君のゆめを見ない

山本Q太郎@LaLaLabooks

君のゆめを見ない

 朝の9時から打ち合わせがあった。普段であれば寝る時間だ。起きられる自信が無かったので、朝まで仕事をしてそのまま寝ずに打ち合わせの場所まで向かうことにした。

 朝早くからの打合せは気が進まない。徹夜が続き疲れていた。何より満員の通勤電車に乗らなければいけない。人で溢れた車両に無理やり乗り込まなければいけないし、電車内で人に揉まれ身動きの取れないまま目的の駅まで我慢しなければいけない。今の季節は汗をかいた肌同士がぬるりと触れ合う。目の前で香水が汗に溶け体臭と混ざり合い耐えられない臭いを発する。そんな不快な状況を誰もが限界まで我慢しイライラしている。満員電車に乗るのが嫌でフリーになったわけではないが、勤めていた時のように毎日の満員電車からは逃れられたのはありがたい。けれど乗らなければいけない時は、慣れない分だけストレスが増す。

 駅のホームはあまりにも暑く、いよいよ電車に乗る頃には意識が朦朧としていた。扉が開き電車に乗り込む。スーツを着ているのに冷や汗が出る。空気は湿気ってジメジメしている。息苦しいが薄ら寒い。自律神経がおかしくなっている。寝ていないのだから無理もない。外の暑さとクーラーで冷やされた車内の気温差に体が混乱する。嫌な汗をかきながら何駅か過ぎて気がついた。この車両には乗客が誰も乗っていない。

 驚いて周りを見渡すが誰もいない。立っている人はもちろん座席に誰も座っていない。回送電車か何かに乗ってしまったのかと思ったが、こんな通勤時間の真っ只中に客を乗せないで電車を走らせるだろうか。仮に回送電車だとしても駅のホームでドアは開かない。乗りたくても乗れないだろう。

 状況がわからずそわそわしているとどこかの駅に着いた。電車が止まり扉が開く。不快な熱気が入り込んでくる。乗客は誰も乗ってこない。ドアから一歩外に出て外を見るとホームはどこも人で溢れている。ただ、目の前のホームには人が誰も並んでいない。

ドアが閉まり電車が走りだす。やはり電車の中に乗客は誰もいない。

 車掌のアナウンスが流れた。

 「急行渋谷行きです。ただいまの時間帯、真ん中5号車と6号車が女性専用車両、最後尾10号車が幽霊専用車両となっております。お客様のご協力をお願い致します」

 慌てて車内を見回すとドアの窓に見慣れない注意書きが貼ってあった。

 “平日の朝 8:00〜10:00の間、夕方 17:30〜19:00の間は幽霊専用車両となります”

 幽霊専用車両って何だ。


 今日のお客は知人から紹介してもらった初めての会社だったが打ち合わせは順調に進んだ。

 事務所兼自宅に戻り仕事の段取りを整理する。納品までのワークを見積もり仮のスケジュールを立てた。特に問題なさそうだ。いますぐ先方に確認のメールを投げてもいいが、ちゃんと寝てから明日もう一度確認してメールを送ることにした。

 やるべきことを片づけると、朝に乗った幽霊専用車両の事を思い出した。何の気なしにネットで“幽霊専用車両”を検索してみる。冗談ではないだろうが、インターネットで調べてみたら本当に運用されていた。もちろん幽霊専用車両は幽霊が利用する車両だろう。この場合の“幽霊”とは何を指すのだろうか。すぐに思い浮かぶのは幽霊部員という言葉だ。学校の部活などに在籍しているが活動していない人のことで実際の幽霊ではない。あまり気にしてなかったけれど幽霊が新しい意味で使われるようになったのだろうか。今度は“幽霊”についてウィキペディアや新聞社の過去の記事をインターネットで調べてみた。

 やはり“幽霊”とはあの幽霊のことだった。死んだ人がこの世に強い未練があるとあの世に行けず化けて出ると言われるアレである。僕が知っている幽霊は怪談やホラー映画に出てくるもので、あくまでもフィクション。想像の産物でしかないものだ。それがいつの間にか実際に存在することになっている。「信じる人にとってはいる」という言葉遊びのような話ではないらしい。

