第17話 5.二人で向かう温泉宿
七月の終わりに春香の試験が終わってから龍己は車を出して温泉宿に向かった。春香の荷物が妙に多いのは初めての個人的な旅行だからだろう。
試験期間中、龍己は春香に抱かれることも、小説を読むことも我慢していた。新しく買ったキングサイズのベッドで二人で眠るのだが、身体は交わさなかった。小説という対価を渡していないので春香も龍己を求めて来なくなった。
求められないのは心配にもなるが、龍己は春香を抱き締めていると深く眠れる。これまでに女性と関係を持った時には、龍己は一緒に朝まで過ごすことも考えたこともなかった。
春香が龍己の胸に顔を埋めてすやすやと眠っているのを見ていると、龍己も心が安らぐ気がするのだ。
「お仕事は大丈夫だったのですか?」
「まぁ、なんとかなる」
ノートパソコンは持って来ているので温泉宿でも仕事はできる。龍己はずっとお預けをさせられていた春香の小説を読むことを楽しみにしていた。温泉よりも春香の小説を纏めて読めるのを楽しみにしていたくらいだった。
「春香もパソコン持って行っているか?」
「はい、持って行っているのです」
ノートパソコンを春香も持って行っている。春香も温泉で小説を書いてくれるということなのだと龍己は期待していた。
車で温泉宿まで行くと、お洒落な綺麗なホテル風の建物のロビーに入る。予約していた龍己は必要書類に記入してから部屋に案内してもらった。部屋は和室だが、夕食のレストランはイタリアンというお洒落仕様の温泉宿に、春香はきょろきょろと周囲を見渡していた。
「これが温泉なのですか」
「知らずに書いてたのか」
「ネットで調べたりしたのですよ」
主人公たち二カップルが温泉に行って出会う番外編を春香は書いていたが、温泉宿が実際にどのようなものかは分かっていなかったようだ。
「普通の温泉宿とはちょっと違うけどな」
「そうなのですか? 一般的ではないのですか?」
「部屋に温泉の付いているところを探したからなぁ。普通は大浴場に風呂に入りに行くんだよな」
「大浴場……そっちも行ってみたいのです」
好奇心旺盛に目を輝かせる春香が可愛くて、龍己はにやけてしまう。デレデレとしている自分は格好悪いかと表情を引き締めるが、春香は気付いていないようなので安心した。
「部屋に荷物を置いたら大浴場に行ってみるか」
案内された部屋は和室で座椅子と座卓が置いてある。部屋に置いてある浴衣を手に取って春香が驚いている。
「本物の浴衣だ」
「いわゆる、温泉浴衣ってやつだな」
普通の浴衣ではないと教えると早速広げてみようとする春香を龍己は止めた。
「風呂に入ってから着替えよう」
「はい!」
温泉浴衣とバスタオルと下着を持って、大浴場に行くとひとは少なかった。端っこでこそこそと脱ぐ春香は、色素の薄さが際立って見える。龍己も髪は黒いが肌の色は薄い方だが、春香はそれを越す薄さをしている。
つい春香の股間に目が行きそうになるのを抑えて、春香がタオルで前を隠しながら大浴場に入っていくのに、龍己も前を隠しながら入っていく。
「龍己さんは後ろを隠すべきなのです」
「は?」
「可愛いお尻が見えてしまうのです」
「そういうことを言うな」
恥ずかしくて真っ赤になる龍己に春香は真剣な眼差して告げる。
「お尻も隠してください」
仕方がないので腰にタオルを巻いて尻の方まで隠したが、龍己は自分をそんな目で見る輩よりも、春香をそういう邪な目で見る輩の方が多いのではないかと警戒していた。
シャワーも隣りに座って、春香の白い肌に集まる視線に牽制する。
自然に春香の髪を洗って、春香にも髪を洗ってもらっていることを、龍己は警戒するのに忙しくて気付いていなかった。
大浴場のヒノキの湯に入ると熱さに春香が驚いている。
「熱いのです」
「温泉は温度があまり調整できないからな」
熱くないと温泉ではないというようなひとのためなのか、温泉とは大抵熱い。他の男が春香を見ないようにさり気なく後ろに隠している龍己だが、春香は顔を真っ赤にして龍己の胸を見詰めていた。
