~彼の書く文章は俺に新しい扉を開かせる~

第20話 8.温泉街観光

 龍己が温泉街を歩いてみようと思ったのは、春香のことを考えてだった。修学旅行以外の旅行には行ったことがないという春香は、観光などしたことがないのではないだろうか。そんな考えが頭に浮かんで消えなかった。


「春香、温泉街を歩いてみるか?」

「え? いいのですか?」


 誘えばぱっと嬉しそうな表情になる春香に、龍己は微笑む。


「違う街並みを知ってた方が春香の小説に深みがでるからな」


 小説とは綿密な資料集めと取材と経験によって出来上がる。それが龍己の持論だった。これまでの人生を取り戻すように、春香にはたくさんのことを経験して欲しい。それが春香の小説に深みを出すし、龍己との思い出で春香の中が塗り替わって行くのを感じるのは龍己にとって嬉しくもあった。

 誰も知らない春香の姿を自分だけが知っているというほの暗い喜びがあったのだ。

 朝食のビュッフェ形式で春香は並ぶ料理を見て驚いていた。


「これを好きなだけ食べていいのですか?」

「他のお客の分も考えなきゃいけないが、まぁある程度は食べていいだろうな」

「すごいのです。こんなのドラマの中だけの世界と思っていたのです」


 これまで小説に書いていたことはテレビやネットで情報を集めたものだったと春香は山盛りの朝食を食べながら教えてくれた。


「家でネットは使い放題だったし、パソコンも携帯もテレビも部屋にありました。そこで集めた情報で小説は書いていたのです」


 普通の家庭がどのようなものか知らなかった春香にとっては、テレビやネットで見た世界が全てだった。実際に経験することのなかったことをテレビやネットで得た知識で想像して書いていた。

 それであれだけのめり込ませる文章を書けるのは一種の才能だと龍己は考えるのだが、世の中には龍己のように春香の事情を知っているひとばかりではないし、龍己と同じ感性で春香を評価するひとばかりではない。自分が春香を見つけ出せたことが誇らしくもなってきていた龍己に、声を潜めて春香が告げる。


「男性同士のことも、調べて書いたのです……」

「俺が初めてって春香は言ってたよな」

「そうなのです。色々調べていくうちに、僕は資料に興奮したのです。これまでも男性のことは気になっていて、女性を愛せない体なのだろうなぁと気付いてはいたのですが、それが確信に変わったのです」


 ボーイズラブ小説を書く前から春香は自分が女性を愛せないことは薄々気付いていたようだが、男性同士の行為の方法を小説のために調べているときに興奮してはっきりと自分が男性を好きなのだと気付いたようだった。


「どんな資料を見たんだ?」


 作家としての好奇心で聞けば春香は「恥ずかしいから教えられないのです」と顔を赤くしていた。

 朝食を食べ終えて着替えて街まで車で降りていく。温泉宿は山の上の方にあったので、徒歩では街まで降りるのは若干大変だった。車の助手席に乗っている春香が鼻歌を歌って楽しそうにしているのが可愛い。


「春香、ここの駐車場で降りるぞ」

「はい!」


 リュックサック姿で車から降りる春香は、年よりも幼く見えた。観光ガイドを見ながら龍己が春香を先導する。蜂蜜の専門店やガラス細工のお店、木工細工のお店など、観光地に相応しくお土産物が売っている店が並ぶ通りを二人で歩いて行く。

 そこかしこから漂ってくる食べ物の香りに春香はそわそわしている。


「唐揚げが売っているのです! あっちにはコロッケが! ソフトクリームに、冷やしキュウリに、お煎餅に、プリン……あぁ、全部食べたいのです」

「春香、お前、朝食あれだけ食べたのにまだ入るのか?」


 朝食からそれほど時間が経っていないのに食べ物の売っている店にふらふらと引き寄せられる春香に、龍己は呆れてしまった。串にささった唐揚げを食べ、焼き立てのお煎餅を食べ、冷やしキュウリを食べ、ソフトクリームを食べる春香に、龍己の方が胸焼けがしてきそうだった。

