第4話‐③
玉ちゃんの家に来るのはずいぶん久しぶりだ。
「いらっしゃい、瑠璃ちゃん……ん?」
玄関先で出迎えてくれた玉ちゃんは、わたしを見ると突然首を傾げた。
「どうしたの?」
「瑠璃ちゃん、なんか……煙草のにおいがする」
「え、ああ……そうかも。ごめん」
「瑠璃ちゃんのおばあさんって、煙草吸わないよね?」
「ちょっとね、近所の人とお話ししてたの。その時についたかな」
いちおう服は着替えてきたけれど、髪や肌にランさんの煙草の匂いが少し残っていたのかもしれない。
玉ちゃんの部屋は、昔のままだった。カーテンの色も、絨毯も、ベッドやテレビの位置も……違いがあるとすれば、本棚に入っている本と参考書の数だろうか。それと、DVDのパッケージの数もだ。本屋さんで安く売られている古い映画のDVDが、数十本近く並んでいる。
「すごいね……こんなに集めたんだ。すっかり映画フリークだね」
「そんなことないよ」
てへへ、と笑いながらも、玉ちゃんはどこか嬉しそうだ。
おばさん――玉ちゃんのお母さんが運んできてくれたクッキーとお茶をいただきつつ、わたしたちはさっそく『雨に唄えば』の鑑賞会を始めた。
映画館と違ってリラックスして見られるし、まぶしくも、うるさくもない。それに内容はコメディタッチで分かりやすかった。そして、物語も中盤を過ぎたころ、土砂降りの雨が降るシーンで――
「あっ、この歌……」
主役の俳優さんが、傘を片手に、全身びしょ濡れになりながら、あの歌を歌い、踊り始めた。
光が歌っているときとは、まるで印象が違った。すごくきれいで、切ない歌かと思っていたけれど、そうじゃなかった。夜の街を、雨に濡れながら、ひたすら笑顔で歩いていく。水たまりをばしゃばしゃと踏みつけて、街灯に腕を絡ませて、心の底から嬉しそうに、歌って、踊っている。古い映画だけれど、見ているこっちまで、幸せな気分にさせられるようだった。
すごく、楽しそうだ。
わたしもああいう風に、雨の中で走り回ったり、はしゃいで踊ったりしてみたいと思った。
あっという間に、二時間弱の映画を観終わってしまった。
「瑠璃ちゃん、どうだった?」
「面白かった……」
この間、映画館で観たやつよりも、何倍もよかった。
玉ちゃんはほっこりとした顔で、紅茶のおかわりを注いでくれた。
「もともと、男の人が歌ってたんだね。知らなかった」
「とっても有名なナンバーだから、女性のカバーもいっぱいあるけどね」
「それに、本当に楽しそうな歌だったなあ……」
わたしは、五色先輩が言っていたことを思い出した。
――雨ばっかりでじめじめして。なんだか憂鬱でしょう? 空が暗いと、気分も暗くなって、なんだかイライラしちゃったり……少しでも気分の楽しくなるような曲が聴きたくなっちゃってね。
玉ちゃんに五色先輩のことを話したら、ふうん、と目を丸くしていた。
「じゃあ、あのピアノは……」
「うん。その、五色深雪っていう先輩。光がよく音楽室に行ってるのも、その先輩と会ってるからみたい」
「そうなんだ」
「光が歌ってるのしか、聴いたことなかったから、ぜんぜん印象が違ってびっくりした」
「ふうん……春月さんが歌ったら、きっと、オペラみたいな、厳かな雰囲気になるんだろうなあ……」
わたしはオペラを知らないけれど、厳かなのはその通りだと思う。
「春月さんも、この映画、観たことあるのかなあ……」
「観てみるって言ってたよ。今度、感想会しようよ、三人で」
「ええっ、そんな――は、春月さんと……?」
「共通の話題があったら、大丈夫だよ。軽く、世間話くらいのノリで」
「よ、余計に難しいよ~……」
玉ちゃんにはそうかもしれない。
