あおなみ

積雲

シュナイダー・トロフィー・レース

「英國のスーパーマリンS6、永遠の榮光を手にしました!此れにてシユナイダー・トロフィー・レースは幕を閉じます!國王陛下萬歲!」



「おい、松尾、看たか今朝の新聞。」

そう云つて主任の三木が設計室に入つてきた。

「……看たぞ。おれの負けだ。」

「ははつ、暫くは一服に困らんな。」


私は上司で在る三木主任と賭けをしてゐた。


賭けの内容は『シユナイダー・トロフィー・レースで何處どこのチイムが勝つか』と言うものだつた。私はイタリアに賭け、主任はイギリスに賭けた。賭けの結果が出たのは今年一九三一年の九月のことだ。イギリスの勝ちだつた。


飛行機の設計者ともなれば、シュナイダー・トロフィー・レースを追つていない者は居ない。此のレースの規定は極めて簡單で、決められたコースを最も早く周囘しゅうかい飛行できたチイムの勝利というものだつた。其處そこには發動機の排氣量や機體きたい形狀などの制約は一切なかつた。


元はフランスの一資本家が醉狂で始めた此のレースも、歐州大戰での中斷を經て、此のレースでの勝利が其の國の技術水準の高さの證明しょうめい、如いては國家の威信にかかわるものに成つた。詰まり、日進月步で發展してゐる飛行機の、其の時最も先進的な機體きたいが一齊にかいする、一大行事だつたのだ。


斯く云う私も飛行機の設計者の端くれとして、ずっと斯のレースの動向を追つてゐた。


賭けの勝ち負け等は流れ、直ぐに機體きたい設計の話が始まつた。職業病で或る。

「設計士としてはイタリア、マツキ社設計の先進性を見習うべきでしよう。翼面冷卻とは斬新だ。きっと飛んだら370ノットは出ますよ。」

うは云っても、視界や離水性に難が有り過ぎる。翼面冷卻も軍用機としては不向きだ。後、畢竟ひっきょう飛ばない機體きたいでは價値かちが無いと云う事だよ。君は全くマツキ狂いだな。」

主任は一息著いた。

「そもそも、我々が未だ自前でちやんとした圖面ずめんが引けぬ段階だ。其處そこへんは謙虛に成らんといかん。」

「主任は矢張りイギリス派ですか。」

「旣存技術で信賴性の高く製造し易い機體きたいを作ってゐる。軍用機設計の王道とは斯く在らん。イタリア被れよ。」

然う云うと、仕事だと謂わんばかりに三木主任はAB-5試作三座水上偵察機の資料を置いた。

「今日はこの箇所の空力設計を檢討してくれ。ハインケルから學ぶ所も有れば、もつと改良出來る所も有る筈だ。」


「どうした。」

「おれは悔しいですけどね。無謀でも、出たかつた。」


シユナイダーレースは今年で最後になつた。三勝したチームが永遠にトロフィーを保持する規定になつてゐたからだ。イギリスは一九二七年、一九二九年、そして今年、一九三一年に勝利し、永遠の榮光を手にした。尤も今年はイタリア機が發動機の不良で飛べなかつたからなのだが。


「そうか。」

三木主任は窗邊まどべで云つた。


「松尾、此れからは陸上機の時代だ。浮舟なんて空氣抵抗の塊で態々わざわざ機體きたい設計を縛るよりは、長上なる飛行場や空母を整備してより洗練した飛行機を作つた方が良い。」

「了解して居ります。」

「水上機はもうアドリア海の夢でしかない。今や最先端は陸上機だ。」

三木主任はぶつきらぼうに云い放つた。

「だが我々の置かれてゐる狀況は時代の潮流とは少し異なることを解しなければならないぞ。大陸が主戰場と成る歐州なら未だしも、我が國は島國で有り海運國家である。そして航空機はその運用の場所にあの大平洋が有るだろう。故に、水上機に關してはレースどころか實用として尤も需要が有る地理だ。」

主任はつづける。

「現に試作せらるるAB-5試作三座水上偵察機の件も有る。設計は未だドイツ賴りだが、學んで取込み、軈てやがて此の愛知航空機のみで世界に誇る水上機を作る。シユナイダーは今年で終わりだ、だが」

主任が一息着く。

「俺たちは俺たちのシユナイダーをやつてゆくのだ。」

「はい。」

「仕事をするぞ、マツキ狂よ。」

主任の言にあつては踊り出さんばかりの手で私は計算尺を握つた。

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あおなみ 積雲 @sekiun_creation

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