第5話-①

「あら……あなたは」




 七月に入ったばかりの、ある日の昼休み。わたしは廊下で、五色先輩とばったり会った。相変わらずヘアバンドでまとめたまっすぐな黒髪が、風鈴のようにさらりと揺れる。




「羽山です」


「そうそう、羽山さん。春月さんのお友だちの」







 先輩に連れられて、わたしは音楽室へとやってきた。


 短い昼休み。教室の喧騒、廊下のざわめき――そういうものがずっと遠くに感じられる、厳かで、けれど少し、さみしくも感じる場所だ。




「最近は春月さんとも会えていなくてね」




 ぽろろん、と鍵盤がさみしげに鳴った。




「吹奏楽部は秋のコンクールに向けて練習の時間が増えているし、わたしも放課後は塾の講義に行かないといけないから――なかなかここを使えないの」


「そっか。先輩は受験生ですもんね」




 先輩は両手をピアノにおいて、なめらかなメロディを奏で始めた。繊細で、かすかなタッチ。消え入りそうなほど細く、でも、確かにはっきりと聞こえる。やがて演奏は強く、激しく、まぶしくなる。そう思うと、今度は儚い旋律に移り変わり、また、消え入るようにかすかに――まるで、夜の海の上に浮かぶ、月の光の満ち欠けのようだ。




「これは、ドビュッシーの『月の光』」




 先輩は、まるでわたしの心を読んだかのようにつぶやいた。




「聴き覚えがあるでしょ? 去年、卒業式のときに弾いていたの」


「え、ああ、そういえば……」




 あんまり覚えてないけど、確かに、卒業生ひとりひとりに卒業証書を授与しているとき、ずっとピアノが流れていた気がする。あれは、先輩が弾いていたんだ。




「春月さんを見ているとね――いろんな曲が連想されるの。『亜麻色の髪の乙女』や、ショパンの『ノクターン』、グレン・ミラーの『ムーンライト・セレナーデ』……それから、この『月の光』もそう」




 曲名を呟きながら、先輩は、それぞれのフレーズを軽やかに奏でる。譜面台に何も置かれていないのに、すらすらと演奏できるなんてすごい。




「春月さんには、そう……月がよく似合う。きっとすてきでしょうね、たとえば……砂浜で、風を浴びて……きれいな髪の毛を広げながら、月の光に照らされて……ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』みたいにね。けど、さすがに裸ではいないでしょうけど」


「あはは……」




 わたしは適当に愛想笑いをした。初めて光をあの砂浜でみたときは、まさにその通りの情景だったからだ。


 先輩は不意に立ち上がると、ずいっと、わたしに顔を寄せた。




「ねえ、羽山さんは――歌を歌ったりしないの? それとも、なにか楽器をしたり?」


「いえ、どっちも、特には」


「前から不思議だったの。放課後、何度か伴奏しただけだけれど……春月さんって、あまり誰かと話をするのが好きじゃないでしょ? かくいうわたしも、彼女とおしゃべりをしたことは、ほとんどないの」


「え?」


「放課後にピアノを弾いていたら、彼女がふらっとやってきて、わたしの演奏に合わせて歌うだけ。それだけなの。いろんな人が春月さんの歌を聴きに音楽室まで来るけれど、彼女はむしろ、そういう人たちを避けているみたい」


「……、」


「でも、羽山さん――あなたは別。ここに初めて来たときも、あなたが一緒だった。それに、あなたとは時々、おしゃべりもするみたい」




 先輩はわたしの目を、じっと覗き込むようにして――顔はすごく近くにあるけれど、むしろ、耳を澄ませているような表情だった。




「なにか、あなたは特別なのかなあって、そう思ったの。ほかの人とは違う、特別な何かが、あるのかなあって」


「そんな、別に……わたしは、普通ですよ。たまたまきっかけがあっただけで……」


「でも、好きなんでしょ?」


「……、はい。好きです」




 改めて言うと、なんだか恥ずかしい。でも、ほんとうのことだ。




「すてき」




 先輩はピアノの前に座りなおすと、鍵盤の上に指を滑らせ始めた。




「It is only a paper moon, Sailing over a cardboard sea. But it wouldn’t be make-believe, If you believe in me……」


「ペーパー、ムーン……紙の月?」


「歌ってみる?」




 先輩は、どうせやらないだろうけど、と言いたげな表情で微笑んだ。







「あ、知ってるよ、その歌。村上春樹が引用してた」




 その日の帰り道、玉ちゃんに何気なく話してみたら、眼鏡の奥で目を細めて答えた。




「確か……作り物の見世物でも、あなたの愛があれば本物になる、みたいな。そういう歌。村上春樹は熱狂的なジャズ愛好家だからね、作品のあちこちで――あと、『ペーパー・ムーン』っていう映画もあって、そこでも流れてる。すごく面白い映画だよ」




 玉ちゃんのうんちくを半分聞きながら、もう半分の耳と頭でわたしはぼんやり考えた。どうして五色さんは、わたしにその曲を教えてくれたんだろう。


 ただ単に好きな曲だから、とか?