でも、光にとっては違うだろう。だって光は、五色先輩とは、ちゃんと話せているんだから。それは『音楽』という共通の目的、話題があるからだ。
きっと玉ちゃんも、『映画』という共通点があれば、光とコミュニケーションが取れるんじゃないだろうか。
映画を観たあとは、ふたりで課題を済ませたり、お茶を飲んだりしながら過ごした。やっぱり、玉ちゃんと一緒に過ごす時間は心地よい。小さいころから何度もこうして、お互いの家に行ったり、お出かけしたりしている。それに玉ちゃんは物知りで、面白い話をいっぱいしてくれる。
これで人見知りさえなかったら、きっとクラスの人気者だろうけど、それも含めて玉ちゃんだ。
「玉ちゃんはさ、誰か気になる人とかいないの?」
おしゃべりはそのうち、学校生活のことになり――学校生活のこととなると、ちょっと突っ込んだ話もしたくなるというものだ。
玉ちゃんは紅茶よりも顔を赤くしながら、あたふたと答えた。
「き、気になる人って……?」
「気になる男子とか……」
「い、いないよ! そんなの」
「でも玉ちゃん、図書委員の男子の先輩とかとは、普通に話してるじゃん?」
「そ、それは、仕事だから平気なの! そういうんじゃないよ!」
「ふぅ~ん?」
「る、瑠璃ちゃん、いじわるだよぉ」
でも、とわたしは玉ちゃんをじっと見た。
今日の玉ちゃんは、いつもの三つ編みじゃなくて、シュシュで簡単に髪をまとめているだけだ。それだけでぐっと印象が変わり、ちょっと大人っぽい雰囲気になっている。
「玉ちゃん、顔ちっちゃいし、目も大きいし。意外と男子の人気高そうだけど」
「そ、そんなことないよ!」
「どうかなぁ~」
「だ、だいたい、わたしにそういうのは似合わないっていうか……」
「そういうのって?」
「その……れ、恋愛とか……お付き合い、とか、そういうのっ」
ぶしゅーと真っ赤になりながらうつむく玉ちゃんはとてもかわいい。さっきの映画のキスシーンとかは何食わぬ顔で観ていたのに、反応が極端だ。
「だ、だいたい、男の子はわたしみたいな、地味な子のことは気にしないでしょ。もっと、八石さんみたいに、明るい人とか……それか、春月さんみたいにすらっとしてて、大人っぽい人のほうが……」
「ん~……」
わたしは想像してみた――もしかしたら光が、誰か男子に告白とかされて、光もオーケーをだして、普通に恋愛している様子を……
「いや……ないな」
全然イメージできない。光は告白されても絶対受け入れないと思うし、そもそも光の学校での立ち位置は、ああいう感じだし……彼女に話しかけようという勇気ある男子が、果たして現れるのかどうか。
「る、瑠璃ちゃんは、どうなの?」
玉ちゃんはすごく頑張ってそう尋ねた。
「恋愛? う~ん……」
小さいころからそういうのはぜんぜん興味なかった。わたしは正直クラスの中でも目立つ方じゃないし、勉強も運動も平均レベル。男子から声をかけられることもなかったし、気になる男子も別にいない。今でもそうだ。
「恋愛、かぁ……」
その時、しとしとと、水滴が窓を伝う音がする。
時計は午後六時半をさしていた。外は薄暗く、予想通り雨が降り始めたようだ。
「あ……もう、こんな時間だね。そろそろお開きしようか」
「うん、お邪魔しました」
「瑠璃ちゃん、傘は?」
「持ってる。ありがとう」
わたしは玉ちゃんと、それからおじさん、おばさんに挨拶をして、倉守家を後にした。
電車に揺られて最寄り駅へ。
そのころには、あたりはすっかり夜めいて暗くなっていて、雨脚も強まっていた。街灯が寒々しく、びしょ濡れのアスファルトを照らしている。
「……、」
わたしは、ふと、思い立って傘を閉じ――うちにたどり着くまでの十分程度の道のりを、傘を差さずに歩いてみることにした。あの映画の中の、俳優さんみたいに。
