四.主従(1)
「くっそう、くそ寒い!! 何もこんな寒い日に脱走せんでも良かろ……ぐっ、がぺぺっ! くそーっ、舌噛んだっ!!」
市中を駆けずり回る馬上で、鳴海は盛大に愚痴をこぼしていた。
二本松の城下は、急勾配の坂が多い。
鳴海が屋敷を飛び出して一刻あまり。すでに馬の息も上がっている。
この寒さの中、あの幼い姫君はどこでどうしているのか。
万が一にもどこぞの悪党にかどわかされでもしていたら、それこそ事態は取り返しのつかないことになろう。
多分、首が飛ぶ。
そもそも何故、瑠璃は誰にも黙って城を抜け出したのか。
昨日の瑠璃の様子を思い返してみる。だが、昨日も平素通りに稽古をし、いつもと同じように自らの部屋へ戻ったはず。
特に変わったことはなかった──、と思いかけて、鳴海ははたと気づいた。
「私か!? 原因は私のお説教だとでも言うのかっ!?」
激しく揺れる馬上で、振動の度に舌を噛みながら、鳴海は大きな独り言をこぼす。
道行く者たちは、皆一様に奇怪なものを見る目で流し見ていたが、そんなことに構う暇はない。
が、あまりにも瑠璃の行方が掴めぬために、鳴海はとうとう独り言から脱する。手綱を引き絞って馬足を留めると、町内を出歩く町人たちへ誰とはなしに問うたのだった。
「そのほうら、このあたりで十ぐらいの、少々身なりの良い
言って周囲の人々をじろりと見渡すが、いずれも恐縮そうに首を横に振るか、あるいは鳴海と視線が絡む寸前に目を逸らしてしまう者ばかり。
手掛かりが掴める気配は皆無といって良いほどに、人々は無反応だった。
内心で舌打ちをした。恐らくこの界隈ではない。
早々に見切りをつけ、鳴海は再び馬腹を蹴った。
***
店を出て、栄治はひとつ伸びをする。
優雅な朝の団子を味わおうとしていただけだったのに、慣れぬ説教をしたお陰で随分と肩が凝ってしまった。
ぐっと両腕を空へ突き上げ、首の具合を確かめる。
伸びと同時に瞑った両目を再び開くと、曇天に僅かな雲の切れ間が見えた。
清かな曙光の帯が、天上より降り注ぐ。
「ほぉー、こいつは吉兆かな」
根拠はないが、何か良いことがありそうだ、と栄治はほんのり気分を良くする。
そして、そのまま漫ろに歩き出していった。
***
「……帰る、か」
城は相変わらずあまり居心地の良い所には思えなかったが、瑠璃は自然とそんな気になっていた。
帰りたい、と思ったわけではない。
ただ、先までの栄治との会話の中で、またじっくり話をしてみたいと思えた人物が、城にいるからだ。
栄治の言うように、全幅の信頼を置けるかどうかは分からない。
けれど、あの人が傍にいれば、何かが変わる。否、何かを変えてゆける気がする。
団子屋を出て城の方向へ向かおうとした、その時だった。
瑠璃の耳に、最近聞き慣れた声の、耳慣れぬ叫びが遠くから届いた。
「るぅりぃさぁまァァァアアアアア!!!」
ついでに、荒々しい馬蹄の音が地割れを起こさんばかりに近付いてくる。
人々で賑わい始めた城下の通り、その遙か遠くから、何かが猛然と迫っていた。
「なっ、なんじゃあ!?」
仰天して立ち尽くす瑠璃の眼にも、それが誰であるかが見て取れるまでに距離は縮まり、瑠璃は思わず声を失った。
「そこで待たれぇぇぇぇい!!」
輪郭が明確になり、その只ならぬ形相も次第にはっきりと見えてくる。
「……鳴海、か?」
むっとした表情だけはよく見せる男だ。
けれど、今こちらへ向かってくる鳴海の顔は、瑠璃も思わず震え上がるほどに、怖い顔をしていた。
つい今し方、またじっくり話をしたいと思ったことなど、一瞬きれいさっぱり吹き飛んでしまうほどの鬼の形相だ。
うっかり逃走を図ろうかとさえ思ったが、瑠璃は動きかけたその足を、意図してその場に留めた。
──俺なら、おまえに人となりを説いた奴にこそ、全幅の信頼を置く。
栄治の一言が念頭を掠めたためであった。
