第2話

 神山は女連れでアトリエの扉を開けた。知らぬ女ではない。昨年度通った予備校の同窓生だからだ。珍しいのは一卵性双生児の片割れだと言うことだ。どうしたことか、片方だけが神山に惚れたらしく、くっついて離れない。初めは迷惑そうにしていた神山だったが、今では邪険に扱うような事はない。

 神山は美大の大学院生で、予備校の教官をしている。勿論アルバイトで、つまり教え子との交際になるわけで、予備校では親しい仕草を見せなかったが、ここでは遠慮なく振る舞える。別にベタベタしている訳ではないが、常に神山の傍にいて、寄り添うように立っている。悪く言う奴もいるが、大した女だと応援している。なぜかと言えば、神山は天才だと密かに思っていて、その動向は最大漏らさず注視しているからだ。多分、彼女もそれを感じ取り、自分の才能など大した事もないと見切りをつけ、神山を支える役に廻ったのではないかと睨んでいるのだが、確かにそうだとは言い切れない。でも、そうだと踏んでいる。

 が、惜しいことに油絵は描いていない。グラフィックデザイナーなのだ。あれほどのデッサン力を持ちながら、なぜ絵を描かないのか、惜しくて勿体なくて悔しい。世の中は広い。こんな奴がいるなんて。それを知り得た事だけでもアトリエに来た価値があろうと言うものだ。

 当然、デザインの世界でも並みではない。幾つか公募のデザインで賞をとり、採用されたロゴやマークは一つや二つではない。それでも、聞いたところによると、大手の化粧品会社の採用試験に落ちたらしく、いったい、どんな優秀な奴が採用されたのか、知りたいものだ。

 神山は直ぐに帰った。様子を見に来ただけ?周りからはそんな声が上がったが、違うぞ、スケッチブックを携えて来ていて、昔のデッサンを参考にと、見せに来たのだ。そのデッサンの凄いこと。驚くのは一本の線で、繋がった一本の線で描かれていることだ。イメージとしては網とか籠を、石膏の上から網目状の物を被せ、中を取り去ったらこうなるのか、いや、そのままではダメだ。線のひとつひとつが像の要点を通っているのだ。そのどこが参考になるのかと言うと、我々の技術では繋がった一本の線には出来ないだろうが、要点と要点を直線で結べば同じ効果を得られると言うことだ。ただ、そんな丁寧な説明はしては貰えない。さっさと帰るのが天才のスタイルなんだろう。唯我独尊。そこから石膏デッサンのコツを掴んだ者が何人いたのだろう、誰も秘訣を解き明かせなかったかも知れないが、それに拘泥はしない。今は解らないかも知れないが、解る時が来るのかも知れない。その時に言葉に出来れば、より確実に把握する事が出来る。そして、その先に繋がるのかも知れない。それがデッサンを持って来た意味だ。

 もう、アトリエは院生の作業場と言う役目は果たしてはいない。殆ど美大浪人の溜まり場、言葉が悪く、場末の飲み屋みたいだが、それでも芸大、美大、絵画、デザイン、合格者が出ているので、途中から入って来る者もいる。それと、どうしたことか服飾デザインを志望する女性が三人になった。その一人は見知った人物で、前の予備校の事務の女性だ。この人については他にも色々と情報は入っていて、アトリエに顔を出すのは教官の一人を追いかけての事だと思っていたが、ファッションデザインに興味があったとは知らなかった。その和子が予備校を辞めたらしい。だからか、このところ毎日のように姿を見る。そして何か話があるのか、チラチラと此方を窺い、休憩で近寄って来て、「聞いた?結婚するらしいわよ」と言う。誰のことかと思ったら、高校の同級生、一緒に予備校にかよった佳子の事だ。別の教官の岡田と結婚するみたいで、噂は何となく聞いていた。高校三年の夏から夜間の授業を受け、デッサンを習い、半年の即席で受験し、落ちて一浪した仲間だ。今年、彼女は受かり、大学生になったばかりだ。

