第7話‐③

 ばあちゃんにはものすごく怒られた。寿命が縮んだと言っていた。


 玉ちゃんにもいっぱい泣かれた。ばか! って、初めて言われた。


 近所の人や、室戸先生や、警察の人たちもみんなが大騒ぎだったみたいだ。側溝を流れて行ったわたしのスマートフォンが、下水を伝って伝って、隣町の海のそばまで流れて行ってしまったから、誘拐されたんだとか、津波にさらわれたんだとか、よくない話が飛び交っていたようだ。わたしがけろっとした顔で帰ってきたときは、みんなが泣いてくれた。


 でもわたしは、戻ってきたんだ。


 わたしの家に。わたしの居場所に。







「ランさん」




 ひととおり落ち着いて、新しい携帯電話も作った後、わたしは、『海の家』に行った。ランさんはいつも通り、畳の上で煙草を吸いながら、窓から外を見ていた。




「やあ、瑠璃。おかえり」


「――ごめんなさい」




 わたしは、ひとこと謝りたかったのだ。




「わたしが聞きたがったから、ランさんは話しただけなのに――わたし、取り乱してしまって。不安になっちゃって、頭、ぐるぐるして……わたしは人間じゃないんじゃないかとか、そんな風に……バカみたいな空想を、真に受けちゃって。みんなに、心配かけて……ランさんも、探し回ってくれたんだって、光から聞きました。あの……ほんとうに、ごめんなさい。わたしのせいで」


「空想、ね……」




 潮風に乗って、紫煙が部屋の中に入り込んでくる。ランさんはどこか物憂げに、窓に腕をもたれさせていた。




「ねえ、瑠璃。この世ってけっこう、空想で成り立ってると思わない?」


「空想……?」


「例えば、いま僕がこうして目の前で話していても――瑠璃は、僕が何を考えて話しているか、わからないよね? だって、瑠璃は僕じゃないんだから。僕も瑠璃じゃないから、瑠璃が何を考えているかは、わからないよ。でも、瑠璃はだいたい見当をつけるだろ? あーこの人何も考えてないな、とか」


「はい」


「ひ、否定してよ……まあいいけど、そういうこと。人間は五感で世界を認識して、認識できない範囲は空想で世界を構築する、正解とか不正解とか、ないんだよ。世界は人それぞれだ」


「人それぞれ……」


「前に話したろ? 僕は人間じゃない、リュウグウノツカイの卵から産まれたって。それは本当かもしれないし、うそかもしれない。でも、僕にとっては本当のことだし、そう信じてる。さて――瑠璃はどう思うかな?」


「……、」




 なぜか、うそだと思います、とは言えなかった。


 ランさんは笑う。




「そういうこと。きみは、きみが信じたいように世界を作っていいんだ。見たくないものは見なくてもいい。欲しいものを欲しがっていい。触れたいものに触れて、食べたいものを食べて、好きなものを愛して……そうして、世界は美しく作られていくんだよ。もちろん、その世界と、ほかの世界がぶつかり合うこともある。でも、たまたまぶつかった隣の世界を見てみたら、思ったよりきれいかもしれない。それを真似してみたって良い。そうじゃなかったら、一緒に世界を作ってもいいよね。そうして――なんとなく一つになっているように見えるのが、この大きな世界」


「……、」


「瑠璃。きみが本当は何なのか、僕にはわからない。僕は、瑠璃自身もわかっていないんじゃないかと思ってる。覚えていないんじゃないかって」


「はい……」


「でも、だから何? きみは、きみだ。羽山瑠璃という『何か』で、いいじゃないか。きみが『取り換え子』だとして――人間じゃなくなったとして、きみの友だちや家族はきみのことを嫌いになるかなあ? いや、そもそもそんな話、信じるかな? きみのおばあさんや、きみの友だちは、きみが人間だから、生まれながらの羽山瑠璃だから、その確証があるから、それ以外には認められないから、だからきみのことを愛してくれているのかな? ――僕は、違うと思うけどね」