「龍己さんの乳首、可愛くて悪戯したくなるのです」
「やめろ」
それどころではないので返事が素っ気なくなるのは仕方がない。春香が他の男に見られないかどうかばかりが龍己は心配だった。
大浴場から出るときに龍己は春香に身体を拭いてから脱衣所に行くことを教えて、浴衣の着方も教えた。浴衣の帯を結んであげるときに抱き付くような格好になってしまったが、自分一人恥ずかしがっているのもしゃくなので気にしていないふりをした。
部屋に戻ると龍己は春香にお茶を淹れていた。ゆったりとした午後、二人で過ごすのは寛いだ気分になる。お茶を飲みながら龍己も春香も自然とノートパソコンを準備していた。
座卓の上にノートパソコンを広げて、お茶を飲みながら小説を書く。お互いに傍にいても気にならないし、集中できる状態というのが龍己には驚きだった。
ノートパソコンを持ってきたものの春香のことが気になって仕事が全く進まないのではないかと危惧していたが、そんなことはなかった。静かに春香も自分の作業に集中しているし、龍己も自分の作業に集中できている。
切りのいいところまで書いて顔を上げると、龍己のタブレット端末が通知音を鳴らした。
「今日の分の小説か?」
「これまでの分ですよ。前の分も改稿したのです。温泉宿が和室だったなんて知らなかったので、ベッドにしてしまっていたので、お布団に書き直しました。大浴場のことも書いていますよ」
「そうか。楽しみだな。夕食の後に読ませてもらおうかな」
夕食は早めの十八時にイタリアンレストランを予約している。浴衣姿のまま行っていいと言われていたので春香も龍己も浴衣姿で行った。
席に案内されると、外に向かう壁一面が窓ガラスになっていて、温泉街を見下ろすことができた。
「夜景がきれいなのです」
「春は桜並木が見えるって言うから、また春に来てもいいな」
「僕の誕生日に来たりできますか?」
来年は誕生日をここで祝って欲しい。
そんなことを言う春香に龍己は心が満たされて行くのを感じていた。春香は来年も龍己と過ごすことを予定している。そのことが龍己にとっては何よりも幸せなできごとだ。
こうして一年後、二年後とどれだけ春香と一緒にいられるだろう。春香はいつまで龍己に興味を持っているのだろう。
新しいことを教えて龍己好みに春香を育てるのも楽しいし、龍己との経験が春香の文章に反映されて行くのも優越感を覚える。
普通の温泉旅館はイタリアンレストランなどついていないのだが、春香の中では温泉旅館と言えばもう龍己と来たここしかイメージになくなっているだろう。
人生経験の少ない19歳の春香は龍己が塗り替えてしまえばこれまでの人生の全てを塗り替えられてしまうかもしれない。そのことに龍己はほの暗い喜びを感じていた。
春香が自分の傍から離れられないようにするためにはどうすればいいか。
考えていると料理が運ばれて来る。
前菜は鰹のたたきのカルパッチョのようなもので、続いて生野菜が豪華に盛られた皿とバーニャカウダーのソースの容器が出て来る。ソースの容器は固形燃料で温められていた。
「ごゆっくりお召し上がりください」
店員が一礼して戻っていくと、春香が明らかにそわそわしている。
「小説のネタにするために写真を撮ってもいいですか?」
「もちろん、いいよ。春香にとっては大事な取材旅行だもんな」
「僕の小説のために温泉旅行を計画してくれたのですか?」
「俺は春香の小説の続きが読みたかったからな」
春香の一番のファンは自分だと自己主張すると春香は嬉しそうに頬を染めている。印税で生活していける程度はもらっている龍己は、たまの贅沢に春香を温泉に連れて行くことくらいで家計が揺らぐこともない。
「存分に楽しんでくれ」
「そしたら、ノンアルコールカクテルも頼んでいいですか?」
遠慮していたのだろう興味を持っていた飲み物のメニューを手に取る春香に、龍己は当然了承したのだった。
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