 ある新聞の過去アーカイブで日本は幽霊の人権問題に関してむしろ後進国であると国連から勧告を受けたという記事まであった。


 幽霊の存在は世の中で当たり前に認識されているようだ。法律で幽霊の人格の権利が定められてもいる。

 2014年の第135回通常国会で“非実在人格の尊重に関する法案”が当時の与党より提出。欧米では既に多くの国で法令化されていたため、日本でも何事も無く参院両審議を通過。翌2015年3月より施行されたとある。関連して、商法や刑法などが審議に入っているが、幽霊の商業活動や幽霊が取り憑くことによる事件の扱いなど未だ審議の最中である事柄は多い。

 幽霊は物質的に実在しないが法的に人格を有するということが、民法により非実在人格という言い方で規定されている。法人格を元に起案されているが、それによって幽霊の権利が明確になるかというと、今までとそれほど違いはないように思える。それは、その存在自体は尊重するが、人が有するのと同等の権利と義務をさほど必要としないためだろう。幽霊には人格はあるが選挙権も被選挙権も認められていない。というか、現世に対しての積極的な関与意識が希薄なため幽霊側からの選挙権の要求がないので参政権は考慮されない。などなど。

 世事に疎いとは思っていたが、これほど世の中の事を知らないとは思わなかった。


 事の起こりは“PIPPI©(ピッピィ)”(PIPPIとは欧米で圧倒的ユーザー数を誇るメッセージ共有サービスである)での投稿だったらしい。

 2008年、オランダのアムステルダムに住むある女性のPIPPIメッセージ。


Massage from : Miranda(仮名)

# 今日はハンサムな幽霊とデートなの。


 という内容で、それ自体は当時話題になっていた霊媒師オダ=メイ・ブラウンとその著書「闇夜の散歩は危険がいっぱい」を揶揄したジョークであった。一人でつまらないという意味になる。Miranda(仮名)の友人は「霊媒師を雇ったほうがいいわよ」とリプライ。この話題はいつしか、彼女の友人たちの間で内輪のジョークとして定着していった。ところがある日、幽霊からと称されたメッセージが友人たちのグループメッセージに紛れ込むようになった。


Massage from : ghost

# いつもの場所で待ってるよ


 というメッセージが投稿された。Miranda(仮名)の仲間内でよく出来たジョークだと歓迎された。Miranda(仮名)たちに届く幽霊に成りすましたメッセージは幾度かのやり取りを経てその幽霊の軽妙なユーモアが話題になり、インターネットのニュースサイトに紹介された。


Massage from : Miranda(仮名)

# 好きな歌はあるかしら、鎮魂歌?


Massage from : ghost

# IMAGINEを歌ってくれ。Jhonがうるさいんだ。


 Miranda(仮名)の謎に包まれたミステリアスな魅力もあり、「幽霊とメッセージする美人霊媒師」としてインターネットのニュースサイトで大きな話題を呼んだ。Miranda(仮名)と“Massage from : ghost”はインターネットの世界では有名人となった。

 そんな中、イタズラ心なのか幽霊に扮している人物の正体を暴こうとする自称ハッカーでハンドルネーム<playboy217>という人物が現れた。<playboy217>は渦中の“Massage from : ghost”の正体を暴いてやると意気込み注目を集めた。<playboy217>はまたハッカーに「俺より先に“Massage from : ghost”の正体を暴いた奴に賞金を出す」と挑発した。ハッカー達は<playboy217>自身が“Massage from : ghost”のなりすましであるという可能性も含めてハッキング対象の痕跡をネットワーク上に辿った。<playboy217>の賞金発表から3週間の間に “Massage from : ghost”の正体が世界中のハッカー達から21万3千回以上報告され21万3千回以上否定された。“Massage from : ghost”の正体に関しての憶測も、種々様々。宇宙人説、米軍のAI説、宇宙の創造主説などなど、その数は521種類以上が確認されている。

 2ヶ月あまり経った頃、“Massage from : ghost”の正体を探っていた人々が同じことを言い始めた。メッセージに付随する痕跡をネットワーク上で辿った発信元がどの報告でもほぼ同じ場所、イギリスアーカソー州のある住所を示していた。その情報を聞いた無鉄砲な人間が早速発信元の住所に殺到した。だがそこは我先にと集まった野次馬をあざ笑うように電話線すら引かれていない廃屋があるだけだった。その事はインターネット上で報告されたが誰が調べてもネットワークの接続先は廃屋を示していた。世間はそれをよく出来たジョークと受け止めた。<playboy217>にいっぱい担がれたのだ。真相はどうであれ大いに楽しんだ。真に受けて大騒ぎしたものもいるが、事の真偽を詮索するのはマナー違反で、却って興ざめであるという雰囲気で幕が下りた。

