第4話 旅立ち
おれの魔王討伐への参加は一応軍事機密ということになっているので、出立は早朝にひっそりと行われることになっていた。
それ自体に特段不満はない。
色ボケの勇者がしていたような盛大なパレードなどに興味はないし、民衆の不安や混乱を抑えるのは政治家の仕事だ。おれが出立した後に上手くやるのだろう。
地味な旅装に身を包んだおれは愛馬であるシエルと、昨日アンナが用意してくれた荷物を背負った荷馬の手綱を引き、十年間暮らした騎士団会館をこそこそと出て行こうとしていた。
会館の周囲は堀が巡らせてあり、必要な時だけ跳ね橋が下ろされる。まだ空が白み始めたばかりの時間だが、当番の騎士が門衛室に詰めているはずだ。
正門が間近に迫ると、門衛当番の騎士が姿を現した。
「バルトロメウス卿」
呼びかけに対し、こちらも軽く目礼をして応じる。
「レナード卿。早朝にすまない」
「何、構わんさ。これも役目だ」
レナードが肩を竦めて薄く笑った。
「橋を下ろしてもらえるかな」
「承った」
頷いたレナードは跳ね橋を下ろすしかけを操作するため、踵を返して門衛室へ戻っていく。
片足を引き摺りながら進む彼の後ろ姿を、おれはシエルの背を撫でながらぼんやりを見守る。
レナードは騎士団の中でも最年長の部類に入る壮年の騎士だ。すでに外へ戦いに出ることはないが、こうして内向きの仕事を請け負っている。
むろん、それを理由にレナードを軽んずるような者は騎士団にはいない。
彼は騎士団の英雄であり、生ける伝説だ。
ほんの少年の頃から数々の武勲を打ち立ててきたレナードとおれが初めて出会ったのは十年前。故郷レーヴェレンツが滅ぼされた時のことだ。オルゴランド公国からの援軍として騎士たちを率いてきたレナードは数多くの魔族を討ち取り、レーヴェレンツの領民の命を救ってくれたが、その代償として片足の自由を失った。
おれが回想にふけっている間に橋が下ろされ、レナードが戻ってきていた。
無言で馬に跨ると、再びレナードへ向けて目礼する。
「武運を」
「感謝する」
騎士同士、多くの言葉はいらない。
愛馬シエルの首を撫でて促すと、賢い彼女は自ら前進を始めた。
蹄が跳ね橋を叩く音を聞きながら、何とも言えない感慨にふける。
この騎士団で過ごすようになって十年。長いようであっという間だったが、確かにこの場所はおれにとって第二の故郷であった。
薄明の中、まだ起き始めたばかりの街を静かに通り過ぎていく。
世界が魔王の脅威にさらされているとはいえ、直接魔王軍の侵攻を受けたことがないオルゴランド公国は比較的平和だ。不安や恐怖に怯えつつも、人々は普段通りの穏やかな暮らしを営んでいる。
願わくばこの地が故郷レーヴェレンツのようにならなければいいのだが。
そんなことを考えながらシエルを進めていると、ふと路地のわきにぽつんと立っている若い女性の姿を見つけた。
シエルに軽く合図し、その女性へ近寄る。相手のほうもこちらに気付き、最初は訝しげな表情を浮かべていたが、馬上にいるのがおれと分かると安心したように顔を綻ばせた。
なじみの街娼リタのあからさまに安堵した様子を見ておれは申し訳ない気持ちになった。
「騎士様だったんだね。あたし、てっきり非番の警吏の誰かかと思っちゃった」
さすがに非番の日の早朝に街娼を取り締まるほど熱心な警吏はめったにいないと思うが、過去にそういうことがあったのかもしれない。彼女には悪いことをしてしまった。
「すまない。先に声をかければよかったな。おはよう、リタ。こんな時間まで仕事か?」
「うん、まあ……。今夜は、あ、もう昨夜だね、お客さんも少なかったし。でも空も明るくなってきちゃったから、もう店じまいかな。あはは」
屈託なく笑うリタだが、顔には疲れが見て取れる。
それはそうだろう。男のおれには想像も及ばないが、街娼は決して楽な仕事ではない。
「騎士様は? こんな時間にお出かけ?」
成熟した外見に反してリタの口調は幼い。
十分な教育もなく、境遇のため早くに大人にならざるを得なかった彼女の歪さを見ているようで、少し悲しい気持ちになる。
兵士だったリタの父親は四年前に魔物に殺されたそうだ。母親は元からおらず、引き取り手もなかった彼女はその時点で大人になることを決断した。
以来、リタはこの街で一人で生きている。
「ねえ、もし時間があるんだったらさ、あたしを抱いて欲しいな。今日はそんなに汚れてないから騎士様でも大丈夫だよ」
貴族階級であっても娼婦を抱く者は多い。それこそ富裕層御用達の高級娼婦などという存在もあるし、そこまで気取ることなく普通の娼館へ出入りする者も少なくない。
しかし、街娼を抱こうとする貴族はよほどのスキモノか差し迫った理由でもない限り、めったにいないだろう。
リタの言葉はそうした外聞を気にしてのものだ。