 「ちょっと早くない?」まだ二十歳の誕生日前の筈だ。

 「岡田さん、モーレツアタックしたみたいよ」毎日、彼女のアパートに押し掛けて口説いたらしい。と、和子は言うが、要点はそこではないと思う。岡田の実家が開業医なのが判断の決め手になったのじゃないのかと睨んでいるのだが、穿ち過ぎだろうか。彼女の父親は東大卒のエリートらしく、これは偏見かもしれないが、その娘である彼女も肩書きとか地位の欲求が強く、女なら尚更だろうと考える。が、それは和子には言わない。絵描きに成ろうなんて、世間からドロップアウトする事だ。そう思っている。そんな奴が家柄や金の事を言えば、負け犬の遠吠え、妬み嫉み、恥知らずのゲス野郎だと思われるだろう。

 「知ってたの?」和子が心配そうに顔を覗き込む。佳子に振られたと思っているのだ。顔に同情と共感、悲しみがあり、また、少し嘲りがあるのかも知れない。

 和子は興味本意で心配してくれているのではない。多分、和子も振られたのだろう。教官のリーダー、早川への片思い、本人は誰にも知られていない、秘めたる恋と思い込んでるようだが、芸術家志望の感覚は鋭い。お見通しなのだ。だが、早川には妻子がいる。辛い恋だ。和子が明るく振る舞えば振る舞うほど、事情を知っている者には滑稽で悲しい。

 「私、パリへ行こうと思うてるねん」関西弁で言う。生まれは神戸だ。友達がパリに居て、そこに潜り込んでアパートを探すと言う。諦めたのか、告白して、こっぴどい目にでも合ったのか、何か有ったに違いない。だから慰めようとしてくれたのだ。でもこちらが慰める訳にはいかない。知ってる事を悟られてはいけないのだ。

 「思い出に、野村君に描いてもらったの」

 自分のアパートに野村を招いてデッサンのモデルをしたらしい?まさかヌード?……。和子を見詰めて表情を探った。もしヌードなら、早川との肉体関係が想像でき、その上で振られた事になる。不倫の泥沼、週刊紙の記事のような展開だ。

 見知った女の裸体を描く、どんな気持ちになるのだろう。また、モデルになる方も気持ちの整理は着いているのだろうか。いや、和子の場合は決着を着ける為にモデルをした訳だ。吹っ切れたのだろうか。そう簡単には行かないか。そこを無理やり振り切ってパリへ行くのだろう。花の都パリ、希望の旅立ちではなく、傷心旅行、センチメンタルジャーニー、歌謡曲のような軽い、深い傷にならないように願うが、それは本人の性格も関係してくる事柄だし、考え方の問題でもあるので、和子の資質に頼むしかない。案外、ケロッとして帰ってくるのかも知れない。

 来週、旅立つらしい。一旦、神戸に帰るらしいから、アトリエは今日が最後だ。未練だが、ひと目でも早川の顔を見たかったのだろうが、それも叶わなかった。でも予想された事だったらしく、見た目に落胆はない。「じゃあね」と言って別れた。

 奥の部屋の話し声は入り口の土間までは届かない。もっとも、もう二・三人しか残ってはいない。カルトンケースを片付け、土間に下りると、野村が入り口の引き戸を開け、帰る間際で、振り向いて掌を見せると戸を閉め、去った。急いでいるのは、和子を追いかけたのかも知れない。そうなのかどうか、確かめようと杉山と美沙子に"お先に"と声を掛け出ようとすると、杉山に止められた。美沙子のデッサンを批評する杉山が同意を求めたのだ。