 だがその騒動の別な側面に反応した人々がいた。いわゆるオカルティストたちだ。聖書にある死者が帰ってくる説話と終末思想を結びつけパニックを起こした。各地でデモや集会を行い死者が帰ってきたと喧伝した。“PIPPI©(ピッピィ)”を提供するmodedevice社はようやくMassage from : ghostの発信ログを検証し調査結果を公表すると発表した。だが約束の期日を2週間ほど過ぎても発信ログの調査結果が公表される気配はなかった。

 幽霊騒動はインターネットの中だけの話題だったが、話題の目新しさにマスメディアが飛びついたためコンピューターとは縁のない人々にも知れ渡った。またほとんどのマスメディアが「世界の終わりを迎えるオカルティストたち」という見出しで報道したため、カルト宗教が原因であるとの認識が広まった。

 “PIPPI©(ピッピィ)”サービスはオカルトな事件の騒動の元にみられつつある。慌てたmodedevice社は自体の収集に動いた。


 以前からある噂についての真相をお伝えします。個人情報に配慮し具体的な場所は公表できませんが、 “Massage from : ghost”と言われるユーザーはイギリス、ロンドンのある場所からアクセスがあることが確認されております。故に“Massage from : ghost”は幽霊などではなく現実に存在する事がお分かりになると思います。また全てのユーザーに対して弊社のサービスが大変に話題になりユーモアのある話題を提供してくれた事に感謝します。“PIPPI©(ピッピィ)”を楽しんでくれてありがとう。しかし、ユーモアを解さないようで申し訳ないが、弊社サービスは今後も幽霊と通信する事ありません。


 というメッセージが伝えられた。


 だが、騒動は治まらなかった。“PIPPI©(ピッピィ)”サービスではないメッセージアプリケーションやEメールで幽霊とメッセージのやり取りをしたという報告がニュースサイトや個人発信のウェブサイトに投稿され始めた。出版社や新聞社、放送局にも幽霊とメッセージをやとりした証拠写真やパソコンのキャプチャー画像が届けられた。

 「幽霊とのメッセージ」という話題は瞬く間にオカルトブームを巻き起こした。インターネット上ではおびただしい量の幽霊接触の報告や体験談がウェブサイトにアップされた。幽霊とメッセージをやり取りした事例は続々とアップされ続け内容も多種多様だった。メッセージのやり取りをする相手はすでに死んだ親族の報告例が多かったが過去の偉人からすでに死刑を執行されている犯罪者、はたまた、実在すら怪しまれる伝説上の人物まで真偽の怪しいものも多数あった。インターネットニュースが取り上げたものをマスメディアも追いかけて報道した。ニュースは幽霊の話題で占められた。イエスキリストも世界各地に降臨している。この世の堕落を嘆いてのことだそうだ。


 人々は至る所に幽霊が徘徊しているイメージに取り憑かれた。実際に幽霊を見たという人々も多くいた。強盗殺人の目撃者が犯人は幽霊だったと証言する事件が起こったところで、“PIPPI©(ピッピィ)”のサービス提供元であるmodedevice社が公式発表を行った。

 modedevice社カスタムサービスチーフマネージャー代理から「“PIPPI©(ピッピィ)”で報告された幽霊からのメッセージは実際には身元を確認する事はできなかった。しかし、実害がない事と心理的な問題であると判断し混乱を避けるために適当と思える発表をした。そしてそれは、政府機関から指示されたものである」と伝えられた。


 時期を同じくして米国にてアメリカ合衆国中央情報局(以下CIA)から衝撃的な発表があった。それは幽霊の存在を全面的に肯定する内容だった。


# Archive Documnet 2014/07/08 : G.yungblood

 CIA報道官のジェニファー・ヤングラッド氏の発表によるとCIAは設立当初から世界中のあらゆる事件や事象に関心を持ってきたが、霊的な存在に対しても過去50年以上に渡り研究を行って来たと認めた。そして、電子機器によるコミュニケーション技術の開発に成功。霊的な存在とコミュニケーションを進め研究は目覚しい成果を上げた。またその研究の結果、霊的な存在に危険はない事が証明されたという。霊的事象の謎は解明されつつあり我々にコントロールできない事は限りなく少ない。