天を仰いで、顔を雨に濡らす。
水たまりを見つけたら、あえて踏み入ってみる。
水は冷たいけれど、不思議と寒さは感じなかった。もう夏が近いのかもしれない。雨の日は傘をさす、それが当たり前だから、こんなに雨に打たれて歩くことなんてなかった。
なんて気分がいいのだろう。
体にたたきつけてくる雨粒の感覚が心地よい。雨の音は穏やかで、耳を飽きさせない。傘をさして歩くなんて、もったいないと思えるほどだった。
歌詞は覚えていないから、あの歌をハミングで口ずさみながら、わたしは家に帰った。
「ただいまぁ」
ばあちゃんが台所から声を張り上げた。
「おかえり。雨は大丈夫だったかい?」
「うん、だいじょうぶ」
「お風呂を沸かしてあるよ、ご飯の前に入っちゃいな」
「はぁい、ありがとう」
わたしは傘をたたんで傘立てにいれ、靴を脱いで洗面所に向かった。――このことは、ばあちゃんには内緒にしておこう。変に心配をかけると、いけないから。
そして夜遅く。わたしは傘をさして、雨の降る砂浜に向かった。
光は傘をさしていなかった。白いワンピースが、雨に濡れている。
「どうだった?」
光は空を仰いで、亜麻色の髪の毛を濡らした。
「とっても、疲れた……」
「あ、そっか……」
「やっぱり、映画は、苦手。言葉がたくさん……」
「そっか。頑張ったね」
「でも、歌や、踊りは……好き」
「だから、傘をさしてないの?」
うん、と光は恥ずかしそうにうなずいた。
「今日は、制服を着なくてもいいから……制服が濡れると、学校に行くの、大変だもの」
「あはは。そうだね」
「雨は、好き。いろんな色に、きらめいているから。こうして、体で受け止めると……わたしも、その中に、とけていくみたい」
「あの俳優さんも……そんな気分だったのかもね」
光はこっくりとうなずいた。
そして、ゆらゆらと、波を見てたたずむ。
「今日は、遅くならないうちに帰ろうか。光、疲れたでしょ?」
「うん……」
「じゃあ、おやすみ。風邪ひかないようにね」
「瑠璃」
「ん、なあに――」
名前を呼ばれて、立ち止まったわたしの肩に手が置かれ――
呼吸が止まる。
光の匂いが、吐息が、体温が――重ねられた唇から、直接伝わってくる。光がいっぱいに広がって、わたしと混ざり合って、ひとつになる。
いつの間にか手放してしまった傘が、砂浜に落ちる音がする。
雨に濡れた光の髪が、わたしの頬をくすぐる。背が高いぶん、少し、覆いかぶさるようになっているからだ。
雨音が、聞こえない。波も、風の音も。ただ、光の心臓の音や、息遣いが、脳に直接、伝わってくる。
ひゅっ、と音がして、光が遠のいた。目を開くと、光はわたしのだらんと垂れ下がったままの手を、細い指で包むように握りしめて、じっと、青い瞳でこちらを見つめていた。
「え、ひか――」
「おやすみなさい。瑠璃」
光はごく自然に微笑んで――そのままくるりと振り返ると、雨の降る中を軽やかに、踊るような足取りで、歩いて行ってしまった。
「え、え、え……?」
わたしは、――しばらくその場から動けなかった。今何が起こった? 何をされた?
「き……キス……」
特に意味もなく大切なものだと思っていた――ファースト・キス。
奪われた。
光に。
女の子に。
「な、なんで……光?」
だんだん我に返り始めて、雨音が聴こえるようになってきて、自分が雨に打たれていることも気づき始めて――
そういえば、『Singing In The Rain』を歌う前は、ヒロインとのキスシーンだったな、と思い出した。
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