「何ならお代は半分でもいいよ。本当は騎士様なら、えへへ、お代なんかなくたっていいんだけど、一応お仕事だからさ。ね?」
そう、彼女は外聞を気にしつつも知り合いの騎士相手に仕事をして日銭を稼ごうとしている。
こんな風に信じられたら、どんなにか気持ちが楽だっただろうか。
「リタ。悪いがお前を抱いてやる時間はないんだ」
「そう……残念。それじゃお出かけから帰ってきてからならどう?」
おれの言葉に顔を曇らせたリタだったが、すぐにまた笑顔を浮かべて提案する。
だが、おれは非情にも首を横に振って答えた。
「これから行くのはただのお出かけじゃないんだよ。遠い所へ行かないといけないんだ。この街に再び帰ってこられるかどうかも分からない」
一瞬、リタは何を言われたのか理解できなかったようだ。だが、呆然とした表情が徐々に絶望に染まっていくにつれ、おれの心は引き裂かれるように痛んだ。
「そ、そう。騎士様もお仕事なの?」
「ああ」
「そっか。お仕事ならしょうがないね。あはは、そっかぁ……」
旧レーヴェレンツの領民たちのように泣きはしないものの、リタがショックを受けているのは明らかだった。だが、おれにはどうしてやることもできない。
「すまないな。せめて最後に一緒に飯を食べられたらよかったんだが」
たまに街で顔を合わせても体を重ねるでもなく、一緒に食事をとるだけという奇妙な関係。
おれとこの娘の間にあるのはただそれだけだ。
友人でも恋人でもなく、この関係を何と呼んでいいのかおれにはよく分からない。
理想を言えば彼女を養女にでもして庇護してやれればよかったのだが、立場上それも難しかった。
結果、中途半端な状態のまま彼女を見捨てようとしている。
我ながら最悪だ。
自分自身への憤りに我を忘れたおれは、衝動的な行動に出た。
胸元から首飾りを引っ張り出すと、鎖を引き千切ってそのままリタへ投げ渡したのだ。
かつて当主を務めていたヒルシュベルガー侯爵家の紋章が刻まれた指輪が、細い鎖に結び付けられている。
「東の貴族区と商人区の境目辺りに法衣貴族レーマン男爵家の屋敷がある。特徴的な赤屋根だからすぐに見たら分かるはずだ。そこへ行って門番にその指輪を見せて、側室のザンドラ夫人に取り次いでもらえ」
「あ、あの、騎士様?」
戸惑うリタを無視して、必要なことだけ一方的に伝える。
「いいな。レーマン男爵家に出向いてその指輪を見せるんだ。仕事で疲れているだろうが、できれば今日中、それも午前中の内に訪問したほうがいい。体を清めて着替えるのも忘れるな。不必要に華美でなく、胸元が開いていない服装だ。お前が休みの日に着ているような。分かるな?」
上半分を惜しげもなく露出させた豊かな胸の盛り上がりを手のひらで押さえながら、リタはこくこくと頷いた。
「心配しなくてもその指輪を見せればザンドラ夫人がすべてよいようにしてくれる」
リタの頭に自分の武骨な手を乗せ、小さな妹にしてやるように撫でる。
「達者でな、リタ」
指先がこめかみから頬をなぞり、やがて離れた。
それを追いかけて手を伸ばしたリタは一度おれの指を掴み取り、しかし馬の歩みについて行けずすぐに手放した。
「騎士様! 騎士様……どうか気を付けて!」
呼びかける声に振り返らないまま手を振って応じる。
おれの気持ちを汲み取って歩みを進めるシエルが首を巡らせてちらりとこちらを見た。彼女の純粋な眼差しにおれは小さくため息を吐き出した。
「……そんな目で見るなよ。確かにつまらん感傷だけどな」
馬上で毅然と胸を張りながら独り言ちる。
かつておれには妹がいた。十二を数える前に流行り病で死んでしまったが、彼女は家族や親しい友人からリタという愛称で呼ばれていた。
もちろん、公都で街娼に身をやつしているリタとおれの妹とはまったくの無関係だ。顔も雰囲気もまるで似ていない。
だからおれのこの気持ちは、ただのつまらない感傷に過ぎないのだ。
ザンドラはおれの意図を汲んで、他のレーヴェレンツ難民と同じようにリタに対して便宜を図ってくれるだろう。
大公殿下や騎士団長閣下は怒るだろうが、知ったことじゃない。どうせもうこの街へ戻ってくることはないのだから。
十年間慣れ親しんだこの街との心残りもこれですべて片付いた。
ここから先は行けるところまで行って死ぬだけだ。
勇壮な騎士団の進軍マーチがどこからか聞こえてきた。
太陽もまだ上り始めたばかりだというのにご苦労なことだと思わないか。
どこぞの騎士団長殿が決まって同じ場所で半音トチるところまでいつも通りだ。
まあ、悪くない旅立ちだな。
……魔王を倒さない限り生涯スケベなことができない以外は。
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