後日談 結婚編

後日談 結婚編

第29話 2.歓迎されない客(結婚編)

 お弁当を忘れた春香のために龍己がお弁当を届けに来た日、あの食堂に龍己のことを知っていた生徒がいたらしい。

 春香が講義のために教室に入ると、見知らぬ女子生徒から声をかけられた。


「この前、春香くんにお弁当を届けに来たひとって、速水龍己先生でしょう?」

「だから何なのですか?」

「私、速水先生のファンなんだ。サインとかもらえないかな?」


 女子生徒の顔には「龍己有名人と知り合いになりたい」という言葉がでかでかと書いてある気がして、春香は正直いい気持ちはしなかった。無視して授業の準備をしていると、女子生徒がしつこく絡んでくる。


「戸井くんにも可愛い子紹介してあげるから、私にも速水先生を紹介してよ!」


 無茶苦茶なことを言っている女子生徒に、立ち塞がったのは男子の友達三人組だった。


「あのひとのことは諦めるんだ!」

「お姉様、ただし男は、春香のものだ!」

「それはともかく、可愛い子、俺に紹介してくれない?」


 最後のはともかく、自分を庇ってくれる男子たちに春香は初めて友情のようなものを感じていた。

 まさかこんな場面で春香を庇ってくれるなんて考えもしなかった。


「あんたたちじゃなくて、大人の魅力の速水先生がいいのよ!」

「残念ながら、そのお姉様、ただし男は、君の手には入らない」

「新しい恋をするといいよ」

「俺とか!」

「『お姉様、ただし男』って何よー!?」


 叫びながらも女子生徒は追い払われてしまった。女性と話すのは苦手なので、春香は男子たちにお礼を言う。


「どうしていいのか分からなかったのです。ありがとうございました」

「気にすることないよ」

「二人のこと、俺たちは応援している!」

「俺は可愛い彼女が欲しい!」


 彼女持ちの二人と、彼女のいない一人はちょっと態度が違うが、三人なりに春香のことを思いやってくれているのが分かる。高校時代以前も友達はいたが、学校だけの付き合いで家に呼んだり、呼ばれたりすることは春香の家庭環境上無理だったので、深い仲にはならなかった。

 外で遊ぶにしても少ないお小遣いをやりくりして、食事も買わなければいけなかったので、春香はほとんど遊んだ記憶がない。そんな状態だったから、自分を庇ってくれる友達がいるということはすごくありがたく、今までにない経験だった。

 これで騒ぎはおさまったのだと勝手に思っていた春香の元に、大きな騒ぎが持ち上がったのは、その後のことだった。

 龍己が春香の大学にお弁当を届けに来たことが雑誌に書かれてしまったのだ。


『ベストセラー作家、速水龍己! 女遊びはやめて、年下男子に夢中か?』


 下世話な見出しの雑誌を見ているだけで腹が立ってくる。

 苛々として雑誌を投げ捨てようとする春香に対して、龍己は落ち着いていた。


「雑誌社も暇だなぁ。ルームシェアしてるだけって言えばそれで終わりなのに」

「『その場に居合わせた女子生徒は言う。「あれは絶対に二人はデキていました」』とか書かれているのですよ?」

「俺は昔の素行が悪かったからな。雑誌社が暇なときに騒ぎ立てるんだよ」


 誰が撮ったのか分からない写真も載っていて、そこに春香らしき人影がモザイクがかかっているのに、刷りの荒い雑誌だから大丈夫だと龍己は大らかに笑っていた。首筋のキスマークや鎖骨の噛み痕、うなじのキスマークなどは見えていないだろうが、龍己が春香の耳元に囁いていたのは文章で書かれている。


『ものすごく親密な様子で、抱き合いそうな雰囲気でした。女性に飽きて男性に走ったのでしょうか』


 コメントを見て春香が頭に浮かんだのは龍己のことを紹介して欲しいと近付いて来て断った女子生徒だった。雑誌社のインタビューに怒りを込めて回答していそうな様子が目に浮かぶ。


「僕のせいかもしれないのです。僕が、龍己さんに近付きたい女性を追い払ってしまったから」

「そんなことしてくれたのか? 春香は可愛いな」


 スキャンダルが雑誌に載ってしまっているのに、龍己はどこまでも呑気だった。それだけ今まで雑誌に書き立てられることは龍己の日常だったのだろう。


「飽きたら騒ぎ立てるのをやめるから平気だよ」


 落ち着いている龍己に、春香は落ち着かない気持ちでいっぱいだった。



 雑誌に記事が載ってから二日後、訪ねて来た人物に春香は驚きを隠せなかった。

 実家にいた頃は春香が家にいても視界に入れないし、会話もしない。お小遣いをくれるのは実の父親ではない母親の夫で、こっそりと春香に仕送りをしてくれているのも、大学の授業料を払ってくれているのも、母親の夫だ。母親は全く春香のことに関して関わり合いになりたくなさそうにしていた。

