。

 もしかして、変態野朗(へんたいやろう)かも知れない。

 それに、小学4年生からの金沢市での生活で優しさを見せるほど、親しく男子に接(せっ)した覚(おぼ)えは、まだ無い。

【どうして、私が、優しいと知ってるの? 優しくなかったら、嫌いなわけなの?】

 直接話した男子は片手(かたて)で数えるほどだけど、優しさや素直(すなお)さは見せていないはずだ。

(やはり、私を観察してたんだ……。ちょっと、キモイかも)

【貴女は優しいと、僕は信じています。でも、優しくなくても、僕は貴女が大好きです。何か理由がないと、好きになってはいけないのですか? 好きなるのに、理由が必要なのでしょうか? なら……、貴女だから、好きです】

(……『私が好き』を、幾つも、返信して来遣(きや)がった)

 確かに恋(こい)は盲目(もうもく)になって、相手の良し悪しなどは関係無くなると、漫画か、ライトノベルで読んでいた。

 経験の無い私も、そう思っているけれど、ここで、メールを終わらせるわけにはいかない。

【それで、好きだから、どうなの?】

(あっ、返信に、テレが入ってしまったぁ! くそぉー)

 卑怯な奴のメールにテレた恥(は)ずかしさは、私をリベンジへと掻(か)き立てる。

 こいつを言葉で散々遊んで、最後は徹底的に責めて、辱(はずか)しめて、蔑(さげす)んで遣りたい。

【貴女を見かける度(たび)に、心がときめきます。そして、胸が苦しくなって、切(せつ)ない気持ちになります。僕は、貴女が好きなのです。だから、告白しました。本当に大好きです】

(あんたが、私を好きなのは分かったから、だからどうなのよ?)

 私が訊いたのに暈(ぼ)かされた返信をされて、何か遊ばれている気がした。

(こいつ、ワザと惚(とぼ)けている……?)

【好きだけで終わり? 続きは? 何がしたいの?】

(どうせ、こいつも、スケベな事をしたいのに決まっている)

 14歳、思春期の極(きわ)め初め。

 男の子も、女の子も、誰もが、異性に興味を持つ。

【貴女と並(なら)んで歩きたい。笑顔の貴女といっしょに、楽しく話しながら通学したいです】

 期待に反して、厭らしい言葉は綴(つづ)られていない。

(ふう~ん、悪くないかも)

 私はいつも、一人で通学している。

 こいつはきっと、同じ小学校の卒業生で、同じ通学路なのだと思う。

 たぶん、私の近くを歩いているのだろうけれど、それは、いっしょに歩いているとは言わない。

 こいつも、そう思うから、こんなメールを寄こすのだ。

 こいつは、私の真横を歩きたいと言っている。

 毎日、同じ風景の中を行き帰りするけれど、全く同じ日は無くて、毎日が違うと思う。

 雨の日、風の日、雷鳴(らいめい)の日、雪の日、晴れ渡る日、暗くずっしりと重い曇りの日、明るくて軽い曇りの日、様々な雲の層の日、空だけでも、これだけ違う。

 1度だけ、雲一(ひと)つ無い青空の真ん中に稲妻(いなずま)が走る、『晴天(せいてん)の霹靂(へきれき)』のを見た。

 これらの天候は更(さら)に、細分化されて季節の光りや温度や湿度で、もっともっと細かくなって微妙に違っている。

 同じような雨でも、昨日(きのう)の雨と今日の雨は違う。

 限り無く同心円(どうしんえん)に近い毎日でも、世界は緻密(ちみつ)で刻一刻(こくいっこく)と確実に変化して、留(とど)まらない時間に、同じ場面は無い等しいと感じている。

 私の周りの人達や眼に映(うつ)る出来事や聞こえてくる音、吸い込む匂いも、全てが同じようであっても違う。

 一人で歩いていても、私は、無限(むげん)の違いを感じて楽しい。

 それでも違いを掻きまわして私の日々を更に違わしてくれる、いっしょに歩く人がいれば、もっと楽しいかも知れない。

【いっしょに並んで歩くの? 私と話しをして楽しいの? それで何?】

 私の真横を並んで歩くのは、受け入られるかも知れない。

 でも、女の人が男の人と腕を組んだり、凭(もた)れ掛かるように寄り添(そ)って歩くのは、まだ、理解できなかった。

 ちょっと、それは煩(わずら)わしいかも……。

(それは、ちょっと、気持ち悪いかな……)

