第5話‐④

 コンビニでアイスを買って帰ると、太陽は少し傾き始めていた。ばあちゃんは和室の縁側で安楽椅子に座りながら、クロスワードパズルを解いていた。わたしはアイスを冷凍庫にしまうと、お父さんとお母さんの仏壇にお線香をあげた。




「ねえ、ばあちゃん」




 ばあちゃんは老眼鏡をくい、と直しながら、クロスワードからは目をあげずに、なんだい、と短く呟いた。ちりんと、いつの間に飾ったのか、鉄器の風鈴が鳴る。




「長り坂の上の神社って、いったい何の神さまがいるのかな」


「おや――どうしたんだい、急にそんなこと。学校の授業か何かで調べているのかい?」


「いや、さっき行ってきたんだけど……すごく古いし、いつも誰もいないし。初詣とかも、あそこの神社じゃなくて、市街のほうに行くでしょ。だから、ちょっと、気になって……」




 すると、ばあちゃんはクロスワードを机の上に置いて、老眼鏡を外した。




「あすこはね――ほんとうは神社じゃないんだよ」


「え……神社じゃない?」


「そう、鳥居があったり、賽銭箱があったりするから、紛らわしいけどね」




 ばあちゃんは椅子に深く座ると、開きっぱなしの縁側から吹き込む、潮の匂いのする風に目を細めた。




「時見は、昔から難儀な土地だった。山から吹き下ろしてくる風のせいで、作物もまともに育たない。高低差の激しい場所だから、都との交通も乏しい。だからみんな、海沿いに家を建てて、漁に出て行って魚を獲っていた。けれど、季節の変わり目になると海は大きく荒れて……漁に出た男たちのうち、半分くらいは帰ってこなかった。高波が家々を襲うこともあった。海の近くで遊んでいた子どもが波にさらわれて、帰ってこないなんてこともあった。神隠し、海隠しなんて呼んだりしてね。わたしが子どもの頃はうるさく言われたもんさ、海の近くを通るときはこうやって印を切って、呪文を唱えながら歩け、そうしないと神隠しに遭うぞ、ってね。こうやって指を立てて、ドーマンセーマン、ドーマンセーマン……」




 ばあちゃんは右手の指を、十字を切るように縦横に動かした。




「まったくばかげた話さ。でもそれは、文明が発達した今だからそう思えるんだ。昔の人にとっちゃ、そうはいかない。神でも仏でも、とにかく何かにすがるしかなかったんだ。そこで、あの坂の上――この町で一番高い場所にああいう社を作ったんだ。海の神さまにお伺いを立てて、海で死んだ人の霊を慰めるためにね」


「海の、神さま……」


「海の神さまを祀った神社は日本中あちこちにあるけれどね、あすこは違う。『分霊わけみたま』を受けていないんだ。分霊っていうのは、それぞれ神さまを祀っている神社から、神さまの魂を分けてもらうことさ。そうして、神さまの一部を神社に住まわせてもらうんだ――本来はね。けどあすこには、それがない。鳥居も本殿も賽銭箱も、ぜんぶ形だけ真似て、勝手に建てたものなんだ。だから神主も巫女もいないし、名前もない――だから『長り坂の上の神社』って、そう呼ばれている。あそこには、神さまなんていないのさ。神社じゃないっていうのは、そういうことだよ」


「……、」


「これもわたしが子どものころに、わたしの母親から聞いた話さ。母はそのまた母――つまりはわたしのおばあさん――から聞いたんだ。そして、その母、そのまた母……ってね、昔から語り聞かせてきたんだよ」