 ということだった。

 なぜ僕はこんな事態に気づかなかったのだろう。いつも忙しかったせいだろうか。思い出せない。まるでホラー映画の設定みたいだ。

 ウェブのニュースアーカイヴによると、その後も具体的な施策が行われた。

  CIAは「より良き世界」という声明を発表し、幽霊との共存の方法を提示した。


# Archive Documnet 2014/07/08 : G.yungblood

 幽霊と同じ世界に生きる事は犬やネコと暮らすのと同じ危険度があるが、言い換えればその程度の危険しかない。皮肉なことだが、現在では銃を持った隣人の方がより差し迫った危険である。また、過去に創作された 怪談やホラー映画は全て誇張されたものであり現実とは乖離している。けっして現実とイマジネーションの世界を混同せず理性的な態度をとるよう協力をお願いしたい。

 また、もっとも当たり前の事実だが、我々は今まで認識することができなかっただけで、実際には幽霊と何千年ものあいだ共に暮らしてきた。今まで幽霊の存在が世界中の人々にとって安全保障の問題にならなかったのであれば、これからも問題になる事はない。問題が発生しても、過去に起きた問題程度で人々の安全な生活を脅かすほどのものではないと発表した。

 我々は、過去に存在した全人類と共により良き世界に暮らすことが可能である。


 僕は今とんでもなく驚いているが、当時でも相当なインパクトのあるニュースだったろう。アメリカの公的機関が幽霊はいると認めたのだ。


# Archive Documnet 2014/07/08 : G.yungblood

 今後は我々の経験を世界中に提供してゆく計画を今この時から開始します。

 元アメリカ超能力部隊創設者であり、現相互存在証明研究機構の所長リン・スキップ・キャシディ氏が指導するスピリチュアル・カウンセラーが各地方都市に派遣され動揺の解決に当たります。不安に思っている市民達の相談にのり、時には幽霊との仲介を行い幽霊の存在が特別なことではないことを納得のゆくまで説明することができます。


 記者会見場所は静まり質問をする人もいなかったそうだ。

 アメリカ国内でのスピリチュアル・カウンセラーによる説明会はすぐに行われたようである。

 また、テレビや新聞等のマスメディアからはいかにもインチキ臭い霊能者や超能力者などの有象無象が消え、代わりにアメリカ政府公認のスピリチュアル・カウンセラーが出演しマスメディアでの説明を行った。

 リン・スキップ・キャシディ氏はまた、EU諸国はもとより要請があればどこにでも伺う。協力は惜しまないと全世界にメッセージを送った。

 アメリカ政府の素早い対応のおかげで世紀末騒動や幽霊騒ぎは落ち着き、社会的な混乱は静まっていった。


 過去にこんなことがあったなんて全く知らなかった。

 今まで何気なく眺めていただけのウェブサイトでもよく見てみると当たり前のように幽霊が存在している。最新映画では幽霊が主役の物もあるようだ。レストランでも幽霊席というのが設けられているようだし、幽霊専門のブティックもあるようだ。

 幽霊向けに商売をして儲かるのだろうか。誰が金を払うのか。幽霊向けのサービスがあると言う事は、ちゃんと何らかの支払いをしているのだろう。それとも、店側も幽霊がやっているとでも言うのだろうか。


 人と幽霊の両方が対象のサービスもある。まさかとは思ったが、人と幽霊のマッチングサービス。いわゆる出会い系のサービスもあった。昔で言うイタコや降霊術のような商売もあるようだ。今では降霊を行うのはスピリチュアル代理士というようで、国が管理しているらしい。国家資格が必要な職業のようだ。日本スピリチュアル協会のオンライン窓口から相談の予約が出来るようなのですぐに申し込んだ。会場は最寄りの地方自治体窓口になるらしい。

 本当に死んだ人と会えるのだろうか。降霊術や口寄せなんかは子供の頃夏になるとテレビではよくやっていた気がする。だがおどろおどろしいのは雰囲気だけで、内容はいかにも嘘っぽかった。


