第6話‐③

「瑠璃!」




 ――という、わたしを呼ぶ声で目を覚ました。




「ん……?」


「瑠璃、こっちだよ」


「え……だれ?」


「こっちこっち!」




 その無邪気な声は、聞き覚えがあった。




「……ウミナリちゃん? どこ?」




 わたしは、砂浜にひとりで立っていた。どんよりと、薄暗い灰色の空。海はざざざ……と、引き波が荒々しく波打っている。時々、ごぉー、と空気を吸い込むような、雷鳴のような音が聴こえる。波が高く渦巻いたりしたときに、水と水の間に挟み込まれた空気が押しつぶされて鳴る音だ。




「ウミナリちゃ~ん」


「こっちだよ、瑠璃」




 見ると、ウミナリちゃんは波も荒々しい、砂浜の際のほうに立っていた。




「そんなところにいたら危ないよ」


「へいきへいき」




 すると、くるりと振り返って、とっとっと海を走り出した。




「え?」


「瑠璃もおいで!」


「おいでって――」




 その時、ごーっと黒い波が持ち上がって、こちらに迫ってくるのが見えた。――すごく大きい。数メートルくらいはありそうな高波だ。




「ウミナリちゃん! はやく、こっち!」


「瑠璃、こっち!」


「ふざけてないで、早く……波に飲まれちゃうよ!」


「あっははは、あははは!」




 ウミナリちゃんは、あろうことかその波のほうへと走って行ってしまう。


 波はどんどん近づいてくる。ついさっきまで遠くにあったはずなのに、気が付いたらもう目の前だ。




「ちょっ、うわ――!」




 思わず目を閉じた。


 すさまじい音。水が砕け、砂浜が削られ――猛烈な引き波に、体がもっていかれる感覚。


 ああ、また同じだ。同じ夢だ。わたしは暗い波の底に沈みながら、そう思った。怖い夢。わたしが、冷たい闇に引きずり込まれてしまう夢。




「――だいじょうぶ。こわくないよ」




 また、海の声がする。


 海の声――ウミナリちゃんの声だ。




「こわくないよ。瑠璃、だいじょうぶ」


「ウミナリちゃん……どこ?」


「ここだよ」




 どこ?




「ここ!」




 どこ――どこ? あちこちきょろきょろしているうちに、あたりはだんだん真っ暗になってくる。ここだよ、こっちだよと、ウミナリちゃんの声はあちこちから聞こえてくる。




 ――だいじょうぶだよ、こわくないよ。




「こわいよ……」




 こわい。


 わたしは、この暗い水の底で――ひとりぼっちだ。







「瑠璃! 夏休みだからって、寝ぼけてるんじゃないよ。起きなさい」


「……、」




 ばあちゃんのやかましい声で、たたき起こされる。


 体が冷たい。




「はぁ……もう」







 今日から夏休みだ。


 わたしはコップで水を飲みながら、室戸先生からもらった宿題について、いろいろ考えていた。


 わたしの、将来のこと。わたしは、いったい何をやりたいのか。わたしはまず、身近な先人・玉ちゃんを見習って、いっぱい本を読んでみることにした。


 文明というのは便利なもので、スマートフォンでインターネットに接続すると、全国の大学の情報だったり、本のタイトルやあらすじだったり、なんでも調べられる。けど、ずっと画面を見ていると、どうにも目が疲れていけない。電子書籍なんていうものもあるけれど、読んでいる内容がどうにも頭に入ってこなくていけない。


 いっぱい本を読みたい。


 となると、わたしには心当たりがひとつあるのだ。







「やあ、瑠璃。いらっしゃい」




『海の家』。夏休みに入っても、ここがお客さんでにぎわっている様子はない。そもそも、海の家として営業しているのかどうかも怪しいものだけど。わたしが二階の畳の部屋に上がると、ランさんは窓を大きく開いて潮風を浴びながら、古いノートや本を文机に広げていた。




「それは、お仕事ですか?」


「ううん? 仕事じゃないよ、趣味」


「何をしてるんですか?」


「この町の昔話や、歴史、風俗を調べてるんだ。時見町はすごく、興味深い場所だからね。あ、適当にくつろいでていいよ」




 わたしは、さっそくランさんの本棚を眺めた。


 かちゃ、とジッポライターの蓋の音がする。ランさんはいつものように、煙草に火をつけていた。火の粉が畳や本に燃え移ったら、すぐに火事になって燃えてしまいそうだ。




「興味深いって?」


「片側は海、片側は山。その間を通る街道も、起伏が激しくて、ほかの集落との往来もほとんどなかった。だから、文化の混淆が起こりにくいんだ。この町独自の言葉や、習俗もたくさんある。――今では、ほとんどが失われてしまっているけどね。って、あち!」