 春香が家を出て住民票を龍己の家に移すときに、手続きに来てくれたのは母親の夫だったし、母親は清々したとでも言うように春香の荷物を全部龍己の家に送り付けた。家具が入っていなかったのは、弟や妹の部屋に龍己の部屋をずっと使いたいを思っていたからだろう。

 そんな母親が、龍己の家に来ている。


「うちの春香を好きにして、楽しんでいるんでしょう? 私のお腹を痛めて産んだ子どもなのよ。いい思いをしてるんだから、少しはこっちに支払うものがあってもいいでしょう?」

「なんで、あなたがそんなことを言えるのですか?」

「うるさいわ! あなたは黙っていなさい。ベストセラー作家の速水龍己がホモだったなんて、ものすごい汚点よね」


 春香と龍己は愛し合っている。男性同士であることも誰にも迷惑はかけていない。それを「ホモ」と蔑んで、「汚点」だと言い切る母親に春香は信じられない思いでいた。


「これまで、僕は実家でいい子にしていたのです。迷惑は何もかけなかった。それなのに、あなたは僕の大事なひとを脅すのですか?」

「迷惑はかけられたわよ。ひとを一人養うのがどれだけ大変か分かってるの? 旦那はお人好しだから優しくしてくれたかもしれないけど、あの旦那も、私にもっとお金があれば、あんなうだつの上がらない男、捨てていってやれるのに」

「お義父さんは、優しかったのですよ!」

「そうよね。優しくて、実の子どもじゃないあなたの学費まで払っているものね。そのせいでうちは贅沢できない。ちょっとくらい、私の役に立ちなさい?」


 龍己との仲をばらすと言っている母親に、春香は信じられない思いで立ち尽くしていた。

 自分をずっと視界にも入れず、可愛がりもしなかったのに、龍己と関係があると知れば金をせびりにくるなど、母親としての義務も果たさなかったくせに傲慢すぎる。


「龍己さんが僕のせいで……」


 涙が出てきそうになった春香に、ずっと黙っていた龍己が春香の肩を抱いた。


「春香とのことはちゃんとします。お引き取りください」

「それはどういう意味?」

「あなたの望むようにするっていうことです」

「龍己さん、そんなのダメなのです!」


 一度金を支払ってしまえば、こういう輩は何度も金を求めてくるようになる。際限なく龍己の稼いだ金を消費される未来が見えて、春香は涙目になりながら首を振った。


「僕は出て行くのです! 龍己さんは……」

「春香を出て行かせたりしない。春香の家はここだろう?」


 弟の虎太郎にも龍己の両親にも紹介して、実の親兄弟のように思うように言われていた春香は、この家族の暖かさと、この家の居心地のよさを知ってしまった。一度手に入れたものを捨てるなんてできない。


「僕が払うのです。バイトに出て、僕が支払うから、今日は帰ってください!」

「バイトなんてさせない。春香、大丈夫だ」

「なんでこんなときまで男らしいんですか!」


 感情が高ぶって涙が出る春香と龍己に、「後日お金は受け取りに来るわ」と言って母親は去っていった。

 母親が去った後の家で春香が沈み込んでいると、龍己がコーヒーを淹れて手作りのクッキーを焼いてくれた。ぽろぽろと涙を零しながらミルクをたっぷり入れたコーヒーを飲んで、クッキーを食べていると洟で息ができなくなりそうになる。


「こんなときでも龍己さんのクッキーが美味しいのです。でも息ができない」

「ほら、鼻をかめ」


 ティッシュを鼻に当てられて、ちーんと鼻をかませてもらって春香は涙を拭いた。

 龍己の迷惑になるようなことがこれから起きるのであれば、春香はこの家を出て行くか、母親の要求する金額を払うためにバイトを始めなければいけない。

 どちらも気が重くて俯いてソファに身を縮めている春香の肩を、隣りに座った龍己が抱き寄せる。


「何も心配しなくていい」

「僕のせいで、龍己さんの経歴に傷が付くかもしれないのです!」


 主張する春香に龍己は笑っていた。


「俺の経歴なんて傷だらけだよ。それに一つ傷が加わったところで何ともないし、春香とのことは傷じゃない」

「龍己さん……」


 そうは言ってくれているが、龍己は母親に金を支払ってしまうのではないかと春香は心配でたまらなかった。

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