 駅から商店街を抜け北沢区総合庁舎についた。区役所の中は思っていた以上に広大で、通路に順番待ちの人でいっぱいだ。受け付けカンターでも区役所の人が慌ただしく行き交っており、物を尋ねる雰囲気ではなかった。どうしようか見回すと館内の案内板を見つけることができた。フロアは八階まであり各部署の窓口が細かく書いてある。区役所など滅多に来ることがないのに加えて、区役所のあらゆる機能が集約されており目的の場所を探す事ができなかった。かわりにフロア地図の隅に小さく案内カウンターという表記が見つけた。

 案内カウンターに行くと不機嫌そうな年配の女性が長机の前に座っている。思い切って日本スピリチュアル代理士に予約がある事を告げると、「かしこまりました」と言い一枚の紙を差し出した。紙切れには館内の地図が印刷されており、矢印が[《何でも相談センター》受け付け窓口]まで伸びている。

 「《何でも相談センター》が、幽霊関係の受け付けですか」と不安になり尋ねた。受付のおばさんは不機嫌そうな表情は崩さず「近年では幽霊という言葉は差別用語に該当するのではないかと非実在者の人権の観点から問題視されており、適切な表現が決まるまでは、《何でも相談センター》と呼ばれています」と教えてくれた。

 とにかく地図を見ながら階段を上り、《何でも相談センター》受け付け窓口を探した。一階は大変混雑していたが、二階に上がったとたん人気がなくなった。どうやら、住民票の発行や受け取りだけが忙しいらしい。

 納税相談窓口を過ぎ、消費者センター出張相談窓口を過ぎ、事故過失対策相談窓口を過ぎた。事故過失対策相談窓口の隣りが《何でも相談センター》受付窓口のはずだが見当たらない。何々窓口と書かれたプレートや案内板は所狭しと並んでいるのだが、肝心の《何でも相談センター》という文字が見当たらない。

 結局一回の案内センターまで戻り、案内センターのおばさんに付き添ってもらって《何でも相談センター》までたどり着くことができた。《何でも相談センター》受付は他の課とは違いプリント用紙に《何でも相談センター》と打ち出したA4の紙をセロテープで長机に貼り付けただけのものだった。


 長机の前に受付の女性が座っている。髪を後ろに束ね白いブラウスを着た若い女の子だった。今時の女子大生のような若くて可愛い人だった。あんなに魅力的ならもっといい仕事がありそうなのに。いやしかし、今のご時世、公務員は十分にいい就職先かもしれない。

 オンライン窓口で申し込んだ際にプリントアウトした予約票を見せながら《何でも相談センター》に用がある場合はどうすればいいかと尋ねた。

 「《何でも相談センター》はこちらになります。お呼び致しますのでそちらのイスで少々お待ち下さい」と予約票を持ってどこかへ行ってしまった。

 これから何が起こるのか。プライベートなことを根ほり葉ほり聞かれるのではないだろうか。今更ながら不安になってきた。腹を決めかねずにいると名前を呼ばれた。


 「本日はお越しいただきありがとうございます。それでは、面談室にご案内致します」と先程の若い女性に呼ばれ会議室のような所に案内された。どこで窓口を知ったのかとか、今は出来たばかりで名前も定まらず、分かりづらくてすみませんと軽い世間話をしながら案内をしてくれた。部屋に入る椅子を勧められた。女性は部屋の奥から大きな鞄を運んでテーブルを挟んだ向かいに立ち、「ご紹介が遅れました。今回担当させて頂きます日本スピリチュアル代理士協会から派遣された武藤恵利子と申します。本日はよろしくお願い致します」と言って名刺を差し出した。

 ただの受付かと思ったらこの人が霊媒師だったのか。

 こういう時に何と言って良いかわからなかったので「よろしくお願いします」とだけ応えた。

 武藤さんは軽く頭を下げ書類に目を落とした。

 「本日の内容は、オンライン窓口の予約の際にご記入いただきました通り、事故死された御子息様のご降霊でよろしいですか?」と事務的な確認に入った。

 僕は思わず息子の事を思い出し胸が詰まってしまった。


 そう、僕には5年前交通事故で死んでしまった息子がいた。その息子に一言だけ謝りたかったのだ。今まで心の奥で張り詰めていた気持ちが突然ぐずぐずと柔らかくなり胸から競り上がってきた。涙があふれ鼻水が止まらない。こんなに年下の女の子の前でいい大人の男が感情を見せるのが恥ずかしい。今すぐ冷静にならねばと頭ではわかっていたが体は言うことを聞かなかった。情けないとは思いながらも、嗚咽をあげ涙を拭き鼻をすすり続けていた。


