第7話‐②

 永遠に続くかのような雨はようやく止んで、月が顔を出した。


 とてもうちに帰る気にはなれなかった。雨は上がって、星がまたたいていた。月がきれいだ。空は真っ黒――こんなに黒い空は見たことがない。そうか、いつもは海の青い光のせいで、少しだけ色づいて見えていたのだ。


 今は真っ黒。


 穴が空いているみたい。とっても、大きな穴が。


 わたしは罰当たりにも鳥居のど真ん中にどっかりと腰を下ろして、わずかに灯る家々の明かりや、自動車のランプを見つめていた。泣きすぎて疲れた。頭ががんがんする。目がやたらに乾く。




「ねえねえ、瑠璃、あそぼ!」




 ウミナリはいつの間にか帰ってきて、わたしの周りを無邪気に走り回る。




「瑠璃……?」


「こっちだよ、瑠璃!」


「わたし……瑠璃じゃないんでしょ?」


「え?」


「瑠璃じゃないんでしょ? わたしのこと、もう、瑠璃って――呼ばないで」


「でも、瑠璃は瑠璃だもん」


「ッ――」




 右腕が勝手に動いた。ぶん、と、広げた手のひらが空を切る。


 ウミナリはもうそこにはいなかった。


 幻覚だ。海の音が、風の音が、言葉に聞こえるだけ。ずっと暗い場所にいたから、ちょっとの明かりが、女の子の姿に見えるだけ。




「……、はあ、ばかみたい」




 ぜんぶ夢だったらいいのに。悪い夢。


 実はわたしは、家のベッドで寝ぼけてるだけで、目が覚めたらばあちゃんが朝ごはん作ってくれていて、学校に行ったら玉ちゃんがいて、八石さんがうるさくて……五色先輩が音楽室でピアノを弾いていて、室戸先生の授業を受けて、それから家に帰って、それから――




「光……」




 それから――砂浜に光がいて。すごくきれいで、まぶしくて。いっしょに話して、歌を歌って――手をつないで、キスをして。また眠って朝が来て。


 そんな一日がまた戻ってきてくれたらいいのに。そうだよ、わたしが人間じゃないなんて、そんなことがあるわけない。ただの思い込み、ただの怖い話。ランさんの話に驚いちゃって、お化けを怖がっているのと同じように――


 でも、わたしは納得してしまったのだ。


 家も、家族も、ご近所さんもぜんぶ飲み込まれて助からなかった津波から、わたしだけが助かったこと。お父さんやお母さんのことを、なにも覚えていないこと。ウミナリのこと。海や、風が、ときどき話しかけてくるような気がすること……




「やっぱり、うそだよ」




 うそだ。


 でももう、何も感じないのだ。ただただ、むなしさだけがあった。


 いっぱい泣いちゃったから、わたしの『桶』の水が、ぜんぶ流れ出ちゃったのかな。




「光……」




 光に会いたい。




 光に触れたい。感じたい。満たしてほしい。




「光……」


「瑠璃」







 顔をあげた。


 目の前に、光がいた。白いワンピースは、あちこち泥だらけになっていて、髪の毛もぐしゃぐしゃで、足も顔も汚れている。ぜえぜえと肩で息をしながら、わたしのことを見つめた。




「やっと……見つけた。る――」


「やめて……」


「え?」


「ううん……ごめんね、わたし……瑠璃じゃ、ない」


「瑠璃じゃ、ない……?」




 背が高くて、真っ白で、目が青くて、明るい髪の光が――なぜかとても大きくて、恐ろしいものに見えた。




「あ、あはは……なんちゃって。ね、ねえ、びっくり……した? わたしね、人間じゃないかも、しれないんだぁ……えへへ、あの、羽山瑠璃っていう女の子はね、小さいころに津波で流されちゃって……わたしは、その代わりっていうか……神さま! 神さまが、置いていったんだってさ、あはは。だから、お父さんもお母さんもいなくて……瑠璃っていう女の子の、ふりをしているだけ、っていうか……だから、わたしは瑠璃じゃないの。ごめんね! お父さんのことも、お母さんのことも、覚えてないんじゃない。知らないの。だって、わたしはふたりの子どもじゃないんだもん。わたしにはお父さんもお母さんもいないんだもん! ばあちゃんの孫じゃ、ないんだもん……だからね、光のこともね、ずっとずっと騙してたの。だましてたんだよ。ごめんね、謝って済むことじゃ、な――」