足を留めて数拍の後、目の前にまで追い付いた鳴海が手綱を引き絞り、勢い余った馬が前脚を浮かせて嘶く。
「ご無事かっ!?」
馬の背を飛び降りて早速、鳴海はその怖い表情のまま怒りの滲む声音で言う。
「お一人で城を抜け出すなど、言語道断! 御身に何事かあれば国の大事となるのですぞ!? あと私の首も一大事です!! 一体何故にこのようなことを……!」
怒りでわなわなと拳を震わせる鳴海を見上げ、瑠璃は返答に詰まった。
殆ど衝動的に飛び出して来てしまったも同然で、咎められた時の言い訳など捻っている暇はなかったのだ。
尤も、鳴海の怒髪天を衝く様相を見る限り、言い訳を捻り出しておいたとしても、到底彼の溜飲を下げることは適わなかっただろうが。
瑠璃は多少びくつきながら、鳴海の眼を見上げてまた逸らす。
「す、すまぬ。軽率だった」
素直に陳謝した瑠璃だったが、それでも鳴海の面持ちは一向に和らぐ気配はなかった。
寧ろ逆に苛立ちを募らせたようにも見える。
「私は、何故このようなことをなさったかと尋ねております。それにはお答え頂けぬか」
物言い自体は丁重だが、有耶無耶にすることを許さない厳格な語調だ。
「あなたの身に何かあれば、護衛役である私の責任となる。この腹を切るぐらい何ということはないが、私の自尽は後々あなたの御心を苛むこととなりましょう。あなたはそこまでの覚悟がおありで出奔なされたのか?」
鳴海の口から飛び出した『自尽』という言葉に、瑠璃はぎょっとした。
大袈裟な、と思いもしたが、それが単なる脅しでないことは、駆け付けた鳴海の倉皇ぶりを見れば瞭然のことだった。
「自尽って、そんなことまでせねばならぬのか。単なるお忍びであろうに……」
突っ撥ねようとしながら、瑠璃はぞくりと悪寒が走るのを感じた。外気の寒さのせいではない。胸の内側を直に撫でるような、薄ら寒い風に吹かれた気がした。
「私は瑠璃様の護衛を命ぜられた。尤も、傅役と言って差し支えなき任務ですが。それでも任された以上、私は一命を賭して全うすべきと心得ております。だが──」
鳴海はそこで、瑠璃の眼から視線を逸らした。
「あなたが私の務めを軽んじておられるならば、これほど悲しいことはない」
悲しい、とは言いつつも、逸らされた双眸は悲哀の色を湛えてはいない。寧ろ憮然とした様子で、相変わらず静かな怒りを潜ませてもいるようだった。
「か、軽んじているわけではない。そなたに言われたことを反芻するうちに、どうしても城の外に暮らす者たちを見てみたくなったのじゃ」
それもこれも、鳴海の聞かせた人となりとやらを真剣に考えたからこそだ。
だからと言って鳴海に責任を押し付けるつもりはないが、鳴海には言い訳がましく聞こえたかもしれない。
けれど、鳴海は仏頂面のままで瑠璃を馬上に乗せ上げると、自らもまた馬の背に飛び乗る。
「お話は、城へ帰ってからじっくりと伺いましょう。……ゆっくり参りますが、それでも揺れますのでお掴まり下さい」
鳴海の両腕に挟まれるように、瑠璃は馬上で横向きに座らされている。
手綱は鳴海が握っているし、馬の背には鞍さえ付いていない。一体どこに掴まれと言うのか些か悩んだが、進み出した馬の背は思っていた以上に揺れ、瑠璃は咄嗟に鳴海の胴にしがみついた。
「つっ、掴まる前に馬を出すな! この阿呆!」
「……その減らず口を、少しは私以外の者にも向けられては如何なものか」
呆れた口調の鳴海を上目で睨んだが、真っ直ぐに前方を見据えたままの鳴海とは、視線が絡むことはない。
零れる息はまだ白く、鳴海のそれも白く流れてゆく。
団子屋で温まった体は、またいつの間にか冷えていたようで、しがみついた鳴海の体温が心地良い。
結局、瑠璃はそのまま鳴海にしがみついておくことにしたのだった。
***
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