四.主従(2)

 

   ***

 

 城に着くと、鳴海は大手門ではなく、わざわざ迂回して山頂にある搦手のほうへ馬首を向かわせた。

 恐らく、正面から帰城して周囲を騒がせぬようにという配慮故だろう。

 だが、山城である霞ヶ城は、搦手から入るのと大手から入るのとでは、足場の具合がまるで違う。

 ましてや、今は雪解け間近の時期。ぬかるんだところも多く、御殿へ戻るには山頂から下って行かねばならない。

 途中、細い山道に入ると鳴海は自ら馬を降り、瑠璃を馬上に置いたまま手綱を引いてくれた。

 そうして城の厩へ着くまでの間、双方ともに口を噤んだままであった。

 やがて鳴海は厩番の者に馬を引き渡し、瑠璃の手を取って屋敷へ向かう。

 城の敷地内とは言え、自然に隆起した山を利用した山城だ。戦国のその昔からこの地の城は他所へ移らず、この小高い山の中腹に建っている。

 その道は整備されてはいても、悪天候が続くとぬかるむし、女子の足には少々歩きにくい。

 鳴海は気遣って、手を引いてくれているのだ。

「──鳴海」

 瑠璃がそう呼びかけたのは、ちょうど屋敷に程近い、池の畔に差し掛かった頃だった。

 ほんの呟く程度の呼び声だったが、鳴海は聞き漏らすことなく返事をした。

「何でございましょう」

 返された声は、今も機嫌が悪そうだったが、瑠璃は構わず続けた。

「人となりというのは、どうも……難しいもののようじゃ」

「……左様で」

「思うとおりの完璧な自分には、一生涯かけてもなれるものではないと言われた」

 あの茶屋で、栄治に言われた言葉を思い返す。

「ふむ。そうかもしれませんな」

「まずは、信頼のおける者を見つけよ、と言われた」

 瑠璃は足を止めた。

 手を引いていた鳴海も、その歩みが止まったことに気付き、瑠璃へ向き直る。

 それと同時に、今まで繋いでいた手も放された。

「……ほう?」

 それまで仏頂面だった鳴海の面持ちに、些かの変化が生まれる。

 瑠璃が意外な事を言い出した、とでも言うように、やや目を瞠る鳴海。

 その肩にさえ届かぬ身長差を越え、瑠璃は至って真摯に鳴海の双眸を捉えた。

「鳴海。私は、そなたを信頼してみようと思う」

「……」

 一度、鳴海の口が開きかけたが、何も言わぬまま再び口の端を結んでしまった。

 だが、今も真っ直ぐに瑠璃を見返してくる鳴海は、瑠璃の話に耳を傾けようとしている。それが瑠璃にも分かった。

 冷たい風が吹き、もとどりに結った鳴海の髪が靡いたと思うと、瑠璃の前髪をさらさらと撫でていく。

 その風が吹き過ぎるのを待って、瑠璃はもう一度口を開いた。

「私は今の自分が分からぬ。城に居る皆のことも、実を言えばそなたのことも未だよく分かってはおらぬ。ただ素直に真面目に、逆らわずにいれば、嫌いな稽古の時間も過ぎてゆくし、時間が来れば嫌なことを言う師も帰って行く。我慢していれば、嫌なものはいずれ私の許を過ぎ去ってくれるものだと、そう思っていた」

「……」

「だが、それでは私は生涯、人の顔色を伺っているしか出来なくなる。皆の言う、姫君らしい姫君とやらに縛られ、感情を伏せ、皆の望む通りの私を演じ続けねばならぬ。私はそれが嫌じゃ!」

「なるほど。変わりたいと、そう思し召しなのですな?」

 瑠璃の言葉を噛み締めるように問い返す鳴海の声には、一本の棘もない。

 思いのほか優しい声だ。

 変わりたい。今の自分のままで居たくはない。

 出来ればそう言葉に出して言いたかったが、鳴海の声に気持ちが甘えてしまったのか、瑠璃の声は喉元で閊えて出てこなかった。

 代わりに、瑠璃はこくりと頷いて返事をする。

「瑠璃様。お言葉ははっきりとお聞かせ頂きたい。あなたが本当にお望みならば、それを声に出すところから始められよ」

「……!」

 瑠璃が頷くのを見ても、鳴海はそれを良しとはしてくれない。

 瑠璃の意は汲んでいるはずなのに、それでも言って聞かせよと促す。

「私は、……そうじゃ、変わりたいと思うておる」

「さればこそ、私に信頼をお置き下さる、と?」

「そうじゃ。そなたは、私にどんな人物になりたいかと、人となりというものを説いた」

 これまでに、瑠璃にそんなことを述べる者は、一人としていなかった。

 それは瑠璃にとっては初めて、姫君ではなく、一人の人間として投げ掛けられた会話だった。

「……私には、自分がどのような人間でありたいかなど未だ見当がつかぬ。少なくとも、今のままの人形のような自分は嫌だと思う。だが私がそう思うだけでは、きっとまた周りの皆に流され、嫌だと思うことすら止めてしまう時が来るかもしれぬ」

 だから、と瑠璃は声に力を込めた。

「そうならぬよう、そなたに隣に居て欲しい。私が周りに押し流されそうになっていたら、そしてもし私が間違いを犯しそうになったら、その時はそなたが私を叱咤してくれ。私はそなたの苦言なら聞ける!」

 思わず鳴海の袖を掴み、瑠璃は気付かぬ間に言い募っていた。

 その行動に意表を突かれたのか、鳴海は僅かに驚いた顔をする。

 だが、瞠目した面持ちも束の間。

 鳴海はふと、引き結んだ口許を弛め、その場に片膝を着いた。

「! 鳴海、何を……」

 足元は雪解けで泥濘が出来ている。

 袴を汚すことを気に留める様子もなく、鳴海はその膝を着き、瑠璃の顔を見上げる。

「この大谷鳴海、不肖の身ながら喜んで拝命仕りましょうぞ」

 そう言って笑顔を見せた鳴海の顔を、瑠璃は暫し呆然と眺めたが、ややあって自らの申し出が快諾されたのだと知ると、瑠璃の頬も綻んだ。

「よろしく、頼む」

「身命を賭しまして」

 池の畔に、ほんの少しの温かな空気が漂う。

 それは、この地に春の訪れを告げる風なのか、はたまた主従の間にだけ流れた風なのか。

 雲の切れ間から早春の陽光が差し、るり池の庭園を流れる小さなせせらぎが、今冬の残雪を溶かしてゆくのであった。

 

 

 【了】

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はだれ雪 紫乃森統子 @shinomoritoko

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