第7話-①

 夏の雨が降る。ぬるくて、冷たい雨が。


 木々は雨粒にたたきつけられ、音を立てる。土は泥になり、流れていく。


 わたしはいつの間にか『長り坂』を登り切って、神社まで走ってきてしまっていた。境内は水はけも悪く、あちこちに水たまりができている。わたしは古い、カビとホコリと苔の匂いのする本殿の屋根の下で、雨宿りをしていた。


 取り換え子。


 波に飲まれた子どもの代わりに、自分の化身を残していく。


 それって、まるで、まるで……!




「なにしてるの?」


「ッ――」




 顔をあげると、そこに――あの子がいた。


 ウミナリ。


 わたしは一瞬、つかみかかってやろうかとも思ったけれど――あどけない、小さな女の子の顔を見ていると、そんな気にもなれなかった。


 ウミナリちゃん――ウミナリは、屋根の中には入らず、雨のなかでぴちゃぴちゃと走り回っていた。水たまりがはじけ、波紋が広がる。




「神さま、だったんだね。ウミナリ……」


「うん! そうだよ」




 否定しないんだ。


 否定してほしかった。


 なにかファンタジー小説か、漫画を読んでいるんだと、そう思いたかった。




「ねえ――ウミナリちゃん」


「なあに?」


「聞いてもいい? わたしって、に――――」




 ――――、




「に?」


「やっぱり何でもない」


「なになに? きになるよう」


「なんでもない!」




 わたしって――人間なの?




 だなんて、聞けるわけない。ばかばかしい。決まってる、人間だ。今こうして生きている。高校にも通ってる。進路にも悩んでる。昔からずっと覚えてる、ずっと人間として生きてきて、人間として生まれてきて――




「あ……………………、」




 人間として――生まれてきて……




 うそだ。




 うそだ。うそだ。




 ううん、うそじゃない、そうなんだ、そうなんだきっとそうなんだ。


 わたしは、お父さんとお母さんのことを、ずっと覚えていないんだと思っていた。物心つくまえに、死に別れたからだと、そう思っていた。でも本当は違うとしたら?




 わたしには、お父さんも、お母さんも――




 ほんとうは、いない?







「瑠璃。気を落とさないで」



 ウミナリは、急に大人びた口調と表情になって、わたしの前に臨んだ。



「ウミナリ……ねえ、わたしって……」


「……、」


「わたしって……ほんとに、人間……?」




 ウミナリは答えなかった。


 ただ、にっこりと微笑んだだけだった。首を縦にも、横にも振らない。




「ねえ、わたし、どこから来たの……?」




 にこにこ。




「お父さんと、お母さんから、だよね? ふたりの間に、生まれたんだよね? お母さんの、お腹の中から……出てきたんだよね……?」




 にこにこ。




「津波のときに、助かったのも……ほんとに、偶然、助かっただけなんだよね? ラッキーで、ツイてたんだよね……それだけだよね?」




 にこにこ。


 なんで――なんで、言ってくれないの。違うよ、って。何言ってるの、って?




「返して」




 わたしは、自分よりもずっと背の低い、小さなウミナリにすがった。




「返して……わたしを、返して……」


「かえす?」


「返してよ。あなたが海の底に連れて行った、ほんものの――ほんものの羽山瑠璃を返して。今のわたしじゃなくて、ほんものの……お父さんとお母さんから生まれた、人間のわたしを!」


「よくわかんないよぅ」


「わかんな――」


「あはは!」




 しっかりつかんでいたはずの手から、ウミナリはするりと、液体のように抜け出して――そのまま鳥居をくぐって、雨粒に溶けて消えてしまった。




「ま、待って! 待って……待ってよ! ばか! ばかぁ! ばかぁ……!」




 鳥居の向こうには、白くけぶった海が見える。


 まさか、海に――海の神さまに向かって、ばか! なんて叫ぶとは。これが本当の海のバカヤローってやつだろうか? ぜんっぜんおもしろくない。ちっとも笑えない。


 ポケットに入れたままのスマートフォンが、ぶるぶると震えた。薄暗い雨の中で、画面が光る――玉ちゃんからメッセージが届いていた。




『月末の夏祭り、今年も一緒に行かない?』




「夏、祭り……」




 そうだ、月末はたしか――夏祭りがあるんだった。


 隣の駅前の大通りに、露店がたくさん並んで……遅い時間には沖に出た船から花火が打ち上げられる。うちは海が近いから、毎年、どーんどーんってものすごい音がする。でもとってもきれいで……きれいで……どーん、どーんって……ばあちゃんに浴衣を着せてもらって……




「……、」




 どーん、どーん、と雷が鳴り響いた。空が激しく震え、ひっきりなしに、稲妻が空を裂く。


 ずるっと、スマートフォンが手からこぼれ落ちて、そのまま石段をからからと滑り落ちた。そのまま側溝にぽちゃんと落ちる寸前、画面がショートして真っ暗になるのが見えた。




 ばあちゃん――大好きなばあちゃん。怖いけど、やさしくて、あたたかいばあちゃん。物知りで、歌うのが好きで、わたしのことをかわいがってくれる……




「ごめんね……ごめんね……」




 ごめんね――わたし、あなたの孫じゃないんだって。




「うぅぅ……うぇ……うわあぁん……」




 わたしは泣いた。


 そしたら雨がますます強くなった。

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