 けれど、光のことと無関係とは思えなかった。




「どうしたの?」




 玉ちゃんが立ち止まってわたしの顔を覗き込んだ。




「え、いや……なんか、どうでもいいことが気になっただけ」




 だけど、なんだか無性に気になった。







 スマートフォンというのは便利なもので、検索すればいくらでも音楽は聴けるし、曲の歌詞も調べられる。また、英語の辞書を片手に歌詞の意味を調べてみた。




「『きれいな月でも、紙ではつまらない』……『恋がなければ、この世は闇』……」




 なんて、日本語で訳したフレーズを歌っている歌手も、昔はいるみたい。


 でも、歌って難しい。英語の歌ならなおさらだ。けれど、動画サイトに投稿されているいろいろなバージョンを聴いているうちに、だんだんこの曲のことが好きになってきた。




「ふふん、ふんふん、ふんふふん……」




 と、夜の砂浜で口ずさんでいると、向こう側から光がゆっくりと歩いてくるのが見えた。


 今日は満月。


 とてもきれいに浮かんだ月は、コンパスで切り取ったかのようにまんまるで、濃紺の星空にぺたりと張り付けた紙のように――見えなくもない。




「こんばんは。光」




 ようやく声の届くくらいの距離まで近づいたころに片手をあげると、光はかすかにうなずいた。




「瑠璃、さっきの歌……」


「え。聴こえてたの?」




 うん、と光がうなずくのを見て、わたしは急に恥ずかしくなった。そんなに大きな声だったのかな。


 光の目はぽっかりと、暗い砂浜に浮かんでいる。まるでふたつの青い月だ。




「深雪が、弾いてるの……聴いたこと、ある」


「うん、教えてもらったの」


「瑠璃の、歌……とってもきれい」




 さあっと、海から吹く風が、光の髪の毛をふわりと広げた。




「もっと、聴かせて」


「ええ、恥ずかしいよ。それに、歌詞も覚えてないし……」


「聴かせて」




 なんだか妙に食い下がる。


 仕方ないので、わたしは光から顔を背けて、海の向こうに向かってハミングした。


 波の音。風の音。木々がざわざわと、揺れる音。それはピアノの旋律とは違って、楽譜も、決められたテンポも、強弱の記号もないけれど、なんとなく、わたしの歌に合わせて伴奏してくれているような、そんな気がした。そういえば、いろんなバージョンのこの曲を聴いたけれど、どれもテンポも音程もバラバラだった。歌詞が間違っているものもあった。もちろんそれは下手くそとかじゃなくて、なにか技法があるのだろうけれど……


 でも、わたしも、多少めちゃくちゃに歌ってもいいかな、と思った。とっても楽しい――いつまでも歌い続けられそうだった。


 ふと光を見ると――


 目を大きく見開いて、口をぽかん、と半開きにしたまま、じっとわたしのことを見ていた。わたしは光に手を差し出す。すると、少しびっくりしたように体をわずかに引いた。




「光もこの歌、知ってるんだよね?」


「あ……うん」


「じゃあ、一緒に歌ってみよう。きっと楽しいよ」


「……、うん」




 光は少しうつむいて、わたしの手を取った。


 せーの、とか、ワンツー、とか、合図はいらない。どちらともなくハミングをはじめたら、もうひとりも歌いだす。光は歌詞も覚えているみたいで、流ちょうな英語でわたしのハミングに乗せて歌っていた。


 光の歌――やっぱり、すごくきれいだ。


 ざぁぁ……ざざぁ……ざぁー……


 まるで波の音が、リズムをとってくれているみたい。


 わたしは握ったままの光の手をひいて、波のほうへと足を向けた。靴を脱いで、ばしゃ、ばしゃ、とつま先で水を蹴りながら歩いた。もう夏が近い。冷たい海が気持ちいい。




「あはは……」


「え?」


「あははは……ふふっ……」




 ――光が、笑っていた。


 目を閉じて、体を震わせて、くすくすと――鈴を鳴らすように。いつものようにただ、黙って微笑むだけじゃなくて、声をあげて、笑っていた。無邪気に、かわいらしく、普通の女の子みたいに。




「光……」


「ご、ごめんなさい。だって、とても――楽しいから、つい……」




 ごめんなさい、なんて、謝ることじゃない。




「うん。とっても……楽しい」


「瑠璃の歌……とっても、きれい。透き通っていて、ひんやりしてる。でも、やわらかくて……真っ青で、深い」


「光の歌も、すごく、きれいだよ。まるで妖精みたい」


「妖精……?」


「妖精の歌なんて、聴いたことないけれど――もしいたら、きっと、光みたいにきれいなんだろうな」




 わたしたちはお互いの手を握ったまま、空に浮かぶ、まんまるの月を見上げた。足元に寄せては引いていく波が、わたしたちのお互いの鼓動を調律してくれているようだった。やがて、握りしめた手がにわかにほどける。指と指を、ひとつずつ絡ませて、閉じた貝殻のようにぎゅっと固く結びついた。


 わたしが光の目を見て、光もわたしの目を見て、――それは同時だった。どちらともなく体を寄せて、さっと唇を重ねる。波のような、一瞬だけのキス。




「あの日――今日だけ、って、言ったのにね」


「嫌、だった?」


「ううん。嬉しい」




 でも、今日はこれだけ。


 わたしたちはまた、歌を歌いながら――いつの間にか手を離して、いつの間にか、おやすみを言い合って別れた。

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