 武藤さんはあくまでも優しい笑顔を浮かべたままで待ってくれている。それがまた情けない。かといってどうすることもできず泣き止むまでは泣いていた。


 気持ちが落ち着き武藤さんに依頼内容を伝えた。


 「そうです、息子は私が目を離した隙に車道に出てしまった。名前は和明と言います」ゆっくりと話した。


 「和明の和は僕の好きなサッカー選手からもらいました。サッカーが好きなので息子にもサッカーが上手くなって欲しいと思いました」

 「だから、大人用のちゃんとしたサッカーボールを買ってあげたのです」

 それから先は何を言ったのかよくわからない、まだ7歳だった和明の事だけが思い出された。当時結婚していた妻は事故のショックで実家に帰ったきり戻ってこないまま、離婚届だけが送られてきた。妻とは最後まで顔を合わせぬまま離婚に同意した。

 和明は事故があったあの日あの時。サッカーボールを追いかけて道路に飛び出していった。僕がそんなものを買ってあげなければ良かったのに。

 すまないと和明に謝りたかった。


 顔を上げると机の上にはノートパソコンが開かれていた。


 他には「初めてのすぐわかる非実在人格対話プログラム」と書かれたパンフレット。「みんなの非実在人格対話プログラム活用術」という小冊子。北沢区年間行事案内のチラシ。北沢区施設ガイド。など。


 武藤さんは僕が落ち着くのを待っていたようで顔を上げるとゆっくりと説明を始めた。

 「これからの手順を説明させて頂きます。よろしいですか」と優しく言った。

 何があるのか想像もつかないのでうなずくしかない。

 「といっても難しいことはありません。非実在人格対話プログラムですが、いわゆる降霊は全てプログラム化されており、始まりから終わりまで自動で行われます」とパンフレットの図解を示しながら説明し始めた。

 「対話プログラムは人体の発している波長を受信するのみなので、痛みなどは一切ありません。稀に、気分が著しく昂揚されたため具合を悪くされる方がおりますが、その場合はすぐにプログラムを中止いたします。対話プログラムは全部で5ステップあり、順に進行してゆきます。お客様のステータスは常にモニターされております。ステップごとにチェックが行われており異常が感知された場合は自動でプログラムは停止します。また、プログラム進行中でも気分が悪くなられた場合はその旨お伝えください。その他にも何かありました場合にはすぐに中止可能です。今までのところで何かご質問はありますか」と優しく言ってくれた。

 大丈夫ですと言うと優しく微笑みパンフレットをめくる。

 「まずはこちらのソケットに中指を入れて頂き、目を閉じていただきますと共感プログラムが作動します、こちらが……」

 武藤さんはゆっくりと丁寧に説明をしてくれたが、僕の頭には何も入ってこなかった。

 ここはいわゆる会議室で、折りたたみの長机が6台向かい合うように並んでおり、パイプ椅子が机に合わせて18脚。僕と武藤さんはその一角に座っている。日中なのだから当たり前だが窓の外は明るく、蛍光灯が部屋の隅々まで照らしている。

 スピリチュアル代理士とはこういうものなのだろうか。戸惑っていると武藤さんはまた優しい笑顔で僕の気持ちを察してくれたようだ。

 「ご安心下さい。私はこの春行われた国家試験に合格致しまして、その後4ヶ月の実践的な研修を積んでおり、米国でのカウンセリングメソッドの研修も受けてきております」と説明しながら、A4のカタログを差し出してくれた。そこには武藤さんの笑顔の写真と立派な学歴からスピリチュアル代理士の消化プログラム一覧、行使可能なスピリチュアル代理士のメニュー表。それに加え、日本スピリチュアル代理士協会の認定印と米国相互存在証明研究機構所長のリン・スキップ・キャシディ氏のサイン、最後に武藤さんのスピリチュアル代理士としての目標と今後の抱負が手書きの文字で書いてあるパンフレットだった。パンフレットはもう一枚あり、そちらには“HRF-226”とあり動作スピードや同時呼び出し人数が倍になったといった説明がびっしりと書いてあった。どうやらプログラムが入った機材のようだ。製造元は医療機器では実績のある有名なメーカーらしく、“一般医療機器の実績を結実”と一際目をひくように書いてある。実物を見るとパソコン側面のUSBから中指を挟んで血圧を測るソケットの用なものが伸びている。僕の様子を見ながらも武藤さんは柔らかい自信に満ちた声で説明してくれている。