 ぎゅっと、光がわたしを抱いた。


 ――草と土の匂い。汗の匂い。雨の匂い。いろんな匂いがする。


 でも、光の体は――冷たかった。すっかり冷え切っていて、でも、あたたかい。







「瑠璃……」


「ちがうの……瑠璃じゃないの」


「ちがわない。瑠璃だよ……」


「ちがうの……! ひっ、光に、なにがわかるの……! わたしのことなんてなんにも、わからないくせに……!」


「わかる……よ」




 必死に振りほどこうともがいているのに、光の腕はぎゅっと強く絡みついて、離れない。




「――あなたの、匂い、あなたの目……あなたの息遣い、あなたの体温。間違えるはず、ない。あなたは瑠璃だよ。わたしの、瑠璃」


「う……う、う……はなして、はなしてよ」


「いやだ」


「はなして……!」


「離さない」




 光はわたしにキスをした。


 ――いつも突然で、乱暴で。わたしを驚かせるようにしか、キスできないんだね。ずっとずっと、長い、光がしたいだけのわがままなキス。


 でも――うれしい。


 光に触れていられるだけで、それだけで、わたしは満たされていく。




「瑠璃……」


「だから――」


「わたしも……光じゃ、ないよ」


「え……?」


「『光』は、ランがつけてくれた、名前。でも、わたしの、ほんとうの名前じゃない。お父さんがつけてくれた、ほんとうの名前じゃ、ない。わたしも、ほんとうは――『光』じゃない」


「じゃあ……ほんとうは、なんていうの?」


「……、わからない。思い出せない」




 光はずっと、わたしの体を両腕でつかんだまま、離してくれない。だから、光が話すたびに、わたしに息がかかる。光の体の中で声が響くのが、わたしにも伝わる。光の息遣い。光の体温。光の声。




「でも……『ひかる』って、瑠璃に呼んでもらえるのが、うれしい。しあわせな気持ちになるの。わたしが、あたたかくて、青くて、でも金色で、まぶしくて……丸くて、つやつやしている……ひかりで、満たされていくみたい。いつもは、真っ暗で、何も見えないのに、あなたに名前を呼ばれるだけで……」


「……、」


「だから、あなたのことも……そうしたい。瑠璃。あなたは、瑠璃、だよ。ほんとうの、瑠璃」




 光はまた、キスをくれた。




「瑠璃」




 わたしの、ぽっかり空いたお腹の底で――何かが、青く光ったのを感じた。




「瑠璃……」




 どくん、どくんって。脈打つようにきらめいている、青い宝石みたいな何か。深くて、冷たくて、金色にきらめいていて――




「もう一回……」




 わたしは、その宝石に導かれるように、言葉が口をついて出るのを感じた。




「もう一回……呼んで」


「……瑠璃」


「もう一回」


「瑠璃」


「もっと……」


「瑠璃……」




 瑠璃、と呼ばれる。そして、キスをする。甘くて、ちょっと塩辛いキス。わたしの内に、青くて、きらきらした、深いものが満たされていくみたい。




「瑠璃……だいすきだよ」




 顔に、あたたかい雫が落ちてきた。


 目を開いた。光の真っ青な瞳から、また、ぼろぼろと涙がこぼれてくる。それがわたしの顔に、雨のように落ちてくるのだ。




「すき。だいすき。だいすきよ……だから、どこにも、行かないで。わたしのそばにいて。わたしから、離れないで。わたしを、ひとりに、しないで……」


「……、」


「わたし――わたしは、あなたなしじゃ、生きられない……!」







「……、ぷっ、あはは」


「る、瑠璃……?」


「――ひどい顔。ぐしゃぐしゃじゃない」




 ぽかんとする顔を、わたしは指で拭った。




「もーう、大げさだなあ……ちょっと、ここまで散歩してきただけじゃない。夜まで、ここでボーっとしてただけだよ。それなのに、まるで誘拐でもされたみたいに――」


「三日……」


「え?」


「瑠璃、三日も……いなくなってたんだよ」


「え……え?」




 うそだ。


 きょうは何日? と、スマートフォンを取り出そうとして、それがないことに気が付いた。そういえば側溝に流されてしまったんだ。


 まさか――ここで泣いているうちに、三日も過ぎていた?