 見ると、ランさんの煙草の先から、火種が足の甲に落ちたのだ。ふーふーと息を吹きかけながら、指で必死に風を送りこんで、やけどのあとを冷やしていた。


 何度やけどしても、この人は懲りることなく煙草を吸い続けている。




「ランさんって……なんで、煙草、吸ってるんですか?」


「ん?」


「その、煙草って体に悪いっていうし、それに高いでしょう? なのにどうして」


「この世界には、体に悪くないものも、高くないものもないよ」




 それは煙草を吸う人が自分を正当化するための常套句な気がする。


 冗談はさておき、とランさんは、また新しい煙草に火をつけた。




「僕はね――『火』が好きなんだ。火って、真っ赤できれいだろ? それに熱い。暗いところでもめらめら光って、あたりを照らしてくれる。熱や光という、純粋なエネルギー――ずっとそういうものに、あこがれていたんだ。こうして煙草を吸っていると、そのエネルギーを少しでも、自分に分けてもらえる気がするんだよ」


「ふうん。しょっちゅうやけどしてるのも、エネルギーを分けてもらってるからなんですね」


「言うねえ~。きみって意外と遠慮がないよね」




 で、とランさんは、今度はやけどせずに煙草を灰皿に押し付けた。




「何か探し物?」


「う~ん……その、チョコレートを」


「え、チョコレート?」




 目を丸くするランさんに、わたしは学校で先生に言われたことを話した。




「なるほど? 将来の夢、ねえ」


「ランさんは、どうだったんですか? 学生時代とか……」


「ないしょ。参考にならないから」




 ランさんはいろんなことを教えてくれるけれど、自分の過去の経験などは語ってくれなかった。




「参考にならないかどうかはともかく、興味があるんですけれど」


「まともに生きていきたいなら、僕の生き方は真似しないほうがいいよ」


「じゃあ、反面教師として」


「ほんとにい? じゃあ教えてあげよう、光にも話したことないんだけどね。実は僕は……」


「ごくり……」


「僕は、人間じゃないんだ。深海から来たリュウグウノツカイが抱えてた卵から生まれたんだよ。百年くらい前にね」


「あ、もうわかりました」


「そうそう。世の中には知らなくてもいいことがあるのさ。それでみんながハッピーなら、それが一番だ。『Life is like a box of chocolates.』――中身がおいしいとは限らない。にが~い、ビターチョコかもしれない。もしくは、空っぽかもしれないね。でも空っぽでも、『ああおいしそうだなあ』って思えるなら、空っぽの箱にもちゃんと意味がある」


「空っぽの箱でも?」


「中身を見たら、『な~んだ空っぽかあ』って、がっかりしちゃうこととかね」


「それって、なんか……あの神社みたいですね」




 わたしは、『長り坂』のほうを見た。ランさんは、おっ? と、ご機嫌そうに首を傾げた。




「よく知ってるね。あそこには神さまがいないってこと」


「あ、はい。この間ばあ――祖母から、聞きました。形だけ真似たもので、神さまなんていないって……」


「瑠璃のおばあさん、物知りだね。小さいころからこの町にいるのかな?」


「たぶん……」


「でも――ちょっと間違ってる。その話には続きがあるんだ」


「続き……ですか」


「聞きたい?」




 まるで覚悟を試すような言い方だ。本当にしゃべってもいいの? という、思わせぶりな雰囲気。でも、そこまで言われたら、ちょっと気になる。




「ぜ、ぜひ」


「しょうがないなあ。じゃあ話してあげよう」


「ご、ごくり……」




 これでくだらない冗談言ったらもう帰ろう。


 こっほん、とランさんはわざとらしく咳払い。




「確かに、あの神社は『分け御霊』を受けていないから、神さまが祀られていない。ただ見様見真似で作られた、神社っぽい何かだった。でも――今は違う」


「え……?」


「今はっていうか、実はっていうべきかな。最初は神さまのいない空っぽの建物だった。でもそのあと、ほんとうにやってきたんだよ」


「――神さまが?」


「そう。もともとこの土地にいた、神道とは関係のない土着の神さまが、あの神社に目をつけて住みついたんだ。だから、あそこの神社は、正式な神道の神社ではないけれど、今は確かに神さまがいる」




 神さま……


 ランさんはそのあと、にっと笑って、目を細めた。




「その神さまの名前は――ウミナリ。もとは『うみ』という名前の神さまに接尾語がついて、『「うみ」なり』と書かれていたものが、だんだんと転訛していって――『海鳴り』という言葉と習合して、そう呼ばれるようになった。この町にしかいない、正真正銘の海の神さまさ」


「――――、」







 ――ねえ、お名前は?


