第4話‐④

 梅雨が明けた。


 衣替えの季節。ブレザーは夏服に変わり、天気は気持ちのいい晴れ。




「おはよう。瑠璃」


「ひゃ――」




 そんな朝。


 夏服のシャツを着た光が、わたしににっこりと微笑んだ。わたしはそれを見て、とっさに逃げ出してしまった。意味もなく女子トイレに入って、何をするでもなく教室に帰ってきた。


 わき目も降らず自分の席に戻る。


 心臓が、どきどきと強く脈打つ。とても光のほうを見れない。







「瑠璃ちゃん、お昼ご飯食べよ」


「……、」


「る、瑠璃ちゃん? 瑠璃ちゃん!」


「……、え?」


「どうしたの、ぼーっとして……」


「ああ……うん、大したことじゃないよ」




 ――いや、大したことだ。わたしは光のほうを見ようとして、やっぱり見れずに机の上に突っ伏した。




「うぅ~」


「ど、どうしたの? お腹痛いの?」


「ちがうよ~」


「じゃあ、頭? 頭痛薬なら持ってるけど……」


「ちがうの~!」




 ――打ち明けられるわけがない。クラスメイトの女の子に、ファーストキスを奪われた、なんて。








「よっ! どうしたの羽山ちゃん、浮かない顔しちゃって」




 体育の時間。体育館に移動している途中で、八石さんがわたしの肩をぱーんと叩く。前に見たときより、肌が日焼けして濃くなっていた。




「なになに、なにか悩み事? せっかく梅雨明けしたっていうのに、気分はどんより、って感じ?」


「まあ……そんな感じ」


「春月ちゃんとのこと?」


「そんな感じ……わかる?」


「だって、ここしばらく、春月ちゃんも同じような顔してるんだもの」




 わたしは少し驚いた。ここ最近、光のことをまともに見れていないから、気が付かなかったのだ。




「春月ちゃんにも話しかけてみたんだけどさ、なんていうの? 心ここにあらずっていうかさ。でも、羽山ちゃんのほうをちらちら見てたから、たぶん、二人に何かあったんだろうな~って、そう思っただけ」


「そ、そうなんだ……」


「まあ、仲良し同士でも、そんなこともあるよねえ。いや、仲良し同士だからこそ、かな? わかるよ」




 八石さんは一瞬だけ、表情を曇らせたように見えた。




「でも、悩みのため込み過ぎはよくないよ? クジラの死体みたいに、ばーんと破裂しちゃう前にさ、誰かに愚痴って吐き出すのも大切だぞ?」


「それができれば、こんなに悩まないよ~……」




 八石さんの底抜けの明るさが、かえって悩みの影を濃く深くする。こんなこと、誰に相談すればいいんだろう。ばあちゃんに? 絶対違う。じゃあ五色さん? 違う。ランさん? いや違う。じゃあ誰に……?




「は~ぁ……」


「それか、もうぱーっと体動かして、忘れちゃうとか? あたしはね、そういう時は夜中に走り込みしたりするの。いつもやってるんだけど、ちょっと距離を伸ばして、長り坂を一気に駆け上っちゃったりね」


「ええっ。だって八石さんって、県境のほうに住んでるんじゃなかったっけ」


「うん、そうだけど?」


「そこから長り坂……え?」




 軽く二十キロはある距離だ。それを走ってくるなんて尋常ではない。しかもそこから、あの長り坂を上っていくなんて……


 でも、八石さんはけらけらと笑っている。




「モヤモヤした頭をすっきりさせようと思って、ず~っと走っていったら、気付いた時にはそれくらい走っちゃうときもあるってこと。時間が解決してくれることだってあるけれど、そのためには自分で行動しなくちゃ駄目なこともあるんだよ。ただ何もしないでいたって、何も始まらないんだから」


「うん……」


「ま、手っ取り早い一番の方法は――ワーッ、と叫んじゃうことじゃないかな! カラオケとかでさ。大きな声を出すと、それだけで少しは気分がよくなるよ」


「ワーッ、とかぁ……」




 確かに、名案かもしれない。海よりも深いこの悩み――


 それを吐き出せるのは、ひとつしかない。







「ワーッ! 海のバカヤローっ」




 と、海に向かって叫ぶのは、いったい誰が考えたのだろうか。海はちっとも悪くないけれど、今日ばっかりは許してほしい。


 砂浜にやってきたとき、たまたま光がいなくて本当にほっとした。わたしは思いっきり叫んだあと、膝のあたりまで海に入っていって、それからばしゃーんと顔を付けた。




「も~う、なんなのよぉ~!」




 というわたしの心からの叫びは、塩辛い水と一緒に、あぶくに溶けて流されていく。


 映画のワンシーンの真似のつもりかもしれないけれど、女の子同士でキスだなんて……しかもわたしにとってはファーストキスだ。別に特別大事にしていたわけじゃないし、誰に捧げるつもりでもなかったけれど、いざ奪われてみるととてつもない衝撃だ。大切なものは、失ってはじめて、それが大切だと気付くものだ。




