第5話‐③

 ――鳥居をくぐった瞬間。


 空気が切り替わったのを、感じた。それまでのざわざわした風が、ぴたりとやむ。森の中で涼しかったとはいえ、夏場のじんわりとした空気が、静謐なものに変わる。涼しい、というよりも、冷たい、静寂に満ちたものに変わる。


 耳がおかしくなったのかと思った。そのくらい、静か。前に光とこの場所に来た時には、ただ、寂れた場所だとしか、感じなかったのに。今はまるで式典中のような、緊張した雰囲気を感じる。


 あの女の子は、鳥居の足元に立ったわたしの視線の先――ぼろぼろにさびれた本殿の手前、賽銭箱にちょこんとお尻を乗せていた。足をぶらぶらと揺らしながら、にんまり、といった感じで笑っている。




「こら」




 わたしは呼吸を整えて、ぼろぼろに荒れ果てた石畳を歩きながら、その女の子にぴしゃりといった。




「だめだよ、お賽銭箱に座ったりしたら。ばちがあたるよ」


「ばち?」


「そう、神さまが怒っちゃうよ」


「ばちがあたると、どうなるの?」


「ど、どうなるんだろう……とにかく、すっごく怖い目にあうよ」


「だいじょうぶだよ!」




 女の子はぴょんと飛び降りると、わたしのそばをくるくると駆け回って、それから境内の中をぴゅーっと風みたいに駆け出した。わたしはもう走る気力が残っていなかったので、のんびりと歩きながら、その子のあとをなんとなく追いかけるふりをした。


 女の子は境内の真ん中に立った古い木の、柵のまわりをはしゃぎまわりながら、わたしにちらちらと目くばせをして、けらけら笑った。




「ねえ、お名前は?」


「ウミナリ」




 女の子はみょうに自信たっぷりに答えた。海鳴うみなり――変わった名字だ、聴いたことがない。




「じゃあ、下のお名前は?」


「した?」


「違うの? ウミナリちゃんは、名字? それとも、ウミナリちゃんが下のお名前?」


「わかんない。ウミナリ」


「わかんないってことないでしょう。いくつ?」


「いっぱい」




 だめだ、会話にならない。でも、小さい子どもって、こういうものかもしれない。


 ウミナリちゃんは軽やかに、古い木を守っている柵をぴょーんと飛び越えると、そのまま木の上へするすると登ってしまった。




「こら! 降りてきなさい」


「えー、なんで?」


「落ちたらけがするよ! それに、その木にはさわっちゃだめなの!」


「だいじょうぶ、こわくないよ。瑠璃もおいで!」


「そういうことじゃ――なく、て……」




 いま、この子――


 見上げると、ウミナリちゃんはわたしのほうを見て、にこにこ笑っている。




「どうしたの?」


「どうして、わたしの名前……知ってるの?」


「んふふ~」




 ウミナリちゃんは太い枝からお尻をあげると、するする、と、幹の周りを渦を巻くように駆け下りてきて、わたしのすぐそばにやってきた。




「瑠璃、たのしい?」


「え?」


「たのしい?」




 なにが……何のことを、言っているんだろう。




「いまは、ちょっと、疲れてるかな……あなたを追いかけて、走ってきたから」


「走ったから、つかれちゃったの?」


「うん、ウミナリちゃん、とっても足が速いんだね。追いかけるだけで、必死で……」


「じゃあ、かえる?」




 と言われて、うん、帰ろうと思うような気分でもない。




「もうちょっと、休憩してからね」


「いつでもかえっていいよ」


「ちょ、ちょっと待って……今すぐは無理……」




 長り坂は、途中で休憩できるような場所はないし、下りとはいえ坂道を歩いて帰るのは骨が折れる。


 わたしは古びたベンチに座る。ウミナリちゃんも、その隣にやってきて、ちょこんと座った。




「ねえ、ウミナリちゃん。なんでわたしの名前、知ってるの? 誰から聞いたの?」


「んー? んふふ。ないしょ」


「こら。正直に言いなさい」


「いろんなひとから、だよ」


「いろんな……?」




 すごく怖い。いろんな人が寄ってたかってわたしのことを噂しているのだろうか? ばあちゃんがご近所さんとの話の中で、とか――いや、ありえない。だって、近所に「海鳴」さんなんていう家はなかったはずだ。


 ウミナリちゃんは相変わらず、にこにこと微笑んだまま、答えた。




「瑠璃のおばあちゃんとかー、瑠璃のおともだちとかー、瑠璃のしりあいとかー……あと、瑠璃のだいすきなことか」


「え、それって……光のこと?」


「ねえ、あのこのこと、すき?」




 なんでこんな小さな子が、光のことを知っていて、光とわたしのことを知っていて、それで、こんな恥ずかしいことを質問されなくちゃいけないの? なんの罰ゲームだろう。


 でも、ウミナリちゃんの、じっと深い大きな目に見つめられると、わたしは自然と、答えていた。




「うん。好きだよ」


「どのくらい?」


「どのくら……えっと、そうだなあ……」




 と、答えを求めてきょろきょろと視線を動かすわたしの目に飛び込んできたのは、鳥居の向こう側に見える、広い広い海の姿だった。




「あの、海くらい」


「そうなんだ」


「うん。……って、あんまり人に言っちゃだめだよ」


「どうして?」


「だ、だって、恥ずかしいから……ね?」




 えっへへ、といたずらっぽく笑って、ウミナリちゃんはベンチから飛び降りた。そして軽やかに、風のような速さで鳥居の足元へと走っていく。




「ちょっと、ウミナリちゃん?」




 わたしも慌てて後を追う。


 すると、ウミナリちゃんはそこで立ち止まって、こちらを振り返った。――思わずどきっとした。だって、その表情はさっきまでとはぜんぜん違っていた。顔立ちも、背格好も子どもっぽいけれど、大きな目をきりっと見開いたその顔は、まるで大人の女の人のようだった。




「だいじょうぶだよ、瑠璃。あの子のこと、大切にしてね」


「え……?」


「――じゃあ、またね!」




 ウミナリちゃんは鳥居のちょうどど真ん中を駆け抜けると――


 そのままぴょーん、と、石段から飛び降りるように大きなジャンプをした。




「ウミナリちゃん!」




 十メートル以上もある石段だ。まともに落ちたら大変なことになる。わたしはとっさに身を乗り出した。


 鳥居の下をくぐった瞬間、ごうと大きな風がそばを通り抜けていった。森がざわざわと揺れ、潮の匂いがする。空の上では鳥が鳴いている。ざわざわと雲が流れる。


 あの子は――


 ウミナリちゃんの姿は、とけて消えてしまったかのように、なくなっていた。

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