ダ・ヴィンチの溜め息
@8163
第1話
散歩の途中か、ボクサー犬を連れたカーディガン姿の紳士が、メンチカツ二つ買うと、そのまま道に投げ、犬に食わせた。瞬く間に平らげた犬は、お座りをして主人を見上げている。オレも同じような目をして見ていたに違いない。朝飯の代わりに芋コロッケを一つ買い、木炭デッサンで使う食パンに挟んで食べようとしていたのだが、犬のメンチカツが羨ましくてしょうがなかった。メンチを買う金が無かったのだ。仕送りは昨夜の散財でもう無い。飲んでしまったのだ。今日、立て替えているアトリエの家賃分を返して貰わないと、飢える。会計担当の、一つ年下の杉山の白い顔を思い浮かべると、催促するのも億劫になり、憂鬱だ。
アトリエは、要するに共同経営しているのだ。会員が金を出し合って家賃を払っている。先月、誰かが、多分、金欠で足りなくなったのだろう、それで困ってどうしようと言うことになり、皆でパチンコに行こうと提案し、運良く二万ほど稼いで渡したのだが、まさか忘れては居まいなぁ……。でも背に腹は換えられない。請求してみよう。
表通りを横切って一本入ると様相は変わり、下町風情漂う商店街になるが、それは過去の話で、今も開店しているのは魚屋、八百屋、それに数軒の飲食店しかない。多分アトリエも何かの商店だったのだろう、通りに面した側はアルミサッシのガラス張りで、引き戸になっている入り口を入れば、10畳ほどのコンクリートの土間の部屋、奥は一段上がって、昔は畳だった部屋を改装し、建築資材のコンパネを貼った部屋が二間続いている。土間には首から上の石膏像、奥の部屋には胸像が置いてあり、前にはイーゼルが五・六脚並んでいる。
土間には三人、もう描いていたが、挨拶などしないで奥に進んだ。一人振り向いたが、一瞥しただけで作業を続ける。不作法ではなく、邪魔をしないだけだ。集中を途切らす音を立てないように歩き、扉のない押し入れから自分のカルトンケースを取り出してイーゼルに掛け、座ってからバッグの食パンを出し、コロッケを挟み、食べる。昼は、金を貰ったら通りに出てカレーを食べようと考えた。喫茶店だが、月桂樹の葉を使った本格カレーを食べさせてくれる。それと、顎なしと仲間から渾名されるウエイトレスがいて、その顔を観察できるのも楽しみだ。顎の小さな女の顔の何処に引かれるのか解らないが、なぜ解らないかを説き明かさなければならない。
ひとくち目はパンの耳が硬く、甘さを感じる気が削がれたが、ふたくち目に耳はなく柔らかい。中のコロッケの芋も軟らかく、それが甘い。だが、小麦粉もデンプン、じゃがいももデンプン。それを考えると可笑しい。炭水化物ばかりで不健康だと、構うものか、空腹を満たせば取り敢えずは満足だ。文句はない。生きる目的は絵が上手くなる事で、それ以外は二の次だ。旨い物の為にそれを忘れたら本末転倒、そう考えて納得するしかないが、これが希望なんだろうかとの迷いが無いこともない。犬がメンチを食べてる姿を思い出す。
「おぬし早いのう」杉山が姿を現した。年下だがタメぐちだ。自分を天才だと思っているのは間違いない。それに相応しい雰囲気はあり、まわりも、卒業した高校の美術科でも、とやかく言われなかったみたいだ。
コロッケを挟んだ部分を食べてしまい、残った細い耳を二本とも折り畳んで口に入れ、カルトンケースからデッサンを取り出してイーゼルに掛け、描く用意をする。ここで立て替えている家賃代の事を思い出したが、杉山はもう描き始めており、切っ掛けを失っており手遅れだ。昼にでも聞いてみようと思い直し、目の前の首の長い石膏像に取りついた。
ダビデの首は何でこんなに長いんだろう。それに、長くても優美さは感じない。ゴリアテを倒すほどの荒々しさは微塵もなく、かといって優美でもない。どうしてか、根底にはミケランジェロの同性愛が在るのかも知れない。ルネッサンスの画家たちはラファエロを除いて皆ゲイだ。徒弟制度の為、幼い新入りは先輩達の思うが儘だ。あのダ・ヴィンチですら晩年まで少年を侍らせている。
ここで一つ思い浮かんだ事がある。杉山だ。もう二十歳に成りなんとするのに色白で中性的なのだ。それでいて女々しくはなく、言葉は乱暴でぶっきらぼう、その落差で他人は混乱し幻惑され、まんまと術中に嵌まるのだ。そうに決まっている。違いないのだ。まあ、これはオレの嫉妬だ。解っている、二浪もすると僻んで拗ねてろくな発想にはならず、陰に籠るのだ。杉山が女にモテるのが特に気に入らない。本当はそんなにモテてはいないのかも知れないが、どうも美沙子の動向が気にかかる。明らかに他の男への態度とは違うのだ。何と言おうか、恋とか愛ではないかも知れないが、美沙子は曖昧なまま取って置いて欲しいのだ。別にこちらを振り向いて欲しいとか、好きになって欲しいとかじゃない。そっとしておいて欲しいのだ。美味しいケーキを食べずに残すのに似て、時間が経つほど美味しさが増すような気がして楽しみも増す。それを途中で食べられてしまうのは我慢出来ない。地団駄踏むほど悔しい事だ。