 ランさんは、へへっと笑った。


 その横顔は、キザな男の人のようでもあり、カッコいい女の人のようでもあり――やっぱり不思議なひとだなあと思った。




「ありがとうございます」


「まあでも、今回の騒動は僕にも原因がある。反省してるよ。ちょっと、無神経な言い方だったかもしれないね」


「いえ、そんなこと……ないです。むしろ、すっきりしてるんです」


「すっきり?」


「わたしの――両親のこと」







 わたしはずっとひとりだった。そんな気がしてた。


 ふつうの人は、お父さんがいて、お母さんがいて。お父さんに抱っこしてもらって、お母さんからおっぱいをもらって、いっぱいしゃべって、けんかして――たとえ両親が死んで、離れ離れになっても、その思い出や記憶は、ずっと残っていくんだろう。


 わたしにはそれがなかった。


 毎日、仏壇に手を合わせて、親孝行な娘の振りをしていても、ほんとうは目を開いて、遺影のほうを見たって、それが自分のお父さんとお母さんだなんて、ちっとも実感がわかなかった。それが普通の気持ちなんだと思ってた。そういうものなんだって。でも違った。


 ぽっかりと穴の開いた、むなしい心。


 この世界に、ぽーいと、ひとりで放り出されたような感覚の正体。それが今、分かった気がした。ランさんはヒントをくれたのだ。もちろん、空想かもしれない。ぜんぶわたしの思い込み、ばかげた話、迷信かも。


 でも――そう思ったら、すっきりとはする。それでいいのかもしれない。







「両親、か」




 ランさんはふーっと煙草をふかした。そこには、深いため息が混じっているように見えた。




「光の、お父さんのこと――ですか?」


「僕は、このまま会えないままでもいいんじゃないかなって、そう思っている。光の思い出の中にさえいれば、それでいいんじゃないかって。今、存命しているのかどうかもわからない。出会ったからといって、それが幸福な出会いになるとも限らない。それに、光はもう、じゅうぶん幸せそうだしね」


「……、」


「チョコレートの箱は、開けてみるまで分からない。でも、開けずにとっておくのも、ひとつの選択だよ」


「そんなの……なんだか、もったいないですね」


「かもね。でも、開けなきゃよかった、って後悔するかも」


「ランさんは、光が後悔するって、そう思ってるんですか?」




 無言。




「ほんとうは、何か知ってるんじゃないですか? だとしたら――」


「えへへ。ないしょ」


「な……」


「でも、いつか分かる時がくる。あの子が見つけるのか、それとも誰かに教えられるのか……あるいは、案外ふらっと目の前に現れるのかもね。それがいつかはわからない。その時まであの子を見守るのが、僕の役目」




 ランさんは窓に腕を乗せて、煙草を大きく吸い込んだ。後ろにまとめていた髪をほどくと、潮風になびいて、銀色の髪が天の川のようにきらめく。いたずらっぽい笑顔。細めた碧色の瞳が、きらっと、螺鈿のように色めく。


 不思議なひとだなあと、はじめて見たときから思っていた。いろんなことを知っていて、いろんなことを教えてくれる。でも、笑うとすごく、きれい。大人の男の人みたいでもあるし、年下の女の子みたいでもある。




「わたし……ランさんみたいに、なりたい」




 ランさんは目を丸くして振り返った。




「わたしは、わたしのことを、なんにも知らない。自分はいったい何なのか。この町のことも、光のことも……いろんなことを、知りたい。ランさんが、わたしに、教えてくれるみたいに」


