第21話 9.春香に美味しいアイスコーヒーを

 温泉宿での二泊三日はあっという間に過ぎて行った。あまり家を空けているのも仕事に集中できないので、名残惜しく温泉宿に別れを告げて龍己は春香を助手席に乗せて午前中の道路を運転していた。途中で進路変更して別の道を通って帰ろうと思い付いたのは、助手席に春香が乗っていたからに違いなかった。

 助手席側に松林が見えて、海の見える道に入ったとき、春香の緑がかった目が輝いたのが分かった。


「龍己さん、海ですよ! 海なのです!」

「行きとは別の道を通ってみたんだ」

「海……本物の海なのです」


 初めて見たのだろう、春香ははしゃいで窓に張り付いていた。ほんの少しの間だけだったが海を見ることができて春香は本当に楽しそうだった。これくらいで喜ぶのならば次は水着を持って来て海水浴もいいかもしれない。

 家に辿り着くと荷物を降ろして洗濯物を洗濯機に入れて洗う。洗濯が終わるまでの間に龍己は近所のスーパーに行こうとエコバッグと財布を持って靴を履いていた。


「龍己さん、どこに行くのですか?」

「晩ご飯の買い物をしてくるよ」

「僕も行きたいのです」


 ついてくると言う春香にもエコバッグを持たせて龍己はスーパーまで歩く。夏の日差しがじりじりと肌を焼く。暑さにくらくらしていると、春香が折り畳み傘を広げた。


「日傘にもなるのですよ。龍己さんも入ってください」

「男が日傘なんて……」

「最近は流行りなのですよ。龍己さんは感覚の古い作家にはなりたくないのでしょう?」


 言葉にも物語にも流行り廃りがある。それを知っているからこそ、龍己は流行に敏感になるし、他の作家の作品やファッション雑誌にも目を通していた。最近の男子は日傘をさすのが流行っているというのは、確かにファッション雑誌に書いてあった気がする。

 昨今の猛暑を超える酷暑を乗り切るためにも、男性も日傘を差すのがよいのだと言われていたが、龍己は何となく抵抗感があった。


「春香が焼けなければいいよ」

「熱中症になってしまうのですよ!」


 強引に日傘の中に入れられてしまって龍己は妙な気恥ずかしさを感じる。春香と二人で相合傘など意識する方がおかしいのかもしれないが、どうしても考えてしまう。

 躊躇っている龍己を引っ張って、春香は気にせずスーパーまで行ってしまった。


「卵や牛乳は賞味期限が長いものを買う」

「賞味期限ですね」

「生鮮食品は色や艶をよく見て、野菜類は傷んでないか確認する」

「お買い物も簡単ではないのです」


 食材を買いに行ったことがほとんどない春香のために説明をしながら龍己は籠の中に食材を入れていった。セルフレジでバーコードを翳して会計をするのも、春香は興味深そうに見ている。


「セルフレジを使ったことがないのです」

「簡単だよ。すぐに覚える」


 エコバッグに買ったものを入れて手に持つと、春香が龍己の手から自然にそれを受け取った。


「僕が持つのです」

「重いから俺が持つよ」

「僕に持たせてください。ちょっとくらい龍己さんの前で格好つけさせてください」


 可愛い顔でそんなことを言う春香に龍己は胸を射抜かれそうになっていた。

 無理にそんなことをしなくても春香は可愛いし、龍己を抱くときには格好いいのだが、そんなことは恥ずかしくて言えない。荷物を持ってもらって家に帰ると洗濯が終わっていた。