【もちろん! 凄く楽しいと思います。貴女と手を繋(つな)いで歩きます】

 小さい頃から、男の子と手を繋いだ事が無かった。

(……無理矢理、掴(つか)まれた事は有ったけどぉ)

 近所の男の子には、苛(いじ)められていただけで、仲良く遊んだ事など1度も無い。

 小学校でも、中学校でも、これまで男子と親しくした事はなかった。

 だけど、こうして、堂々と文字にされて求められると、私が想像する、男子と手を繋いで歩く姿と状況に多少の抵抗は有るものの、そうなっても、悪くないかなと思ってしまう。

(まあ、手を繋いで歩くくらいは、今は…… 許(ゆる)せるかな)

【手を繋いで、それから?】

 こいつは、いっしょに遊びたいとか、デートして映画を観ようとは、打って来ない。

 でも……、私には、……触(ふ)れたがっている。

(さあて、どこまで私に、スキンシップを求めてくるかな? こいつは!)

【優(やさ)しく抱(だ)き締(し)めたい。そして、ギュッと、息が詰(つ)まるほど、強く抱き締めて上げたい】

 ドキッとしてゾクッとした。

 まだ抱き締められる事への憧(あこが)れなど微塵(みじん)も無いのに顔も知らない男の子が、私を抱き締められる場面を想像する。

 背筋が小刻(こきざ)みにプルプル震えて、胸が小さくキュンと鳴った。

 スマートフォンの画面の文字が、暈やけていく。

 映画やアニメや漫画で、感動のあまりに我(われ)を忘れて、勢いで強く抱きついてしまう場面を見た。

 そこへ至(いた)る経緯(いきさつ)は、経験の無さから良く分からないけれど、そんな、感動のシチュエーションが私にも有るかなと思いながら見入っていた。

 胸がキュンと鳴った瞬間、それらのシーンが、スライドショーを見るように次々と、暈やけた視界に広がった。

【抱き締めてから?】

 ワザと素っ気(そっけ)無い文字の組み合わせで返す。

 私の動揺を悟(さと)られたくない。

(私から抱きに行く、そんな、展開も有るかも……)

 そう思ったら、急(きゅう)に凄く恥ずかしくなった。

(やだ! 誰だか分からない相手が打った、電子メールの文字なんかで、動揺しているなんて……、どうかしてるわ。何考えてんのよ…… バカみたい!)

 勝手に相手を都合(つごう)の良いイメージにしている自分に苛立(いらだ)つ。

(こいつは、名前も名乗らなくて、どこのどいつか分からない、卑怯で卑劣(ひれつ)な奴なのよ!)

【君と、キスがしたい】

(あいたぁ!)

 バクッと、胸に噛み付かれた感じがして、痛かった!

 『君』の文字で増した苛立ちが、『キス』の文字に、ドキドキして焦(あせ)りに変わる。

(もう、タメ呼びかよ。この名無しは……)

 図々しくも、私の敬称が、敬(うやま)いの貴女から君へと対等になっていた。

(キスって……、ふつう、ストレートに持って来るかなぁ……)

 次の展開が読めそうで、焦りはムカつきになった。

【ふーん。私と、キスがしたいの? そして?】

(こいつ、虫歯が有るかな? ……んん! あーっ、違うって! ないない! こいつと、キスするわけないじゃん! ほんと、ムカつくわ!)

 酷(ひど)い虫歯が有ると、厭(いや)な口臭がするのを知っていた。

 口臭の臭いが、違う。

 そんな人とは、ちょっち離れて話し、風下の位置にならないよう、気を付けている。

 抱き締められてキスをする、ムード有るシチュエーションを想像する私は、想像の中で、私の唇(くちびる)に迫(せま)る相手の口から発する口臭を理由に、キスを拒(こば)んでしまう……。

 でもそれは、焦る自分へのムカつきや酷い虫歯の口臭の怯(ひる)む話しも、私のキスに対するテレからだと分かっている。

 本当は、日常的な世界観や、異性との距離感や、自分の生理的な感覚が変わるかも知れないと、憧れに似たキスへの興味が有った。それと、キスをするに至る状況の経緯と、私の迷う気持ちの変化も知りたい……。

 返しで来る文面が、エッチをしたいとかの、厭らしい内容だったら、変態や変質者呼ばわりしてやろうと思った。

(そんなのだったら…… メールを公開して辱しめて、奈落(ならく)の底へ落とし込んでやる! 絶対、誰なのか突き止(と)めて、2度と、私にメールできないように、激しく罵(ののし)ってやる!)

