エピローグ

 帰ってから、浴衣を脱いで、お風呂に入って――それからわたしは、また、ばあちゃんの目を盗んで、砂浜へ向かった。




「光」




 わたしが声をかけると、白いワンピースを着たその人は、ゆっくりと振り返った。




「瑠璃」




 海はもう、とっくに静かになっている。花火も上がらないし、露店の喧騒もない。ここにあるのは、ただ静かな海と風。そして、月と星空。




「花火、すごい音だったでしょ」




 わたしが言うと、光は無言でうなずいた。




「びっくり、しちゃった。瑠璃も、見てたの?」


「うん。玉ちゃんと一緒に、夏祭りでね。八石さんや、五色先輩も来てた」


「そう、なんだ……」


「ごめんね、誘わなくて」


「ううん、人混みは……苦手だから」




 わたしは、光の手を取って、ポケットの中から取り出したものを、白い小さな手のひらに握らせた。


 ばあちゃんからもらった、あの簪だ。




「これ――光が、持っていて」


「これは……?」


「ばあちゃんから、もらったの。とっても、大切なものなんだって。わたしが将来、結婚するときに渡すつもりだったって……きれいでしょ? この、青い月。ばあちゃんはこれを見て、わたしの名前を付けてくれたんだって。それくらい、大切なもの」


「瑠璃……」


「でも――わたしが持ってたら、なくしたり、壊したりしちゃいそうだから。なんなら、髪留めに使ってもいいよ。わたしと違って、光は髪が長いから、いろいろ使えそうだし」




 ほんとうは、すごく、迷った。


 大好きなばあちゃんにとっても、すごく、すごく大切なもの。結婚という幸せの、シンボルとしてもらって、でも結局付けられなくて、――わたしのために、大事にとっておいてくれたもの。それを、誰かに預けていいのかどうか。


 でも、玉ちゃんの言葉を聞いて、決心がついた。


 光は、ただの友だちじゃない。もっと特別で、大好きで――からっぽのわたしを満たしてくれる、わたしの血液、わたしのエーテル。




「とっても、とっても大切なものだから――わたしの名前を決めてくれたものだから――だから、光に持っていてほしい。どんな時も、一緒にいられるように」


「……、うん、ありがとう」




 光は両手で、大切に、小鳥をそっとそうするように、簪を胸に抱いた。




「大切に、する。ずっと、いつまでも……」


「うん。お願いね」


「でも、わたしは……あなたに、なにも、あげられない」


「もう、もらってる。いっぱい……この体に、いっぱい、もらってるよ」


「え……?」


「でもそうだなあ、もし、光の気が済まないっていうなら――いつか、月の石でも拾ってきてよ。そしたらわたし、それを指輪につけて……指にはめてもらおうかな」




 …………、




「い、いざ言ってみると、恥ずかしいね。やっぱり、変かな。こういうの」


「約束、する」


「え?」




 光は簪を、月の光にかざした。きらきらと、螺鈿や、金の象嵌や、――瑠璃が、きらめく。




「これを……月まで、持っていく。それで、一番きれいな、月の石を拾ってくる。それを、指輪にして、瑠璃の……左の薬指に、つけてあげる。かならず、持ってくるから。約束だよ」


「うん……約束ね」


「ウミナリ……聞いている?」




 光が砂浜を見渡すと――


 波打ち際に、いつの間にか、ウミナリが立っていた。白い服を着て、にこにこ、微笑んでいる。




「聞いていたよ」




 子どもの顔で、大人っぽくしゃべるウミナリに、光ははっきりと告げた。




「瑠璃は、わたしのもの。わたしが、必ず……幸せに、するから。だから、見守っていて。わたしたちのこと……」


「約束を、破ってはいけないよ。聞いていたからね」


「うん。約束」


「ねえ、ウミナリ!」




 今度はわたしが尋ねる番だ。




「教えて。光のお父さんは、どこにいるの?」


「瑠璃……?」


「ごまかしたりしないでね。わたしたちは、あなたに約束した。約束を破ったら、ばちがあたるのも覚悟した。その代わり、約束を守ったらご褒美をちょうだい。――あなた、時見町の神さまなんでしょ? だったら、光のお父さんがこの町のどこにいるか、知っているんじゃないの?」




 ウミナリはじっと、黙っている。


 不思議だ――波は寄せて返すのに、白く泡立っているのに、音が全くしない。風が吹いても、木の葉が揺れても、なんにも聞こえない。




「ねえ、ウミナリ……」


「――――だいじょうぶだよ」




 小さく、子どもらしい口調で、ウミナリは答えた。




「いつか、かならず――かならず、会えるから。だから、だいじょうぶだよ。さみしくても、とおくても、だいじょうぶだよ。こわくないよ」


「ウミナリ……」


「――えへへ、じゃあね」







 波の音がした。


 ウミナリは消えていた。わたしたちはその場にぽつんと残された。月が明るく、煌々と輝いている。




「光……聞いた?」


「うん」


「神さまが、約束してくれたよ。いつか、必ず会えるって」


「うん……」




 光はゆっくりと、うなずいていたけれど――目からはつーっと、一筋、涙が流れ落ちていた。


 わたしは光の涙を指で拭おうとして、やっぱりやめた。その涙も、とっても、とっても……あまりに、きれいだったから。




「光。キスしよう」




 わたしの言葉に、光はうなずいた。


 月の光。わたしたちは正面から向き合う。


 光はわたしの背中に手を回して、わたしは光の腰に腕を回す。




「瑠璃の、目……とっても、きれい」


「光も、すごくきれいだよ」


「瑠璃……だいすき」


「わたしも、だいすきだよ。光」







 ――このキスは、特別だ。ほんの一瞬だけのキス。だけど、これがすべてのはじまりになる。


 羽山瑠璃じゃなくて、わたしの世界の、今日がはじまりの日。うねって、うずまいて、混沌とした、今までのわたしが――ちゃんと、瑠璃わたしとして生き始めるための、大切な儀式。




 これが、そのはじまりだ。




 はじまりには――光があった。

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渚のルーニィ 王生らてぃ @lathi_ikurumi

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