 ガラス細工のお店では綺麗なガラスのボードがある。壁にかけられるそれは、名前を入れてもらったりできるようだった。


「龍己さん、ちょっとあっちを見ていてください」

「迷子になるんじゃないか?」

「このお店にいるので大丈夫なのです」


 なぜか店から追い出されてしまった龍己は仕方なく春香の指定した木工細工の店に入る。革細工もしている店のようで、丸い形の革の小銭入れが目についた。フクロウを模しているようで目と羽根と脚がついている。


「結構可愛いな」


 他にも木のぐい飲みを見つけて、龍己は悩んでしまった。実のところ龍己はお酒は嫌いではない。一人暮らしの頃はよく飲んでいたが、春香とルームシェアをするようになってからほとんど飲まなくなった。

 お酒を飲むと夕食はつまみくらいで足りていたのが、夕食を春香と一緒にたっぷり食べるようになって、お酒を飲みたいとは思わなくなったのだ。昨夜のイタリアンレストランのディナーでも龍己はアルコールは頼んでいなかった。


「春香が来年20歳になったら……」


 そうしたら一緒にお酒が飲めるのではないか。

 来年の夏にここに来てまたぐい飲みを買うか、今買ってしまうか、龍己は悩んでいた。



 用事の終わった春香と合流して、龍己は時間もそろそろ昼時になるのでこの街で有名という蕎麦屋に行くことにした。少し歩くのだが春香は平気そうだ。

 お土産物を売っている店の通りから少し離れた蕎麦屋に着くと、龍己は春香と一緒に暖簾をくぐった。隠れた名店らしくひとはあまりいない。


「蕎麦、どれくらい食べるか?」

「どんなお蕎麦があるのですか?」

「ざる蕎麦だけだよ」


 こだわりの名店はざる蕎麦だけをメニューにしていた。それで採算が取れるのだからやはり名店なのだろう。


「何枚食べる?」

「枚、ですか?」

「ざる蕎麦は枚で数えるんだよ」


 知らないことだらけの春香に教えていくのも楽しい。

 とりあえず二枚頼んだ春香と、一枚頼んだ龍己に茹でられたざる蕎麦に細かく切られた海苔が散らされて運ばれて来る。つゆにワサビを溶かして、ネギを入れて、ウズラの卵も入れる龍己を、春香はじっと観察して、つゆの中にネギとウズラの卵を入れていた。


「ワサビは苦手か?」

「はい。ツンとするのです」


 可愛いことを言う春香に和みながら龍己は蕎麦を啜った。春香もあれだけ食べていたのに二枚のざる蕎麦をぺろりと食べてしまう。


「美味しかったのです。お腹がいっぱいになると眠くなるのです」

「そろそろ宿に戻るか」


 来た道をお土産物を売っているお店を覗きながらゆっくりと帰る。車に乗って温泉宿まで戻ると時刻は午後二時近くになっていた。

 部屋は掃除されていて、布団も片付けられている。昨日乱れた後が全て綺麗になっている様子に、体液で汚れたバスタオルなどを見られたのかと思うと気恥ずかしかったが、龍己は気にしていない様子を装って座卓に座った。春香も座卓に座ってノートパソコンを開いている。

 お互いに向かい合って黙ってパソコンのキーボードを叩く音だけが部屋の中に響いている。同じ空間に春香がいることに全く構えてもいない自分に、龍己は驚いてもいた。

 春香がいることは意識の中にあるのだが、それが全く不快ではないのだ。

 編集者であれども同じ部屋にいられると小説に集中できない体質の龍己が、春香だけはいても少しも嫌ではない。それどころか作業が捗る。

 やはり春香は自分にとって特別な存在なのだと龍己は確信を深めた。

 春香が書いている小説は新作だろうか。

 それを一話でも書くことができれば春香は龍己に見せてくれるのだろうか。

 新作は女性同士の恋愛を絡めたお話だと聞いていた。ボーイズラブのカップルと女性同士のカップルとの間にどんな交流が生まれるのだろう。

 春香の書いている小説を気にしながらも自分の小説を龍己は集中して仕上げていった。

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