 回答は、来なかった。

 暫くしても、メールの着信は無った。

 送ったメールが届いているのか、どうかも分からなくて、私を不安にさせる。

(直ぐに、返信して来ていたのに…… この間(ま)は、ワザとなの? なんで、溜(た)めを持たせているわけ? 厭らしい奴!)

 いつ、着信するのか、送られて来るのか、届いているのか、全然、分からなくて、苛立ちと焦りと不安を混ぜ合わせた、強い憤(いきどお)りが渦巻(うずま)いて、私は嘗(かつ)て無いほど凄くイライラする。

 晩御飯を上の空で掻き込んで、テレビも見ずに急(いそ)いで部屋へ行って、机に向かい、参考書を広げるけれど、勉強など手に着かない。

 立ち上がって、壁のハンガーに掛けた制服のポケットから、スマートフォンを取り出して画面を開く。

 メールの着信を示すアイコンの点滅やメッセージは、画面に出ていなかった。

 落ち着かない私は、送信したメールが相手に届いていないと判断して、指先を画面パネルに素早くタッチさせて再送操作をする。

 再送準備が終わって、送信アイコンに触れようとした時に、握(にぎ)っていたスマートフォンが震え、くぐもったメロディーが掌(てのひら)で塞(ふさ)がれたスピーカーから聞こえた。

【君は、何をして欲しいの?】

 着信した『名無し』のメールを開いた私は、髪の毛が逆立つ思いだった。

 全身の毛を逆立たせて威嚇(いかく)を噴(ふ)く猫のように、苛立(いらだ)つ私は唸(うな)っていた。

 更なる展開、行き着く文面と想像、それを求めていたのは、私の方だった。

(こいつは、私を試(ため)していた……? 返されるメール内容は、予想されていて、この局面になるのを読まれていた? この逆展開も、織り込み済みだったの?)

 からかって恥を曝(さら)してやろうと、嘗(な)めて掛かった見知らぬ計算高い相手に、逆に嵌(は)められて辱しめられたと感じた。

(悔(くや)しい!)

 私はメール画面を閉じて、スマートフォン机の上に置いた。

 とても、メールを返す気にはならない。

 得体の知れない不安が、返信をできなくさせてしまった。

 私は、誰だか分からない、名無しのメール相手を恐(おそ)れている。

(誰だ、こいつは? 納得がいかない…… 必(かなら)ず、誰なのか見付けてやる!)

 1度っ切りで会って、はっきり、断ると良いのかも知れない。

 物事を素直に受け入れられない捻(ひね)くれた私の性格の悪さが、『名無し』への報復(ほうふく)へと駆(か)り立てている。

 この初動の対応と判断と拘(こだわ)りが先々まで、ずっと、しこりになると思ったのだけど、今は、そうせざるを得ない。

 一瞬の予感は、憤りに掻き消されてしまう。

 私の外見は、冷静そうな無口で大人しく、優しげに見えても、内面の葛藤(かっとう)や荒(あら)ぶった感情が、行動や態度や言葉に現れてしまい、これまでに何度も、失敗や後悔をしていた。

 それなのに今回も、『名無し』を見付け出して軽く落とし前をつけてしまえば、不快な気持ちは速(すみ)やかに終わりになると、私は浅はかに考えていた。

     *

「お早う!」

 気持ちが軽(かろ)やいだ弾(はず)みで、あいつに挨拶をしてしまった。

 しかも、顔の筋肉を弛緩(しかん)させて……。

 無警戒に気が緩(ゆる)んだ自分を恥ずかしく思い、後悔した。

「おっ、おう、おはよう……」

(ほーら、親しげに挨拶(あいさつ)を返してきた。まっ、常識的な御挨拶だから、誤解しないでね。自分勝手な単なる弾みだったんだから。近しくするつもりは無いの。これから、『名無し』に遣り返さすんだから、それどころじゃないのよ)