 批評会でもあれば別だが、浪人同士で批評し合うのは珍しい。貶し合う無様な有りさまを想像すると鳥肌が立つ。だが、誉め合う方がもっと惨めだ。おべっか使いの太鼓持ち、社員旅行の宴会芸、酒を注ぎまくってお愛想笑い。無縁だった芸術家志望のする事ではない。それよりも尚許されないのは潰す行為だ。誰にでも欠点はある。そればかり指摘してもしょうがないのだが、する奴がいる。大概は嫉妬からなのだが、さらに始末に負えないのが、才能を感じて、批評してしまう事があるのだ。本人は貶されているとしか感じられないのだが、実は違う。どう言って良いのか、気になる何かを持っていて、言わずには居られないんだ。美沙子が院生の一人に、これをされたらしい。それを杉山に話したら同じように貶されたらしい。しかも、悪いことに杉山は美沙子の良いところを全否定し、己の美意識を押し付けている。考えるに、それが許されるのは生活の全てを面倒看ている師匠と弟子の関係だけでは無かろうか。もっとも、美沙子の杉山への思いに気付いていて、自分の女への優位性を、支配を証明しているのかも知れないが。とにかく、杉山に同調は出来ない。美沙子のデッサンは甘いが、朦朧とした雰囲気には空間が、曖昧だが距離を感じる。日本画専攻の美沙子には、これで十分で、これを描ければ合格出来るのではないかと思われる。そう言ったが、美沙子は納得せず、院生二人にダメ出しされたと言う。それ見た事かと杉山がしたり顔をしたが、本当にダメな作品を批評する奴なんか居ないと言ったら美沙子は納得した。

 「それでいいなら、俺の言えることはもう何もない」と、杉山は捨てゼリフを残すと、出ていってしまった。座っていた美沙子が上半身を捻って杉山の姿を追い、縋るような眼差しを向けたが、杉山は後ろも振り返らず去った。

 二人の仲がどうなっているのか、想像するしかないが、一つ上の先輩に対する憧れから発展した恋ならば、麻疹のような物だろう。それに加えて画家としての尊敬とか才能を認めての恋だとすると本物だ。出る幕はない。

 しかし、気が変わった。振り向いて捩れた美沙子のシャツが乱れ、捲れ上がって肌が露になり、柔らかそうなお腹の一部が見え、その白さが縋るような眼差しと重なり、脳裏に焼き付いた。映像はフラッシュを焚かれたように発光し、嫉妬がみるみる内に膨れ上がり制御出来ない。女の一途な思いが迸り、情念が青く燃えていた。その向かう先が自分でないのが我慢出来ない。容認したくない。だが、どうしたら良いのか……。

 「一つ上の先輩がね」美沙子が唐突に話し出した。

 「美沙子には大人の恋は解らないでしょう?って言うの」どうやら妻子ある男性との恋の話らしい。大人の恋とは、肉体関係の意味らしいが、そこをボカして話をする先輩は、美沙子を侮っているのに違いない。程度の低い女だろう。男なら、そんな愚痴には付き合わない。

 「背負ってるねえ」吐き捨てた。つまり、不倫を自慢しているのだ。それを大人の恋と称するのは韜晦だ、自分も他人も目眩ましを喰らわせて誤魔化し、自分を祭り上げようと言うのだ。唾棄すべき存在だ。

 美沙子が目を瞠った。気付いたようだ。こうなると、美沙子とその女の立場は逆転し、大人の恋を理解出来ない負い目から解放される。杉山への恋心も、そんな可能性を秘めているのではないか、との疑念を抱かせたのなら、美沙子の中に爪痕くらいは残せるのかも知れない。

 「好きだよ」呟いてみた。一途な恋をする美沙子もだが、失恋してパリに旅立つ和子、更には岡田と結婚する佳子にも囁いてやりたい。どれも遠い彼方の出来事のようで、現実味のない夢のよう。なぜかと言えば自意識のなせる思念だからだ。

 美沙子は立ち上がり、二・三歩進み、後ろ姿を見せると、「困ったわ」と呟いた。

          了

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ダ・ヴィンチの溜め息 @8163

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