木炭デッサンを描き込むと、黒い筈の木炭の色が青みがかってくる。なぜかそうなる。そうなると、もうベテランだ。だから青みがかったデッサンは皆から一目おかれ、初心者は早く描けないものかと苦心するのだ。けれども案ずるより何とか、いつの間にか青くなり、太い木炭を柔らかく使い、指でなぞればしっとりと紙に馴染む。だが本質はそこには無い。ダビデのあのツンとしているのに眉間に皺があり、眉を寄せた表情に湿り気と、少ないが困惑を綯い交ぜにしたような気分と、緊張を感じさせない肢体の様を、一寸でも感じさせられれば満足なんだが、難しい。と、ここで、ダビデの顔が杉山の白い顔に似ているのに気付いた。あれっと、思い、横の杉山の席を見ると姿が見えず、振り向くと杉山が後ろに立ち、腕を組み、こちらのデッサンを覗いていた。
「おぬし描けるなぁ」と言う。
額面通りには受け取れない。
「この前の立て替えた金、貰える?」と返した。
「ああそうだった」と、案外簡単に話は進み、これで昼飯は確保出来た。
月桂樹の葉の入ったカレーは高校の時に食べている。電車通学だったので、降りた駅のビルの二階の喫茶店でよく食べたカレーがそうだった。駅ビルのカレーはちょっと塩気があったが、顎なしのカレーはもっとスパイシーでトロミが少ない。さらっとしてスープのようなんだが、薄くはない。好みだ。トロミと言ったって多分小麦粉。煮込んで出た旨味ではないのだから、そんなに有りがたがる物ではないが、あの舌に纏わりつき、熱さを保ちつつ流れる粘り気も嫌いではないが。
カレー皿は楕円形で白くて何の飾りもない。紙ナプキンの上にスプーンが置かれセットが完了した。顎なしが、どうぞとばかりに首を傾げる。大柄なのに頭は小さく、顔も顎も小さい。いや、顔が小さいから身体が大きく見えるのかも知れない。とにかく不思議な女だ。遠目には痩せているのに、隣に立つとボリュームはたっぷりで、四肢は長い。着痩せするのかも知れない。それとも別の要素があるのだろうか、例えば、マイヨールの彫刻の裸婦は、まだ削っても良いような気がするのだが、内側から膨張してくるような肉感をしたたかに表現している。あれに服を着せたらどうだろう、やはり太って見えるのだろうか。どういうメカニズムで着痩せするのか知りたいものだ。
スプーンにも一家言ある。大きいスプーンが苦手だ。特に横に広いのが駄目だ。喋るのもそうだが、食べるにも余り大きく口を開けない。ボソボソと話しちょこちょこと喰うのだ。だから横に大きく口は開かない。カレーなど、好きだからスプーン一杯、山盛りに掬って食べるが、縦にはいくらでも開く口も、横には限界がある。横にはみ出たご飯が引っ掛かり、こぼしたり唇に付いたままになり、幼児のような所業になる。ここのスプーンは縦長で先が細い。理想のスプーンだ。根本の広い部分で横に掬って肘を上げ、スプーンを縦にして流し込む。だからサラリとした液状が良いのだ。
アトリエの他の奴らは新しく開店したラーメン屋に行ったらしい。美沙子も杉山も。ところが、ガラスの自動ドアを開けて入ってきた二人連れの女性は、少し前から通って来ている社会人のコンビだ。どうして昼間に時間の都合がつくのか解らないが、とにかく熱心に通って来るので、余計な詮索はしないでいるのだが、一人は密かにインド人と渾名するほど黒くてエキゾチックな女だ。
四人掛のテーブル席に一人で座っていた。他の席は空いていない。案の定、二人は目ざとく見つけて微笑みながら近づいて来た。
「ラーメン屋じゃなかったんですか?」満席だったので、知ってる人が居てラッキーだとの思いが滲み出て、自然と喜びの顔が輝く。こちらも見ず知らずの人と相席になるより、見知った二人との相席の方が嬉しい。
「どうぞどうぞ」と席を進め、カレー皿を手前に引いてテーブルを空けた。
「建築関係の仕事ですか?」唐突だが訊いてみた。設計士はデッサンを勉強し仕事に生かすらしい。外観や室内の雰囲気を伝える為らしいが、どこまでの技術をマスターするのかは分からない。
「デザインをやりたくて……」エキゾチックなインド人が答え、隣の女と顔を見合わせ目配せをする。アイコンタクトで通じる相手なんてそうそうは作れない。どうゆう関係なのかと、探りを入れようかと隣の女を見たが、顎なしが注文を取りに来て中断した。二人とも同じカレーを注文したようで、メニューを閉じ、一仕事終えたような表情を見せて息を吐いた。
