第3話‐③

 ゴールデンウィークでどうせ時間もたくさんあるし、家にいてもほかにやることもないし、わたしは辞書を片手に英語の本を読みながら過ごすことにした。


 けれど、これがなかなかの苦行だった。


 わからない言葉に突き当たるたびにいちいち辞書を引かないといけないし、しかも単語には複数の意味があって、最適な語彙を見つけないといけないし、しかも構文によって前後の文脈の意味ががらりと変わったりするし……なにより辛いのは、苦労して文章を訳したとしても、それが正解なのかどうかわからないことだ。




「はぁ」




 もっとまじめに授業を受けておけばよかった。いちおう借りたものだから、返すまでに一応最後まで読んでおいたほうがいいのかなあと思っていた。


 机の上には、あの螺鈿細工の栞がきらきらと輝いている。竹の繊維を編み込んだものに、虹色を呈する螺鈿で、海鳥や波があしらってある。すごく細かい。それに高級そうだ。




「これ、なくしたらきっと大変だろうな……」




 そんなものと本と一緒にぽいと放っておくランさんもランさんだけれど。







「ずっと部屋にこもって、何してたんだい?」




 夕飯の時、ばあちゃんが尋ねた。




「英語の勉強」


「ずいぶん熱心だったじゃないか」


「連休だもん。課題がいっぱいあるの」


「宿題はちゃんとやれ、なんて、口やかましく言うつもりはないよ。どんなことでも熱心にするのはいいことだ。いつかきっと身を助けるよ」


「そうだといいなあ」







 その日の夜、砂浜で光に、ランさんと会った時のことを話した。




「そうなんだ。ランが、そんなこと……」


「ランさん、何か言ってた?」


「ううん、ランとは……たまにしか、会わないから」


「この先の、海の家にいるって言ってた。海の家って、あの、ぼろいやつのことかな?」




 確かに、この砂浜のず~っと向こう側に『海の家』はある。だけど、夏休みに近所の子どもたちが海水浴にやってくるときも、開いているのは見たことがない。てっきり取り壊しを待つ廃屋だとばかり思っていた。




「うん」


「光も、そこに住んでるの?」




 首を横に振る。




「でも、たまに、遊びに行くよ」


「じゃあ、今度、一緒に行こうよ。いきなり一人で行くのは、その……ちょっと緊張するから」


「うん」







 永遠に続くように感じられていたゴールデンウィークも、あっという間に終わりが近づいてくる。最終日、わたしは玉ちゃんと待ち合わせて、公民館と隣接した図書館でたまった課題を片付けていた。




「『海からの贈物』? リンドバーグの?」




 英語の課題を片付けているとき、なんとなく、あの本の話題になった。玉ちゃんは何気なさそうに答える。




「知ってるの?」


「うん、有名な本だよ。日本語訳なら、読んだことあるけど……」


「あ、そっか。日本語訳と対応させて読めばいいんだ。この図書館にあるかな?」


「絶対あるよ、世界的なベストセラーだもん」




 蔵書検索をすると、確かに日本語訳はあった。ずいぶん古い文庫本だけど、けっこう薄くて読みやすそうだ。




「これ、借りていこうっと」


「でも瑠璃ちゃん、課題もちゃんと済ませなくちゃ」


「う、うん……」


「連休明けに数Ⅱの小テストがあるっていうから、そこの復習もしたほうがいいよ」


「うへえ~」







 その後、なんだかんだで課題は全部終わったし、充実したゴールデンウィークだったと思う。連休の締めくくりに、わたしは砂浜で、あの本を読んでみた。




「『浜辺は本を読んだり、ものを書いたり、考えたりするのにいい場所ではない』……」




 わたしは、そうは思わない。


 ここは、わたしの知っている世界の中でいちばん落ち着くし、いろんなことを考えるのに適した場所だ。確かに海風が強くて、ページが勝手にばらばらとめくられるので、読書には向いていないかもしれないが……でもわたしは浜辺が好きだ。


 さ、さ、というかすかな足音に目を向けると、光がこちらに歩み寄ってくるところだった。彼女は少し驚いたように目を見開き、わたしのすぐ隣に座った。



「はじめてだね。わたしのほうが先にここにいるの」


「うん……」


「課題、終わった?」


「うん……ランに、手伝ってもらった」


「それで今日は、ちょっと遅いんだね」




 光は少し顔を赤くして、うつむいた。


 わたしは本を閉じて、光のほうに少し身を寄せた。




「ランさんって、何をしている人なの?」


「……よく、わからない。たくさん、本を読んだり……何かを、書いたりしてる。いろんなことをを知ってる。学校の勉強も、教えてくれる」




 小説家か何かだろうか。……勝手なイメージだけど、あの浮世離れした感じは、確かに芸術家っぽい。




「じゃあ光も、本を読んだりするの?」




 光は首を横に振った。




「文字を読むのは……苦手」


「そっか」


「瑠璃は、好き?」


「うーん……好きってほどじゃ、ないかな。でも、嫌いじゃないよ」




 日本語訳と対応させながらだと、英語の本でも、半分くらいまでは読めた。言葉の意味をとらえて、少しずつでも読み進めていくのは、決して悪い気分じゃない。


 光は物憂げに目を伏せた。




「ランが、文字を読めたり、言葉を勉強しないと、社会に出るのは、難しいって……だから、勉強してる。でも、やっぱり、大変。話したり、字を読んだりするのは……」


「うん……そうだね。大変だよ」




 英語の本を読んでいると、身にしみて感じる。


 目にした言葉。それが意味するもの。その言葉はどういう文字を書いて、どういう発音で、どういう使い方をするのか――無限にも思える、それも、厳格に決められたルール。それを一から紐解いていくのは、とても大変なことだ。


 光もきっと、そんな気持ちなのかもしれない。


 わたしは本を傍らに置いて、光の手を取り、指をからませる。そして、肩に頭を乗せて、耳に響いてくる息遣い、血潮、体温を感じる。


 わたしと一緒にいるときは、光とわたしの間に、言葉は必須じゃない。


 こうしてお互いを感じられるからだ。

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