 龍己が食材を冷蔵庫に入れている間に春香が洗濯物を干す。洗濯物を干したり畳んだりすることは、最初に教えたので春香は問題なくできるようになっていた。

 洗濯物の処理が終わるとエアコンの入った部屋で麦茶を飲みながら寛ぐ。コーヒーや紅茶を淹れてもよかったのだが、春香は特にコーヒーや紅茶を好んで飲まなかった。


「春香の好きな飲み物ってなんなんだ?」

「水、ですかね」


 実家にいた頃は水ばかり飲んでいたという春香にしてみれば、麦茶を沸かして冷蔵庫に入れておくだけでも十分贅沢なようだった。


「部屋に冷蔵庫はないから、水以外を持っていくとすぐに悪くなっちゃうのです」


 その話を聞いていると春香に美味しい飲み物を覚えさせたい気分になる。


「アイスコーヒーを淹れようか?」

「僕だってアイスコーヒーくらい飲んだことはあるのですよ。コンビニのパックのやつですけど」


 コンビニのパックのアイスコーヒーは飲んだことがあるという春香のために、龍己はしばらく使っていなかった電動ミルでコーヒー豆を挽いた。引いた豆をドリップして抽出して淹れたコーヒーで作ったアイスコーヒーを春香は飲んで、「苦いのです!」と叫んでいた。



 アイスコーヒーには砂糖とミルクを入れることで解決して、春香はすっかりその味を気に入ったようだった。紅茶も真面目に淹れたものならば春香の味覚を変えていけるかもしれない。

 龍己がそんなことを考えていると、春香が旅行の荷物を片付けてリビングに戻ってきた。手には紙袋を持っている。


「龍己さん、これ、もらってください」

「なんだ? 開けていいか?」

「はい」


 受け取った龍己は紙袋を開けてみる。中には壁にかけられるガラスのボードに「HappyBirthday Tatsuki」と書かれていて、タイルで装飾がされていた。


「俺の誕生日……そうか、八月だったな」


 思い出した龍己は自分の誕生日が間近に迫っていることに気付く。春香の誕生日は祝ったが、自分の誕生日を忘れてしまうとはとんだ間抜けだ。


「お祝いの小説は今書いているのです。それは当日まで待ってください」

「小説もあるのか?」


 身を乗り出す龍己に春香がこくりと頷く。


「龍己さんのためだけの番外編なのです」


 旅行に行く前も二つのカップルが出会う番外編を春香は書いていたが、今度は龍己の誕生日のために番外編を書いてくれているという。どちらのカップルでも龍己はとても気に入っていたし嬉しいことには変わりない。龍己がそわそわしていると、春香が唇の両端を吊り上げて笑う。


「お誕生日までお預けなのです」


 旅行に行くまでの期間、龍己は春香の小説を読むのを我慢したが、今度はまた誕生日まで春香の小説を読むのを我慢しなければいけないようだ。


「小出しにできないのか?」

「それじゃお誕生日お祝いにならないのですよ」

「ちょっとだけでも」

「読んだら龍己さん、僕に抱かれたくなっちゃうのですよ?」


 にぃっと笑う春香に、龍己は返す言葉がない。春香の書く濡れ場のシーンを読むと龍己は主人公に自分を重ねて同じことをされたくなる。自分で触っているだけではとても我慢できなくて、春香の逞しい立派な中心に貫いてほしくなる。

 それが分かっていて春香が書いているのだと思うと、羞恥心に逃げ出したくなるが、逃げる場所もない。


「仕事、してくる」


 立ち上がってリビングから自分の部屋に戻った龍己だが、落ち着かない気持ちでそわそわとしていた。

 温泉宿で春香と同じ部屋にいたときにはあんなに落ち着いていられたのに、春香が視界にいない方が落ち着かない。それでも仕事は仕事なので書き上げたが、もう一度見直しが必要なくらい内容は纏まりのないものだった。

 春香は龍己が春香の小説を読むと体が疼くのを分かっていて書いている。それが知れたところで、龍己は春香の小説を読まないという選択肢はなかった。

 龍己にとっては春香の小説は日々の執筆の疲れを癒す清涼剤であり、回復薬なのだ。春香の小説がなければ龍己は生きていけなくなっている。

 それを自覚していても、龍己は素直に春香に気持ちを伝えられずにいた。

 自分がしてしまったことを考えれば、春香に告白しているも同然なのに、身体だけの関係だと自分を誤魔化している。春香がもっと溺れて龍己なしで生きられなくなったならば、龍己も春香の耳に甘く囁くのだが、春香は伸び伸びと自由で龍己が留めていられるかが分からない。

 不確定な未来のために春香に気持ちを告げてしまうのは、負けたような気がして嫌だったのだ。

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