 驚いて明るくなった顔のあいつに、言い聞かせるように思いながら、首を傾(かたむ)けて笑顔のまま、挨拶を受ける。

 余程、私の突然の挨拶に驚いたのか、あいつの吐(は)き出す息に乗せた声は、弾んで異常に高く聞こえた。

 あいつの顔に初めて交(か)わした挨拶で、恥ずかしさと照れ臭さが現れ、伏せ目勝ちに目が泳(およ)ぎ、頬と、額と、耳が、紅(あか)くなった。

 次に嬉しさで、目許(めもと)と口許(くちもと)が緩み、それから不意に顔を上げ、驚きで見開かれた瞳で私を見て、現れる表情の変化や変わる順序の不思議さと、その面白さに見入っていた私と目が合ってしまった。

 そして、私に見られていたのに居(い)た堪(たま)れなくなったのか、そそくさと、あいつは教室を出て行ってしまった。

 2年前の春の日に私の爪を見て、『四角い爪』と言い放ち、コンプレックスを私に抱かせ、暗い気分にさせたあいつと、再び同じクラスになった。

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 新学年の初日の朝、指定されていた席に座り、麗らかな春の陽射しと風を浴びて心地良くしていると、あいつが教室に入って来た。

(あーあ、また、あいつと……、同じクラスかぁ……)

 教室に入るなり、私に気付いたあいつは動きを停めて固まり、半(なか)ば口を開いた驚いた顔で私を見続けていた。

 その見開いた目から、サクサク私に刺さる好奇心の視線を感じながら、私はプイッと、窓の外の明るく麗らかな世界へ顔を向けて、あいつを無視していた。

 気分はブルーだ!

 音楽の授業で歌えずに大恥を掻いていた、あいつの美術の作品は校内の賞を何度も取って、其の度に廊下の大きな掲示板に展示されていた。

 『四角い爪』の件で避けるべき相手だったけれど、あいつの作風が好(この)みで、私は良く観ていた。

 『四角い爪』発言で不快感を与えてくれた、あいつと話したくない私は、学校のイベントや集会では、なるべく、あいつから離れ、あいつが近付きそうになると移動して避けていた。

 1度、あいつが作品を観ていた私へ、近寄ろうとしているのに気付いて其の場を離れたら、あいつは走って追い掛けて来て、不安になった私は、ささっと、トイレに隠れて逃(のが)れていた。

 あいつは席決めの抽選で私の真横の席になったけれど、私に避けられているのを知っているのか、私へ言い放った『四角い爪』を意識しているのか、いつも、無言で私と1度も会話どころか挨拶もしなかった。

 あいつが、そんなのだから、……私も意識して、あいつを無視して無言を通していた。

 いっしょのクラスの間は、ずっと、そうしていよう思っていたのに、私の一時(いっとき)の高揚(こうよう)した気持ちが、あいつに挨拶させてしまった。

 隣の席を離れて行くあいつを、視界の隅(すみ)に意識しながら、手の中のスマートフォンのメール画面を再(ふたた)び見た。

 その画面に表示されている、まだ、閉じていない送信したばかりのメール文が、あいつに『お早う』と明るく声を掛けてしまった原因だった。

 丁度、メールを送信した時に、あいつが真横の自分の席に来た。

 送信メールは、送信先である『名無し』の望(のぞ)みを悉(ことごと)く拒否して、『名無し』が誰なのか探(さぐ)る企(たくら)みを秘めた文面だった。

【あんたが、誰だか、わからないけれど、キスされるのは嫌よ! 抱き締められるのもいや! 手を繋いで、並んで歩くのもダメ! いやよ! それと、電話は絶対ダメよ! 絶対しないで! 声は聞きたくないわ。誰とも、話したくないの。話すのは、鬱陶(うっとう)しいし、面倒臭いから……。ときどきなら、メールだけは、我慢してあげる】

 これでオフで会う事は無くなり、電話もして来ないだろう。

(メールには、メールで、決着をつけてやる!)