「服飾デザインですか?」質問は核心を突いたようで、二人とも頷いた。アトリエの女の子達は、ほぼ全てジーンズにTシャツ姿、スカートなんて見たこともない。汚れるから当たり前なんだが、二人はタイトスカートにジャケット、下には綿Tシャツではなくボタンの付いたワイシャツを着ている。その柄が幾何学模様で、まさかのモンドリアン。ニューヨークの市街地が赤や青、黄色や水色の四角の大小で表され、それが踊るように配置されている。そして、まるで屈託がない。ノーストレスだ。
「スタイル画を描きたいんです」スプーンに掬ったカレーを持ったままエキゾチックな女が真っ直ぐにこちらを向いて言う。見開いた目が大きく睫毛も黒くて長い。瞳の黒さが、よりいっそう白目を際立たせ、動けば、白目の面積が広がり、その球体が本性を現す。瞼を閉じれば長い睫毛が、まるでカメラのシャッターのように"カシャッ"と、音がするように閉じる。
目を反らすことなく見惚れていたので訝しく思ったのか、考える素振りを見せて視線を外し、スプーンを口に運び食事を始めた。
確かに肌は黒い。が、褐色が濃いと言った方が良いのではないか。肌の木目は細かく、よく見ると艶々と光っていて、内側から盛り上るような肉感がある。やはりマイヨールの彫刻と、ラーマーヤナとかシバ神とかのインド彫刻を連想してしまい、ハーフなのかと疑う気持ちが湧いてくるが、日本人でも隔世遺伝なのか、とんでもなく日本人離れした容姿をした奴もいる。そんな一人かも知れないので質問は止めにして先に店を出た。二人はゆっくり食べている。
アトリエに戻ったが、ラーメン屋に行った連中はまだ帰っていない。室内には数人いたが、休憩中で描いてる者はいない。古株の野村が話し掛けて来た。杉山と同じ高校の一年先輩で、このアトリエの発起人のメンバーだとの噂がある。アトリエの始まりは美大の大学院生が仕事場にと始めたらしいのだが、教え子の生徒も加わり、大きくなったらしい。その時代からの繋がりらしいが、詳しい話は知らないし、知りたくもない。興味が無いのだ。
「この頃、休みが多いね」野村が、まるで教師か塾長のような口振りで言う。まあ、正面切っての話ではなく、横に並んで磊落さを装った風なんだが、今まではこんな風ではなかった。会話など無かったのだ。いい加減な野郎だと思われていたのは分かっていた。勢力図から言えば、美術部のある高校は県内に一校しかなく、その謂わば美術エリートが中心をなし、その他が周りを囲んでいる状態だ。だから野村は塾長と言っても間違いでは無いのかも知れないが、才能は無いと個人的には思っている。そんな態度が伝わっていて、嫌われているのは覚悟の上なのだが、下宿のスケッチやデッサンや油絵の作品群を見られてからは態度が百八十度変わったのだ。
その日、銭湯に行き、飯屋で晩飯を食べて帰ると、下宿に野村が来ていて、勝手に作品を引っ張り出して観ていた。作品は、近くに美術研究所を見つけて描いている裸婦のクロッキーが殆んどで、アトリエを休んだ日はそこで描いていたのだ。生の肉体を描くのは難しいとか易しいとかの問題でも、良いとか悪いとかの問題でもなく、描く意欲と、感情をどれだけ筆先に乗せられるかだと思う。石膏デッサンより、より感覚が問題になる。そんな事に気付き始めて夢中になって描いた作品だった。油絵も少しあったが、完成した作品はなく、小さい物ばかりだ。その中の肘から先の手を描いた作品を持ち上げたまま、野村が口を開いた。
「良いじゃないか」
完成もしていない3号の小さな絵のどこが良いのか、ふと後ろを見るとデッサン帳やバラのクロッキーが散らばっている、それを見たに違いない、ただ、勝手に見たので誤魔化そうとして油絵を誉めたのだろう。別に見られても構わないが、見られるなら他の、才能ある輩に見られて、出来るなら嫉妬されたい。そんな淡い期待に、小さな炎に、野村は水を掛ける存在なんだと自覚し、謙譲な態度をして欲しいと思う訳だ。
「この頃、やる気がなくなったの?」首を後ろに反らし、遠目になって野村が言う。
「千田さんが心配してたぞ」
どうやら言われて来たらしい。疑問は解けた。
「クロッキーが面白くなっちゃって……」答えたが、石膏デッサンに飽きたのも事実だ。アトリエのデッサンは受験の為だが、クロッキーは自分の興味と技術の向上の為だ。満足感もあり、巧くなってからは自惚れや自慢も混じる。油絵の性質や作用をマスターし、技術を納めるにはこの先何年も掛かるだろうが、鉛筆一本で描くクロッキーは素質や才能に負う所が多いと考え、現在の画力を問える物だと思っている。その評価を問いたいが、それはオレより画力のずっと高い人でなければならない筈で、野村ではなかった。
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