「ぷは!」




 でも、海に向かって叫んだおかげで、少しはすっきりした。




「ふう――」




 と、振り返ると……




「あ……」




 そこに光がいた。制服姿のまま、わたしのほうをじっと見ている。青い瞳は、ぽっかりと浮かんだ星のようだ。




「……、」




 わたしは、波の中に立っているのもなんとなくばつが悪くて、光のほうへと歩いていった。




「あ……えっと……」




 どうしよう、言葉が出てこない。


 遠くからは光の顔がよく見えたのに、近づいたら、まともに顔を見られない。




「その、光。ええっと、その……」




 どうしよう、顔が熱い。頭がぐらぐらする。




「ふーっ、えっとね、その……」


「ごめんなさい」


「え?」




 見ると、光はうつむいて、悲しげに目を伏せていた。




「ごめんなさい……瑠璃のことを、その……驚かせてしまって」


「……、うん! 驚いたよ、まったく!」


「…………、」


「だって、いきなりキ――」


「……、」


「キ……キ、キス……するんだもん……」




 改めて口に出してみると、顔から火が出るほど恥ずかしい。


 でも、わたしは光のほうをちゃんと向いて、目をそらさずに、はっきり尋ねた。




「なんでキスしたの?」


「ぅ……」


「わたし、怒ってないから。ちょっとびっくりしただけだから。だから、どうしてわたしにキス……したのか教えて!」



 何回もキスキスと言っているとだんだんやけくそになってくる。


 光は今までにないほどしおらしく、押し黙っていたが、やがてかすかに――




「そう……したかった、から」




 と答えた。




「映画で、やってた、から……大好きなひとには、ああいう風にするんだって……」


「あ、あれは……ふつうは、男の人と女の人でするものなの! 女の子どうしてすることじゃなくて……!」


「ごめんなさい……」


「も、もういいよ。その……しちゃったものは、しょうがないでしょ」


「……、」




 まだ、うつむいている光を見ていると、なんだか、無性にむかむかしてきて――




「光、こっち向いて!」




 わたしは両手で光のほっぺを無理やり挟み込んで、それから、ぐっと背伸びをして、光にキスをした。唇と唇が一瞬だけ触れあって、呼吸が混ざり合う。でも、一瞬だけ。すぐに手を離す。光の目が、丸く、小さく、浮かんでいる。




「これでおあいこ! 貸し借りなしね。どう、驚いたでしょ? わたしがどれだけびっくりしたか、分かった?」


「…………、」


「だ、だから……ええと……わーっっ!」




 わたしは海に向かって叫んで、走り出し、ばしゃーん! と全身で飛び込んだ。どうせ服も濡れているし、今さらどうなったってかまいやしない。やりきれない気持ち、叫びたい気持ち、ぜんぶ水の中でごぼごぼと吐き出して、また顔をあげた。


 見ると、光はあっけにとられたような顔で、こちらを見ていた。




「もう、大丈夫。気にしてないから」




 わたしはまた、波打ち際まで戻って、光の手を取った。




「それに……うれしいよ。大好きなひと、って、言ってくれて。わたしも、光が大好きだよ。だから、キスだって、できるんだよ」


「瑠璃……」


「だから、約束ね。明日からはまた、いつも通りに過ごそう。その代わり――」




 雲がさあっと晴れる。


 月明かりが、あたりを照らしだした。




「その代わり――ね、もう一回だけ」




 わたしは光の唇に、もう一度だけ自分の唇を重ねた。わたしよりずっと背の高い光を離さないように、背中に腕を回して、体をぎゅっと抱きしめた。


 目を開けると、光が青い目を細めて、かすかに微笑む。




「ずるい……瑠璃、一回多い」


「いいでしょ」


「わたしも……もう一回だけ。いい?」


「うん……いいよ」




 今度は、光からキスされた。光も、わたしの背中をしっかりと、腕で抱き支えてくれた。光のキスはとっても長い。でも――嫌じゃない。女の子同士とか、映画の真似だとかじゃない。大好きなひとと、ひとつになる感覚。金色の光に包まれて、混じり合っていくような恍惚。波間に浮かんで揺られているような、沈んでいくような、その中間の危うさ。


 かすかに唇が離れそうになる。




「ふ、ぁ――」




 隙間から漏れる、二人の吐息。すると、光の腕の力がぎゅうっと強くなって、わたしは抱き上げられた。




 そうして、また、わたしたちはキスをする。


 ずっと、ずっと――


 月と海に見守られながら。

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