 文字を打ち込みながら、『名無し』の望みは拒否だけど、メール交換だけは許す文面を読む、『名無し』の心境や反応を想像する楽しさと、今後の展開に期待している自分が可笑(おか)しくて、きっと、口許が緩んで顔が笑っていたと思う。

 上擦(うわず)った気持ちになってしまい、思わず、笑窪(えくぼ)も作っていたに違いない。

 そのタイミングで、あいつが隣の机の上にカバンを置いた。

 私は、軽い気持ちで悪戯(いたずら)な遊びをするような楽しい思いを、誰かに伝えて、いっしょにはしゃぎたかったのかも知れない。

 そんな気の緩みから、明るく弾んだ声で、あいつに挨拶をしてしまった。

(あいつは何故(なぜ)、あんなに嬉しそうな顔をして、ハスキーな声だったのだろう?)

 着信の画面を開いて俯(うつむ)いた、あいつの顔と、教室から出て行く姿が重(かさ)なる。

(もしかして、あいつが、『名無し』だったら……)

 日頃は、私に関心が無さそうなのに、今の、あいつの態度が挙動不審に思えた。

(あの反応は、なに?……でも、そんなはず無いじゃん! 真横の席だよ。……ふつう、気が付くでしょう……? あいつは、『名無し』とは違うでしょ)

 一瞬、『あいつかも……』と過(よ)ぎった思いを、私は振(ふ)り払う。

(あいつの好きな相手は、この私? あいつが告白メールを送った相手は、わたし……。あっ、有り得ないぃ……!)

     *

 今度も、隣の机の奴の美術の作品が、廊下に展示された。

 脇に金色のリボンを添えられた、鉛筆デッサン画は、先週の美術の授業で描(えが)かされたものだ。

(あっ! あの絵は……)

 金賞に選ばれた作品は、窓辺に片(かた)肘(ひじ)を突(つ)いて外を眺(なが)める女子の後姿で、そのポーズとセーラー服姿の容姿を見た瞬間、私の背中がゾクゾクと悪寒(おかん)で震えた。

(わっ、私じゃん!)

 絵の顔は後姿だから、後頭部しか描かれていないけれど、髪形(かみがた)は明(あき)らかに私だ!

学校には、私と同じ髪形の女子が幾人かいるけれど、絵の構図バランスが性格に描けているならば、後姿からの背格好、曲線の連なりの輪郭、ポーズ癖、肉付きは、どう見ても、私しかいない!

(いっ、いつのまに……。どうして、モデルが、私なのよ!)

 輪郭(りんかく)を暈かした私の後姿が、鉛筆の濃淡(のうたん)と太さの違いだけで、綺麗に描かれていた。

(ううっ、デッサン正確だし……)

 私のボディラインが、良く観察されている。

確かに、そのポーズで15分ぐらい、美術室の窓から外を見ていた。

(たった、15分ほどで、私の後姿を、トレースしたってこと? そして、残りの時間で仕上げたわけなの?)

 改(あらた)めて、あいつの美術の才能に感心した。

(いや、違うでしょ!)

 これは、感心するわけにいかない。

 私の承諾無しで、勝手にモデルに使われた。

 ここは怒(おこ)るのが筋(すじ)だけど、思いの外(ほか)、バックシャンに描けているから許(ゆる)してやろう。

(あんたが、金賞になったのは、モデルが良いからだからね!)

 隣の席に座る奴を意識しながら、自分を納得させた。

 こいつにせよ、『名無し』にせよ、渚(なぎさ)に漂(ただよ)うビニール袋のように私を苛付かす。

(ん! 漂うゴミのビニール袋を避ける為(ため)に、泳ぐ場所を変えたのに、同じビニール袋が、流れて来たっていう感じの不快感! なんで、黙(だま)って私をモデルにしてんのよ! 『名無し』も変だよ! 名乗れっちゅうの!)

 そう思って、私はハッとした。

(似(に)ている!『名無し』と同じ、無視された不快感だ…。 もしかして…… やはり?)

