青い月
三宮優美
青い月 1/1
空には青い望月が浮かんでいる。
地球の衛星、ブルームーン。太陽からの光を受けて昼間でも強く輝く、青い大きな衛星である。
一見美しいその星は、非常に有害な毒性の強い液体がその表面のすべてを覆っているらしい。もし、あの衛星に月面着陸しようものなら、人間は一秒も保たずに死んでしまうそうだ。
少年は天体を眺めるのが好きである。いつか宇宙飛行士になって、ロケットで旅立ってみたいと夢見ている。特に恐ろしくも美しいブルームーンは少年のお気に入りの天体だ。地球にとって最も近いその天体に、人類が未だ着陸出来ていない事を悲しく思っている。
そんな彼の夢に周りの大人はみんな反対する。宇宙開発はもう数百年も前に頭打ちになった過去の遺物だ。
昔の人々は光速で動く宇宙船の神話を妄想していたらしい。地上に存在する物質の硬度では、そんな速度に耐えられないで崩壊するし、そもそもこの地上から発進して、宇宙では光速で動く動力なんて存在しない。
仮にそんな非科学的な物体が実在して、この星から旅立ったとしても、人間が旅立てる宇宙の範囲は狭く、人の寿命では移住可能な星に辿り着く前に死んでしまうのに、昔の人々はそれでもなお、宇宙に夢を見ていた。
少年にはそれが理解できる。この地球という星の中に閉じ込められたまま、死んでいくよりも、命が尽きようとも未知の冒険に旅立ちたい。昔の人達は神の領域に人類が届くというような神話を信じていて、文明的に劣っていたから無意味な宇宙開発なんてしていたと、そんな風に教えられてきたけれど、実現不可能な夢を見る事を悪しざまに否定するこの世界が、少年にはとても窮屈に思える。
その日の夜は惑星管理システム『ノア』が二十時十五分より雨天の予報をしていた。空は星の瞬く晴天から緩やかに曇り空へと切り替わっていた。少年は生体管理システムのバイオウェーブの選択を『CHILL MODE』にして、ゆっくりと山道を散歩していた。少年は感傷的な気分だった。明日はついに幼少期スクールの卒業日で、卒業式では最後の教育データを生体管理システムにインストールする。『成人』の人格規格を得て、やっと世間的に大人と見做されるのだ。
(もし、大人になったら。僕はどう変わってしまうのだろう。もう宇宙を夢見たりしなくなるのかな)
数百年前、かつての人類は、未だ動物性から進化できていなかった。人口を無為に増やし、少ない資源を争奪する為に殺し合いをしていた。力のある個体や群れが資源を独占し、上位種に支配される弱い個体は奉仕労働を強いられて苦しんでいた。資源を取引する為の依代に「資本」と名付けて、それ自身に価値があると思い、競い合い奪い合っていた。
人類の知能指数には格差があった。規格も無くオスメスは自由に交配して、自然淘汰のみで子孫を残していたから、受け継ぐ遺伝子にバラつきがあった。下位種は経済という幻想を支える資本が、実は形のない空洞であるという事を理解できなかったし、資源を独占する上位種は下位種に都合の良い思想を広めて、その理解力の無さを利用していた。歴史上、人類が恐ろしく野蛮だった時代の事である。
争う事も無く、均等に分配され、無意味に必要十分以上の富を求めたりもしない。
こんな安定した理想的な時代に生まれた事に、感謝しなければならない。そういう風に教えられて来た。
穏やかな夜風が、揺りかごの音色を奏でている。少年は生体管理システムに推奨された情動安定音楽の再生を断ったので、静かな夜の森は落ち葉を踏む音だけが聞こえている。誰にとっても心地の良い夜だ。しかし、少年には『ノア』が作り出した安全なこの世界全てが、どこか無機質で息苦しいのだ。
大人になったら、そんな苦しい気持ちも全て無くなるらしい。だというのに、少年はそれを素直に喜べないでいた。
