第3話‐②
結局、夜の七時くらいまで映画館の中で過ごし、晩御飯の前に解散となった。チケットはいくつか余ってしまった――さすがに一日で使い切ることはできなかった――けれど、それは玉ちゃんに渡した。
「はぁ」
うちに帰ってきたときは、なんだか妙に落ち着いた。ここは大通りとも離れていて、すごく静かだ。ばあちゃんは老眼鏡をかけて、新聞を読んでいるところだった。
「なんだい、年寄りみたいなため息なんかつくんじゃないよ」
「だって疲れちゃったんだもん」
「今日もあの子と会ってたのかい?」
「ううん、今日は別の子。玉ちゃん。覚えてない? 昔よくうちに遊びに来てた――」
「ああ、倉守さんとこのお孫さんかい。そういえばしばらく会ってないねえ」
ばあちゃんの記憶力の良さには、いつも驚かされる。正確に何歳かは聞いたことがないけれど、病気もなく、歯も全部そろっていて、ボケや腰曲がりとはとんと縁がない。
ばあちゃんは分厚いレンズ越しにわたしのほうを見て、かすかに笑った。
「瑠璃に友だちがたくさんできるのなら、ばあちゃんも、うれしいよ」
その日の夜、寝る前に散歩に出かけた。海風は冷たいけれど、五月に入ってからは気温も上がってきて、ウィンドブレーカーはもう必要ない。
光はいなかった。
そこには知らない人がいた。
背の高い後姿。背中まで伸びた長い銀髪を、首の後ろで一つに束ねている。白いシャツと、黒いハーフパンツをはいていて、その上から着物を羽織っていた。浅葱色の青海波。そして、口元には赤く灯る火……煙草?
その人はぼんやりと海のほうを向いていたが、ぶわっと、不意に強い風が吹いてきて――
「あつっ、あっつ!」
煙草の火が顔にかかったのだろうか、もんどりうって砂浜の上に転がった。
「ええ……」
明らかに関わらないほうがいい感じの人だ。多分ゴールデンウィーク中に旅行か何かでここに来た大学生あたりだろう。面倒なことにならないうちに、さっさと退散しようと踵を返したとき、こつんとつま先に何かがぶつかった。
それは本だった。
英語で書かれた、縦長のペーパーバック。ずいぶんすり切れているけれど、海から流れてきたゴミというわけでもなさそうだった。タイトルは――
「『Gift From The Sea』……」
「リンドバーグだよ。知ってるかい」
すぐ後ろから声が聞こえた。それと同時に、かすかに感じる、火と煙の匂い。
さっきの銀髪の人が、すぐそばに立っていた。
「アン・モロー・リンドバーグ。旦那さんのほうが有名だけど、実は奥さんも旦那さんと同じ、飛行士だったんだ。その奥さんが書いた本だよ」
その人の顔を見ても、声を聴いても――男の人か女の人か、分からなかった。
すごく背が高い。
肌は、ガラスがちりばめられているように白くて、瞳は淡い碧色だ。
なんだろう――すごく、光に似ている。
「あの……これは、あなたの……?」
「そう、僕の本」
僕、ということは、男の人なんだろうか。その人はにこにこ笑いながら海に目を向けた。
「いい風だし、たまには海辺で読書もいいかなあと思ったんだけどね……『浜辺は本を読んだり、ものを書いたり、考えたりするのにいい場所ではない』――その本に書いてある通りだ。あんまり心地よくってね、ぜんぜん集中できなくて、そこにぽいっと投げておいたんだ。よかったら貸してあげるよ。僕はもう何度も読んでいるから、中身は全部覚えちゃってるんだけど、それでも何度も読んでしまうんだ」
その人は落ち着き払った様子で、シャツの胸ポケットから――シャツはよく見たらボタンが左側についている女性用のものだ――煙草とジッポライターを取り出し、火をつけた。潮風と、夜露に濡れた草木の匂いに混じって、煙草の匂いが辺りを包む。
わたしはその人のことをじっと見ていた。なんと声をかければいいのか、この本を返していいのか、それとも言われたとおりに受け取るべきか、いや、そもそもこの人は誰なのか――いろんなことが頭をぐるぐるとかけめぐる。
その人は煙を大きく吸い込んで吐き出すと、わたしの目を、じっと見つめた。
「きみが、瑠璃だね」
「えっ、」
「光から、きみのことはよく聞いてるよ。僕は、ラン。
その名前を耳にしたとたん、すべてが腑に落ちた気がした。わたしの名前を知っていることも、光によく似ていると感じたことも……
「は、はじめまして……羽山瑠璃といいます。光……さんとは、その、クラスメイトで……」
「いいよ、そんなにかしこまらなくて。光がいつも、きみのことを話しているからね。一度会ってみたかったんだ」
ランさんは、もう一度煙草を大きく吸い込んだ。
「瑠璃。瑠璃……いい名前だね。誰につけてもらったの?」
「えと……たぶん、おと――父か、母のどちらかだと思います」
「『瑠璃』という言葉が意味するものは、いくつかあるけれど……一説にはそれは、ラピスラズリのことだと言われている。知っているかい――青金石とか言われる、真っ青な石のことさ。かつてラピスラズリは、シルクロードを伝い、地中海を超えて、ヨーロッパへと輸入されていた。そこで宝石としてだけではなく、顔料としても使われていたんだ。鮮やかなその色は、こんにちでも、
そこでまた、大きく息を吸う。赤い火が、酸素をはらんで煌々と輝く。
「そんな名前だ。きみによく似合っているね」
「あ、ありがとうございま――」
「あつっ!」
また、ランさんは体をびくっとはねさせた。見ると、指に挟んでいた煙草はすっかり短くなって、火がランさんの指に触れたのだ。彼はポケットから灰皿を取り出して吸殻を中に入れると、ふーふーとやけどした指に息を吹きかけた。
「あはは。かっこ悪いところ見せちゃったね」
「はぁ」
「瑠璃。これからも光と、仲良くしてあげてほしい。あの子があんなに他人に興味を持つなんて、今までなかったからね。きっと、きみのことがとても大切なんだと思う。きみにとっても、そうであるとうれしいんだけどな」
「は、はい……もちろんです」
「よかった」
ランさんはにっこり微笑んで、くるりと背を向けて歩き出した。
「僕は、この砂浜のずっと先の、海の家にいるから――もし気が向いたら、いつでもおいでよ。きみともっとお話ししたいけれど、今日はもう夜遅いからね」
ランさんはふらりふらりと、煙みたいにおぼろげな足取りで夜の闇に姿を消した。
あれが、光がしょっちゅう言っていた、ランさん……確かに、雰囲気がよく似ている気がする。親戚なんだろうか。
「って、あっ……」
手を見ると、まだ、ランさんの本を握ったままだ。
貸してあげる、と言っていたけれど、わたしとしては返しそびれてしまったような、そんな気持ちだ。
ぺらぺらとページをめくる。一ページ目には、きらきら輝く螺鈿細工の栞が挟み込んであった。
「英語、読めないよ……」
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