     *

(疑(うたが)うのならば、試してやれば良い)

 私は『名無し』へ、空メールを送信した。

 僅(わず)かな間を置いて、スマートフォンの振動する唸りが、近くで小さく聞こえて、数秒で途絶(とだ)えた。

 教室内の誰かのスマートフォンが、着信している。

 1分待って、2度目の空メールを、『名無し』へ送る。

 また、僅かな間を置いて、小さなバイブレーションが聞こえ、直ぐに止(や)んだ。

 とても、近くのようだった。

 私の顔の筋肉が動いて、頬(ほほ)が突っ張った。

 耳が唸りを捕(と)らえようと向きを変えて広がり、その筋肉の動きに釣られて、横目で見ている目の端が吊(つ)り上がるのがわかる。

(やはり、 私のメールが、直ぐ近くで着信している。『名無し』は、……隣のこいつなのか?)

 間の長さ、唸りの響き、音の大きさは同じぐらいだ。

 私は横目で、ずっと、隣の奴を見ていた。

 1度目も、2度目も、スマートフォンに触れているような動きは無い。

 また、1分待って、3度目の空メールを、『名無し』へ送る。

 着信の振動音がした方向を見ながら、メールを送る。

 今度は、バイブレーションの音が聞こえない。

(バイブレーションを切られた? こいつじゃなかったのか……? ん! んん!)

 そう思ったのも束(つか)の間で、真横のあいつが机の影でスマートフォンを握り締めていた。

 手の中のスマートフォンは、LEDの光を瞬(またた)かせて、着信する電波が有ることを知らせている。

 あいつのスマートフォンを握り締めた手の親指が、僅かに動いて画面が開かれた。

 LED光の瞬きが消えるのと、コール中の私のメールが受け取られたのと、殆んど同時だった。

 疑いは、確信に変わる。

(えーっ、こいつぅ~! やっぱり、あんただったのぉー)

 『わかった!』、お隣さんを睨(にら)みながら、メールタイトルを打ち込む。

(あんた! 今まで散々観察して、私の反応を楽しんでくれていたわけね)

 確信を決定にする為のメールを送信する。

【あんたが、誰か、わかったわ】

 あいつの手の中のスマートフォンが、再びLED光を点滅させた。

 スマートフォンに被(かぶ)せた手が、微(かす)かに震えていて、小さくくぐもった振動音が聞こえる。

 バイブレーションは、作動中だ。

 もはや、決定的だった。

 こいつが、『名無し』に、間違い無い。

(くそぉ! 私を弄(もてあそ)んだ償(つぐな)いに、どう甚振(いたぶ)ってやろうか?)

【そう、名無しは、やっぱり、あんたなんだ】

 名無しメールの厭らしい奴は、毎朝の登校時に向い側の歩道を、いつも、少し後ろに離れて歩いている、あいつだった。

 そいつは今、教室の隣の席で背を丸め、目線を下げた顔を少し向こうに回して座り、私からの続け様の着信で4度震えたスマートフォンを、両手で隠(かく)すように握り締めていた。

 それから、終わりのチャイムが鳴って、そそくさと、教室から逃(に)げるように出て行くまで、あいつは1度も、私へ顔を向けなかった。

(逃げた! あんただと、バレたんだから、ちゃんと、私を謀(たばか)って楽しんでいた事を詫(わ)びなさい。それから、改めて、私に告白すべきでしょう)

 本日の授業が全て済み、終礼を終えても、私を一瞥(いちべつ)する事も無いまま、黙って謝りもせずに帰って行ったあいつが、信じられない……。

(あいつは、隣の席から、私の反応を楽しんでいたの……? 私は弄ばれて、バカにされていた!)

 今まで、ちょっとでも、あいつを意識していたのが、悔しい。でも……。

(もしかして、今の……、あいつの逃げ帰って行く態度は、私の所為(せい)? 私の所為で、謝る事ができないっていうの……?)

 私の態度や物言いが、あいつに、声を掛け難(にく)くさせているのだろう。

(しょうが無いでしょう。私の性格なんだから)

 私は、自分の性格が好きで、気に入っている。

 性格を直(なお)す理由が無いし、必要だとも思わない。

(大体、あいつが勝手に、私を好きになっただけの、あいつ自身の問題で有って、私は何にも関係無いじゃん!)

 あいつの告白対象になった私は、私に言い寄って来る他のウザったい相手と同じように、あいつも、あしらって遣っただけ。

(だったら、こんな性格の私を、好きにならなければいいじゃん! そりゃあ、ちょっちは、仕返しして……恥を掻かせて遣ろうと考えていたけれど、まだ何もしてない……。あーっ、イラつくわあー)


 つづく

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