「そうなんだ」


「どうだい、これで満足かい?」


「うん」




 わたしはばあちゃんのすぐそばへ寄って、縁側に座った。




「ばあちゃん、なんか今までで一番……わたしのおばあちゃんって感じがする」


「なんだい、年寄り扱いか?」




 ばあちゃんはふんっと苦笑して、また老眼鏡をかけてクロスワードを解き始めた。




「まったく、わたしが生まれた時にゃ、戦争だってとっくに終わってたっていうのに」


「だって、そういう話は、誰かに聞かないと分からないから」


「そうだろうね。わたしも、こうしてお前に話せて、うれしいよ」




 ちりりん、ちりりん。


 鉄器の風鈴が、風になびいて、冷たい音を響かせる。




「こんなのは、言ってしまえば迷信さ。けど確かに、この町の歴史なんだ。けれど、歴史は受け継いでいかなくちゃいけない」


「うん」


「水の入った桶を受け取った人間が、それを抱えたまま倒れてしまったら、その水はこぼれて流されて、そのまま二度と元には戻らない。黙って立っていたら、桶の水はどんどん蒸発して、少しずつ水かさが減っていく。それは仕方のないことさ、自然の摂理だ。当たり前のことだ。だから、わたしたちのような年寄りにできることは――自分が倒れて水をこぼしちまう前に、誰かに桶を手渡すことさ」




 なんだか、すごくさびしい話をされている気がした。ばあちゃんの声は、不安とも、心配とも違う、どこか決まりきったような感じがあって――




「だからね、瑠璃。もしお前が将来、結婚して――子どもを産んで、話がわかるくらいの歳になったらその時は、お前も今聞いた話をしてやるといい。その子は、つまらないって鼻で笑っても、水は少しずつ注がれていくんだ。そうやって、大人になっていくんだよ」


「うん……」


「実感がわかないだろうけどね。いつか分かる」




 ばあちゃんはまるで、母親のように目を細めて笑った。







 その夜、わたしは山の上をじっと見て、昼間の不思議な出来事を思い返していた。


 だめだよ、ばちがあたるよ、といったとき、ウミナリちゃんは言った。『だいじょうぶ』だって……もしかしてウミナリちゃんも、あそこにはばちを当てる神さまがいないことを知っていて、そう言ったのだろうか。ばあちゃんがしたような話を、ウミナリちゃんも、誰かから聞いて……




「考え過ぎかな」




 あんな小さい子の言うことを、真に受けるべきじゃないかもしれない。


 でもあの子は――なにか不思議な子だった。ふつうの子じゃない。わたしや、光のことも知っていた。何より、すごく親近感をおぼえたのだ。他人の気がしない、とでもいうのか。わたしにはきょうだいや親戚はいないけれど、もし、血を分けた肉親と出会ったときというのは、ああいう気持ちになるものなのだろうか。


 そういう感覚。


 なつかしいような、ほっと落ち着くような……


 砂浜で波の音を耳にすると、ざわざわとうねる風の音を聴いていると、あの悪夢を思い出して、ちょっぴり心細くなる。けど、少し勇気を出して一歩を踏み出すと――




「あ……瑠璃」




 そこに光がいる。


 闇の中で、月に浮かび上がる――わたしの光。


 わたしは光のそばヘ歩み寄ると、腰に腕を回して、ぎゅっと抱き着いた。




「瑠璃……?」




 戸惑ったような光の声。吐息が耳にかかり、少しくすぐったい。背の高い光に抱き着くと、わたしの顔はちょうど、ほっそりした鎖骨の下あたりに来る。彼女の匂いが、鼻腔いっぱいに広がる。光の匂いと、血潮の音を感じる。




「怖い夢を見たの」


「夢?」


「うん。とっても、怖い夢……わたし、ひとりぼっちで。真っ暗な、深い深いところに引きずり込まれて、そのまま浮かび上がってこられないの。何か、光るものが見えて、手を伸ばそうとしても、届かないの。どんどん離れて行って……」




 わたしの背中を、光の腕がぎゅっと、抱きしめた。




「でも、ここにいる。わたしのひかり……わたしの、ひかる


「うん」


「でも、まだちょっと、不安なの。だから、ちょっとだけ……」


「ずっと、でも……いいよ」




 そんな風に言われちゃったら、ずっと、そうしていたい。ほんとうはずっと、ずっと、いつまでもこうしていられたら……こうしてあなたに触れられていたなら、どんなに幸せか。


 でも、ほんのちょっとでいい。


 ほんのちょっとの光で、わたしは、だいじょうぶ。ほんのちょっとあれば、わたしは、こわくない。




 ――だいじょうぶ……こわくないよ……




「あ……」




 また、海の声がした。


 そうだ――この声は……

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