 「機材も日本国内の実情に合わせてあり、米国での基準よりも遥かに厳しい規格に基づいております」

 「他にご不明な点はございますでしょうか」

 具体的なことはソケットに指を入れるということしかわからなかった。その他のことはいっさい頭に入ってこなかった。何を質問をすると何がわかるのかもわからなかった。優しそうな武藤さんを信頼し全てをお任せする事にした。


 「それではリラックスしてください」と武藤さんは言った。何かが始まるようだ。

 武藤さんの促す通りソケットに中指を差し込み目を閉じて深呼吸をした。指の先がだんだんと熱くなってきたように感じた。パソコンからは、ラジオをチューニングしているような雑音が聞こえ始めた。心が落ち着いていく。

 「5ステップが完了しました。和明君に呼びかけてあげて下さい」


 武藤さんの声が遠くに聞こえる。和明という名前を聞いて顔が浮かぶ。無邪気に笑う和明。よたよたとまだそれほど歩けもしないのにサッカーボールを追いかける和明。

 「和明、ごめんよ和明」つい声に出してしまった。

 ああ、まだ人生の楽しみなんか何も知らなかったのに。お前の人生は始まってもいなかったのに。


 「はい、ありがとうございます、お疲れ様でした」武藤さんが言った。


 何がありがとうなのだろうか、顔をあげると武藤さんが優しい笑顔を投げかけてくれる。

 「こちらをご覧下さい」 パソコンを回して、画面を見せてくれた。画面にはグラフのような物が幾つも表示されていた。

 「こちらの現世周期と隔世周期レベルが総反曲線となっております。良かったですね」

 良かった。何が良かったのだろう。

 「和明君は立派に成仏されていますよ。これもお父様の思いが通じたからですね」

 そうか、和明は成仏できた。


 でもそれが良かった事なのだろうか。武藤さんは先程のソファでお待ち下さいといって会議室の扉を開けてくれた。


 窓口の前の椅子に座る。これでよかったのだ。和明の事を思うとまた涙が出てきた。良かった和明。成仏できて良かった。

 気がつくと武藤さんが傍らに立っていた。

 「こちらが先程の非実在人格対話プログラムの結果です。こちらはプログラム時の現世周期と隔世周期レベル表のプリントアウトになります、持ち帰られますか?」

 はい、と答えると区役所の封筒にプリントアウト、予約票、面接シートを入れてくれた。ほか、インターネット経由での納税の案内チラシと区が主催の盆踊りのチラシも入っていた。封筒を手渡すと武藤さんはありがとうございましたと言って頭を下げたので、僕も慌てて頭を下げた。

 それではと帰りかけたが、何かが腑に落ちない。

 ドアノブに手をかけたまま振り返った。

 武藤さんは優しく微笑んでくれた。

 「これでおわりでしょうか?和明は本当に成仏したんでしょうか」と口から出かかった。武藤さんは忘れていましたと明るく応えた。

 「今回の非実在人格対話プログラムの費用は年内いっぱいは区の負担で行われますので、お支払はございません」

 「そうですか、安心しました。何しろ初めてですから費用の相場もわからなくて」


 僕は《何でも相談センター》の受け付け窓口から立去った。

 和明が成仏したのなら良かった。何よりだ。

 区役所のホールに戻った。

 貰った封筒から現世周期と隔世周期レベル表を見てみる。他にもいろいろな数値がグラフ化されており、裏面には数値の意味やグラフの見方がわかり易く解説してあった。

 それを封筒にしまうと、また涙が止まらなくなった。

 泣いたまま外に出るのも恥ずかしいので、区役所の玄関の隅で落ち着くのを待った。

 しばらく壁に向かって立っていると肩を叩かれた。振り返ると区役所の案内カウンターにいたおばちゃんだった。

 おばちゃんは飴をくれるとカウンターに戻って行った。





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