「んふふ。あんまりお勧めしないよ?」


「でも、やってみたいです」


「そっか。それじゃあ……瑠璃はまず、勉強をしなくちゃね。学校の勉強だけじゃないよ。言葉や、歴史。いろんな本を読んで、たくさんの世界を知るんだ」


「いいですか? ここで、その勉強をしても」


「いいよ」







 その時、出入り口から足音が聞こえた。階段を上ってきて、白くて、きれいな顔がのぞく。




「あ……瑠璃」




 白いワンピース姿の、亜麻色の髪の少女。




「光」




 にっこりと、微笑んだ。







 わたしはそれからも、毎日のようにランさんの『海の家』に通い続けた。


 いろんな本を読んで、ノートをつけて。時々、学校の課題を教えてもらったりもした。ランさんは本当に物知りで、何でも知っていた。


 時々、光も来て、一緒に勉強を教えてもらった。ふだんの授業のこととか、全然知らなかったけれど、光もすごく頭がよかった。特に、数学だとか、物理だとかが好きみたい。「月に行きたい」というあたり、やっぱり理系志望なのかもしれない。


 難しい数式や、物理の公式を見ていると、わたしなんかはちんぷんかんぷんだけれど、光は簡単にわかるようだった。




「数字や、記号には……いろいろな、色があるの」


「色?」


「うん。うっすら……それを、一番きれいになるように、組み合わせるの。間違ってると、真っ黒で、すごく……気持ちが悪くなる」




 そんな話をどこかで聞いたことがある。いろんな色に味を感じたり、音楽に形を感じるという人のこと。そういえば、光はいつも言っていた。わたしの声のことや、海の音のこと……




「だから、人混みが苦手なんだ?」


「うん……いろんな色や、形が……ごちゃごちゃして、すごく、気持ちが悪くなる」


「でも、すごいね。わたしには、いろんな数字や記号がこんがらがって、ちんぷんかんぷんだよ」


「そこ……」


「え?」


「そこの、三問め。間違ってる」


「ついでにそこも間違ってるよ」


「ら、ランさんまで……」




 こんな感じ。わたしは、ふたりに教えられっぱなしで、なんだか情けなくなる。ついていくだけで、精いっぱいだ。




 逆に、文字を読んだり、書いたりするのはわたしのほうが得意なようだ。古文や漢文、それに英語を読むのも、面白い。簡単な本くらいなら、もう辞書を使わなくても読めるようになってきた。




「『あなたの瞳は北極星、あなたの舌の甘い吐息』……『羊飼いの耳に届くひばりの歌より』……ええと、tuneableってどういう意味だっけ……調律的、旋律的……?」


「美しい、くらいの意味でいいんじゃないかな。国も時代も作り方も、何もかも違う言葉を無理やり当てはめるのは、どうしても無理が出てくる。そういうときは、なんとなくでいいんだよ」




 ランさんが煙草に火をつけながら言った。わたしはその言葉どおりに、なんとなく訳してみる。少し離れた場所で、イヤホンをつけてぼんやりと窓の外を見ている、光の姿を見ながら。




「『羊飼いの耳に届く、ひばりの歌より美しい』……『麦は緑色に染まり、さんざしのつぼみは芽吹き』……?」




 いまいち、ピンとこない。あとで玉ちゃんにでも聞いてみよう。




「ふーっ、今日はここまでにしようかな……。ランさん、そろそろ失礼します」


「お疲れさま、瑠璃……ふわ、僕もちょっと寝ようかなぁ……」




 ランさんは煙草の火を消すと、座布団を枕にしてそのまま目を閉じて眠ってしまった。


 わたしは荷物をまとめ、階段を降りる。光も、イヤホンを外して、いっしょに降りてきた。




「もう、帰る?」


「うん。今日、わたしがご飯作る番だからさ。帰らないとばあちゃんに怒られちゃう」


「そっか」


「また、ご飯食べに来てよ。ばあちゃんも喜ぶよ」


「うん。またね、瑠璃」


「またね、光」







 真っ赤に燃える夕陽が沈んでいく水平線を眺めながら、テトラポッドを乗り越えて砂浜を歩いて帰る。スマートフォンを見ると、玉ちゃんからメッセージが届いていた。




『瑠璃ちゃん、夏祭り、どうする?』




 夏祭り。そうだ、そろそろそんな時期だ。なんだかんだ毎年行っているから、今年も一応行くつもりでいた。




「行くよ。どこかで待ち合わせしよう」

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