「瑠璃の、おばあさんも……ランも……みんな、すごく、心配してた。あちこち探したけれど、どこにもいなくて……ここにいるかも、って思ったけど……ひどい雨で、土砂崩れがあって……それで、ここには来られなかった……」


「……、」


「だから、だから……!」




 ぎゅ。


 今度はわたしが、抱きしめる番だった。




「ごめんね……、心配かけちゃった」


「うん……心配した」


「ごめんね……光。ありがとう、光」


「……、次からは、ちゃんと……言ってから、いなくなって」


「もう……いなくならないよ。約束する」


「ほんとう?」


「うん、約束。もう絶対、いなくなったりしないから。ずっと、ずっと……光のそばに、いさせて。あなたで、わたしを満たさせて。わたしも、あなたを、満たしてあげるから。約束だよ――光」


「うん……約束、瑠璃」




 わたしたちは神社の本殿を前にして、向かい合って立った。古びて不気味な本殿が、いまは何だか威厳のあるものに見える。




「わたしも――もう、あなたなしじゃ、生きられない」


「じゃあ、ずっと……一緒に」


「うん。ずっと」




 わたしたちは、いちばん大切なキスをした。


 まるで結婚式の誓いのキスだ。ふたりとも服はぼろぼろで、顔も汚れている。周りはぼろぼろ。牧師さんも神父さんも、神主さんもない。


 見ているのは、あの空の月と――それから、海の神さまだけ。







「瑠璃。よかったね」


「ひゃっ?」




 足元を、くすぐったい風がなでた。見ると、ウミナリがくるくると、わたしや光の足元を駆け回ってはしゃいでいる。




「あなたは……あの時の?」


「光、知ってるの?」


「うん。たまに、砂浜で見かけて……お話したり……」




 ――きっとあの時だ。四月に、砂浜で光を見たとき。まるで誰かとおしゃべりしているようで、でも、光以外には誰もいなかったあのとき……あれは、ウミナリと会って話していたんだ。


 ウミナリは光のことをじっと見つめると、威厳のある表情で、わたしに言った。




「瑠璃――きみは、光のそばから離れちゃだめだよ。約束したんだからね。わたしも、聞いたからね」


「うん」


「それから、光――瑠璃を悲しませちゃ、駄目だよ。もしも、瑠璃を泣かせたり、傷つけたりするようなことがあれば、その時は……」


「その、時は……?」




 ばしゃっ、と、光の足元に鉄砲水が落ちた。




「きゃっ?」




 慌てて足を飛びのかせた光の足元には、ぽたぽたと、水たまりができていた。


 上を見ると、古びた屋根瓦がぐらぐらと揺れているのが見えた。次の瞬間、ひゅう、と風が吹くと、その瓦はごろっと重い音とともにずれて、本殿の目の前に落ちる。鈍く重い音とともに、瓦は砕けてしまった。苔むして、すっかりもろくなってしまっていたのだ。




「あそこに溜まってた雨水が、落ちてきたんだ……」


「……、」


「あ、危なかったね。もしあの近くに立ってたら……」




 身震いする。けがじゃすまないだろう。




「あの子は……ほんとうに……」




 気が付くと、ウミナリちゃんはどこにもいなかった。


 代わりに、ひゅーひゅーとあたたかい風が、海から吹き込んでくる。もう夜も遅い。




「……、うちに、帰らなくちゃ」


「うん。一緒に、帰ろう」




 光とわたしは、手をつないで、鳥居をくぐった。そして石段を降りて、もう乾き始めている『長り坂』を、ゆっくりと歩いて帰った。




「月が……とってもきれい」


「うん……」


「ねえ、あの月って、本当にあそこに浮かんでるのかな?」




 まるで、作り物みたいにきれいな月だ。


 本物の月ではなくて、誰かが夜空にぺたりと張り付けたものかもしれない。




「光が行きたい、本物の月じゃ、ないのかもしれない」


「うん……そう、かもね」




 光はうなずいて――


 なぜか、わたしに一度キスをしてから、もう一度月を見上げた。




「でも……にせものの、月だったとしても――もし、本物じゃ、なくても……」


「うん」


「とっても、きれい……だよ」

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