突然、少年の目の前に銀の球体が現れた。大きさは直径五メートル程度の機械のようなものが、森の開けた場所に落ちている。球体は月の光を反射して、青白く輝いていた。
──あれは、一体何だろうか。
少年は好奇心を抑えられず、その物体に近づき、手で触れる。物体の平滑な表面は、よく見ると僅かな切れ目が入っている。
その浅い溝に指を這わせた突如、プシュッと音を立てて、まるで花の蕾が開くように球体が展開した。
開いた球体の中心には、銀髪の美しい少女が眠っていた。少年は恐る恐る、少女の肩を揺り動かしてみる。少女は目覚めなかった。
まさかこれは死体なのかと、少年は怯える。人は死を目前にすると、『ノア』によって地球のコアへと導かれ、地球の動力の糧と変えられる。少年の年老いた家族達も、三百年ほど生きた後、ある日突然病院の床から消えていなくなっていた。だから、死という状態がどういったものなのか、少年は知らない。しかし、死んだ人間は呼吸が止まってしまうという知識はあった。
少女が穏やかな息吹を繰り返しているのを確認して、少年は嘆息した。
やがて二十時十五分ちょうどになって、『ノア』が地上に予告通りの雨を振らし始める。
少女の白い頬に雨粒が落ちて、銀糸の長い睫毛が持ち上がった。少女の持つ美しい瑠璃の瞳に、少年は目を奪われる。その瞳は曇天の夜空から僅かに漏れる月光を集めて、宝石のように輝いていた。
「君は誰?どこから来たの?」
「……私の名前はイヴ。あそこからやって来たの」
ぼんやりとした瞳で少年を見つめた少女は、まだ夢の中にいるように、蕩けた声音でそう名乗り、最後に青く滲む朧月を指差した。
「君は月からやって来たの?」
「あの星には、あなた達の先祖が住んでるのよ」
「でも月にはH2Oという有害な液体が溢れているから人間には住めないよ」
少年の言葉に少女はクスクス笑う。
「水は有害じゃあないわ。だって私達の体も水で出来ているもの」
少年の知らない事を、少女は知っているようだ。少女に笑われた事に、少年は少し不機嫌な気持ちになる。
「そうだとしても、液体の中では人間は生きていけないよ」
「昔、あの星には陸地があって、沢山の人が暮らしていたの。選ばれた貴方たち人類は私達を置いて、空へと去って行ってしまったけど。残された私達は海の中でお城を造って暮らしているのよ」
「海?」
「大災害の日、罪を犯した人類には罰が与えられて、たくさんの水が、陸地すべてを飲み込んでしまったの。たくさんの水の事を私達は海と呼ぶのよ」
少年もどこかで聞いた事のある、遙か昔の人々が信仰した神話を少女は語った。
「君はどうしてこの星にやって来たの?」
「私は探しに来たの。遺伝子の滞りを治すために」
「何を?」
「私の夫になってくれる人」
「その人を見つけたらどうするの?」
「連れて帰るのよ、私の星へと」
少女の話は、少年の心にあまりに魅力的に響いた。少年は遥かなる青い月の世界を思った。そして、とても悲しい気持ちになった。
「どうして貴方は泣いているの?」
「だって、僕は明日大人になってしまうから。大人になったら、君のことも、水に覆われた星に住む人達の事も、あの青い月が美しい事も、みんな忘れてしまうんだ。僕は大人になりたくない」
その瞬間、少女は微笑んだ。そして、少年の手をそっと握った。
「じゃあ、私とここから逃げましょう」
──その悪魔の微笑の、なんと蠱惑的な事か。
少女に魅了された事を感じ取り、もしかして初めから、自分が選ばれる事は決まっていたのかも知れないと少年は思った。
しかし、少女の手を握り返す事に、すでに迷いはなかった。
やがて、銀の小舟は二人の夫婦を乗せて理想郷から飛び立ち、青い海へと堕ちた。
青い月 三宮優美 @sunmiya777
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