 ――ウミナリ。


 ――下のお名前は?


 ――わかんない。ウミナリ。







 わたしは聞いた。あの子は答えた。もしかして――勘違いだったのか?


 あの子は、こう答えたんじゃないだろうか?







 ――ねえ、お名前は?


 ――『海』なり。







「瑠璃、もしかして会った?」


「え――」


「ウミナリに」




 ランさんは、どこか見透かしたような、澄んだ碧色の瞳でわたしを見た。




「ど、どうして知って……」


「知りたい?」




 …………、




「し、知りたい……です……」


「じゃあ、まず質問に答えるね――僕も会ったんだ、ウミナリと。小さいころはよく一緒に遊んでた。砂浜で貝殻拾ったり、『長り坂』の上まで競争したりね。今もたまに会うよ」


「な、なんなんですか。ウミナリって」


「ウミナリは、とっても気まぐれな神さまでね――善と悪の両方の性質を併せ持つ、トリックスターなんだ。日本神話のスサノオや、北欧神話のロキのように。漁に出る人びとの安全を守り、豊漁を約束することもあれば……大波を起こして、人をさらってしまうこともある。神隠し――この地域では『海隠し』と呼んだりもする。海が重要な神性であったことの証明だね。人のために食べ物を与えたり、逆に人の命を奪ったりするんだ。どちらも同じ海――同じ神さまのしたことだと、昔の人は考えた」


「……、」


「特に、赤ん坊や小さな子どもが海隠しに遭ったときには――代わりに自分の化身、神の子どもを入れ違いに残していくんだ。取り換え子チェンジリング――西洋ではポピュラーな言い伝えだよ。もっとも、あちらでは神ではなくて、妖精のしわざとされているけどね。そういう子どもは、いわば海の神の化身だ。海や風の言葉を聴き、それを操ることができるとされた。そういった子どもたち、特に女の子は巫女として崇められた。不思議な力を持ち、呪術的な力を用いて、災いを鎮め、あるいは起こした。時には――」


「やめて」




 胃の奥から勝手に言葉が漏れた。ランさんはぴたりと、そこで話をやめた。


 ――汗が止まらない。


 体ががくがくと震え、呼吸がままならない。


 目の前がちかちかと、赤青緑に波打って、頭がぐらぐらする。




「そ、それ、それって……」


「――とまあ、そういう伝承があるってだけの話さ。海難事故からたまたま助かった子どもに、『ラッキーだね、ツイてるね』って、ちやほやしてたって話」


「…………、」


「ただの言い伝えだよ。瑠璃」


「でも……確かに見た! 確かに会って、話をした……! ウミナリちゃんと……ただの知らない女の子じゃない、ぜったいに……違う……!」


「あまり深刻に考えすぎちゃだめだ。どんな人にも、必ずひとりはいるんだよ――名前も顔も覚えていないのに、なぜか小さいころ、一緒に遊んだ、知らない子どもが。自分ではそれに気が付かない。そのうちいつの間にか、その子とは会わなくなって、だんだん顔も声も、そして存在も忘れて――最後には、はじめからいなかったことになる。子どもは人間よりも感受性が豊かだからね。そういうものを認識しやすい」


「でも、そんなんじゃ……!」


「この国は昔から、ありとあらゆるものに神を見出してきた。海も神。空も神。火も神。光も神。太陽も神。月も神。科学が進歩した今では、それは『自然現象』だ。神さまなんかじゃない。法則があり、ルールがある。でも、神さまがいたっていいじゃないか? だって、そのほうが楽しいからね」


「ランさん……! ふざけないでください。わたし――」


「瑠璃……?」




 立ち上がった拍子に、光が顔をのぞかせていた。


 おびえたように、目を見開いている。




「どう、したの……? ランに、いじわるされた?」


「……、なんでもないよ」


「瑠璃……?」


「なんでも、ないから。――ランさん、ありがとうございます」




 わたしは光の顔を見ないまま――


 砂浜を走って、走って。逃げるように、海に背を向けて、走り続けた。

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