第5話‐②

 ――夢を見た。


 わたしは真っ暗な場所にいる。冷たくて、身動き一つとれない。体は宙に浮いているようで上下の感覚がなくて、落ち着かない気分にさせる。


 その時、一筋の光が見える。どこかから差し込んでくる光。わたしはそれに向かって進もうともがく。手を伸ばす。光の通り道は青く照らされて、天に伸びる階段のようだった。手足をばたばたさせて、もがいているうちに、だんだんその光に近づいていく。手を伸ばす。指先に感じる、あたたかい熱。心地よい熱。


 指先が触れそうになった、その時――


 なにかものすごく大きな力が、わたしを飲み込んで、光から引き離される。どれだけもがいても――いや、もがくこともできないほど大きな力。黒い奔流。それはわたしの体をさんざんに打ちのめして、髪を引っ張り、口や鼻の中に入り込んで呼吸できなくする。


 たすけて。


 光に向かって、必死で叫ぼうとする。


 たすけて――


 わたしをつれていかないで。わたしは、あっちにいきたいのに――







「はっ、」




 がば、とはね起きたとき――


 部屋着も、布団も、汗でびしょびしょになっていた。窓から差し込む、夏の日差し。とても暑いのに、体は芯から冷え切っていて、気分が悪い。呼吸ができること、目を覚ましたことを確認しながら、ひぃひぃと鳴る喉で必死に呼吸をする。


 久しぶりに、見た。この夢。最悪の目覚めだ。







「瑠璃、顔色が悪いよ。大丈夫かい?」




 ばあちゃんが心配そうにわたしのほうを見る。わたしはコップに汲んだ水を二杯飲んで、三杯目を汲んでいるところだった。




「うん、だいじょうぶ……」


「なにか、悪い夢でも見たのかい」


「うん……まあね」


「そうか……」




 悪い夢――何度か見たことのある、あの夢。わたしはどこか暗い場所にいて、ものすごい力で、もっと深いところへと引っ張られていく夢。きっと、小さいころに津波に飲まれて、海に引きずり込まれたときのことが、フラッシュバックしているんだろう。当時のことはなにも覚えていないし、思い出せないけれど、きっと心の奥深くにきちんと記憶されていて、それが時々、夢として想起されるのだろうか。




「ふぅ、」




 三杯目の水を飲み干して、わたしはようやく、落ち着いた気がした。


 今日が土曜日で本当に良かった。







 さすがに今日は、家でじっとしていよう――


 と思ったけれど、初夏のじりじりとした蒸し暑さ、そしてどうしようもない気分の重さに耐えかねて、わたしは外の空気を吸おうと散歩に出ることにした。


 ばあちゃんは心配していたけれど、わたしは、




「海のほうには行かないから」




 と言い訳して、スニーカーに足を突っ込んで、家を出た。


 さすがに陽に当たっていると熱い。少し歩いただけであっという間に汗がにじんでくる。けれど、家の中で黙って過ごすよりはずっとましだと思った。それに、そんなに遠くまで行くつもりはなかった。せいぜい、最寄りのコンビニ――それでも徒歩十五分くらいだけど――まで行って、アイスか何か買っていこうと思っていた。




「ん……?」




 と。十字路に立ったとき、横断歩道の向こう側で、小さな女の子がじっと、こちらを向いていた。六歳か、七歳くらいで、白い和服を着ている。アスファルトの上だというのに裸足で、赤信号の電信柱の足元に静かに立っていた。


 まっすぐにこちらを見ている。


 周囲を見回しても、わたし以外に歩行者はいない。それに、あの女の子の親御さんらしき人影も見当たらない。


 信号が青になる。女の子は渡ろうとしない。じっとこちらを見つめたかと思うと――くるりと振り返って、小さな足で急に走り去っていった。少し行ったところで立ち止まり、また振り返って、わたしのほうを見て、また走り出す。




「……?」




 追いかけっこのつもりだろうか。


 わたしは不思議に思いながらも、女の子のあとを追った。


 ところがどういうわけか、小学生くらいの子のはずなのに、やたらに足が速い。ぺたぺたと裸足でゆったりと走っていくようなのに、まるで猛スピードの自転車と競争しているみたいだ。最初は早歩きだったわたしも、次第に小走りになり、駆け足になり、やがて全力で追いかけても、追いつけない。




「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」




 この暑い中、なにを真面目に、小さな子の遊びに付き合っているんだろう、わたしは――と、思いながらも、女の子のことが気になって、わたしは必至で追いかけた。すると、女の子が立ち止まっているのが見える。まるでわたしを待ち構えているようだ。




「ね、ねえ、あなたは……」




 息も絶え絶えに会話を試みようとしたが、女の子はにっこりと、おもちみたいなほっぺをほころばせて笑うだけで、何も答えてくれない。そして、くるっと曲がり角を曲がり、大通りから外れた道を走りだした。




「はぁ、はぁ……ここは……」




 女の子が走り去っていく先は、深い緑色の木々に囲まれた道――『長り坂』だ。







 この猛暑の中でも、森の中はひんやりとして涼しく――マイナスイオンというやつだろうか――風がさわさわと駆け抜けていく音も、耳に心地よい。けれどわたしの体力はすっかり消耗していて、とても走って追いかける気にはなれなかった。


 女の子の姿は見えない。


 長り坂は一本道だ。さび付いたガードレールと、石の山留めに挟まれた道しかない。道路を取り囲むのは、鬱蒼と生い茂る森だけ。ここに迷い込んだら、二度と出てこられなさそうだ。




 ――こっちこっち!




「え?」




 と、声が聞こえた気がしてそちらを見ると、そこには森しかなかった。


 ざあっと風が吹き抜けた。木と土の匂いの中に、かすかに混じった潮風の匂いを感じる。それが枝を揺らして、なにか言葉のように聞こえるのだ。




 ――こっち、こっち。


 ――ほら、こっち!




 風が吹くたび、あちこちからそんな風に声が聞こえる。


 あの女の子の声だろうか? そういえばいくら歩いても、ちっとも姿が見えてこない。まさか、あの森の中に迷い込んでしまったのだろうか。




「おーい!」




 わたしはやけくそに、思いっきり声を張り上げた。




「おーい、どこー? 出ておいで!」




 木々が、くすくすと笑うようにざわめくと――やがてぴたりと、風が止まった。


 ふと目の前を見ると、そこにはあの石段があった。長り坂のゴールの神社。石段の最上段にそびえたつ色あせた鳥居の足元に、あの女の子がいた。女の子はわたしのほうを見てにっこりと笑うと、鳥居の間をくぐって、境内の中へと駆け込んでいった。


 わたしはすっかりへたばった足を無理やり動かして、石段をゆっくり上っていった。

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