~彼の書く文章は俺に新しい扉を開かせる~

第16話 4.キングサイズのベッドを

 買い替えるベッドは春香の意見も聞きたい。けれど、春香が離れていってしまってから龍己一人で寝ることを考えると、自分一人で選んだ方がいいかもしれない。

 どっちにすればいいのか分からない龍己に、焦れた春香が試験期間で早く帰って来た日に龍己を家具屋に連れて行ってしまった。

 連れて行ったと言っても、無理やり春香が龍己を連れて行くことはできない。春香には車もなければ、龍己を引きずって連れて行く腕力もない。


「ベッドを買いに行きたいのです。龍己さんがどうしても嫌なら、狭いベッドでくっ付いて寝るのも楽しいんですけど」

「嫌っていうか……」

「寝るときはいいのですが、激しくすると、龍己さんが頭ぶつけそうになるし、ベッドから落ちそうになるから、嫌なのです! お願いです、ベッドを買い替えるのです!」


 可愛い顔でおねだりされると龍己は弱い。

 その上、春香は切り札を持っていた。


「実はあの二つの小説、同じ街で起きたことで、二つのカップルが出会う番外編を書いているのですけど……」

「やっぱり、同じ街だったのか! そうだと思っていた。それで、番外編は?」

「ベッドを買ったら、仕上がるかもしれないのです」


 狭いベッドで龍己が頭をぶつけたり、落ちたりするのを気にしながら行為に及んでいる間は集中して小説を書くことができない。そう主張する春香に龍己は完全に負けた状態だった。

 こうなってしまっては仕方がない。

 龍己は車を出して春香を乗せて家具屋まで出かけていた。

 男同士二人でダブルベッドを見るのは気恥ずかしいが、店員は仕事なのでクールな態度を取ってくれる。


「キングサイズというのがあるのです! これにしましょう!」

「キングサイズのベッドか……置けるかな」

「部屋は他にもあるのではないですか? 龍己さんと僕の寝室を作ってしまうのです!」


 確かに余っている部屋はあった。龍己の両親が使っていた寝室が、海外に移住してから空っぽのまま余っている。夫婦の寝室を使って、龍己と春香の寝室を作るとなると相当照れるのだが、春香は無邪気に喜んでいる。


「これで龍己さんと毎晩一緒なのです!」


 いつまで春香が一緒にいてくれるのか。

 一抹の不安が胸を過った龍己だが、それを振り払って、春香の書く番外編のことを考えていた。キングサイズのベッドを買うと、支払いのときに春香の表情が曇る。


「高いのですね……僕もバイトを探して、お支払いするのです」

「それはダメだ!」


 バイトという単語に龍己は反射的に止めに入っていた。

 春香もお金が欲しい年ごろで、バイトで自由になるお金を稼ぎたいだろう。しかし、バイトをしてしまうと、春香が小説を書く時間は減ってしまう。大学から帰って、課題がないときには夕飯までの時間をたっぷりと使って、休みの日には勉強しながらも時間を使って、春香は小説を書いている。その小説が世間では認められず一銭のお金も貰えなかったとしても、龍己にとっては大切な癒しになっているのだ。


「分かった。春香の小説を俺が買う!」

「へ?」

「買っても投稿サイトにはこれまで通りに投稿していいから、俺に一番に見せてくれるのは変えないでくれ」


 バイトの代わりに春香にお金を払って小説を書いてもらう決意をした龍己は本気だった。


「龍己さん、正気なのですか?」

「俺は正気だ。春香の小説にはそれだけの価値があると思っている。俺だけの作家になってくれ」


 もちろん、投稿サイトには投稿しても構わないし、コンテストにも出して構わない。ただ、バイトはせずに小説を書くことで春香が自由になるお金を手に入れられれば、春香はますます小説を盛んに書いてくれるのではないかという下心が龍己にはあった。


「お金なんていらないのですよ。龍己さんは僕に食事を作ってくれるし、お弁当まで作ってくれるし、食費も僕は払っていないのです」

「それなら、このベッド代だけでも俺に払わせてくれ。バイトをするなんて言うな。小説をもっと書いてくれ」

「は、はい」


 真剣にお願いした龍己に若干引き気味で春香は答えてくれた。



 ベッドを買って帰った日に、春香はこれまでのボーイズラブ作品二作品のカップルが出会う番外編を読ませてくれた。旅行先で出会った二カップルは、宿が同じで夕食の席が宿側のミスで相席になってしまって、話をする。

 温泉宿なので浴衣姿の二組のカップルは、お互いに自分たちが恋人同士だと分からないようにしようとするのだが、酔った主人公が惚気話を始めてしまう。慌てて誤魔化すがバレバレで、結局惚気話で盛り上がってしまう。


「この続きは?」

「二カップルが部屋に戻ってからの別々の話を書きたいのですよね」

「惚気たことをお仕置きするんだな」


 酒に酔って惚気てしまったことをお相手たちがお仕置きと言って甘い展開になることを望む龍己に、春香は「そうしましょうかねぇ」と言っていた。


「そういえば、春香は夏休みじゃないのか? 予定はあるか?」

「いえ、特には。試験が終わったら、九月中休みですよ」


 七月の終わりまで試験は続くが、それが終われば八月と九月は丸々休みだと聞いて、龍己はタブレット端末で読んでいた番外編をちらりと見る。主人公たちのカップルは旅行に行っている。温泉旅行だ。


「温泉に行きたくなってきたなぁ」

「龍己さん、旅行に行くのですか? 留守番はちゃんとしておくので、行ってらっしゃいなのですよ」


 取材旅行と勘違いしているのか、自分のことを全く考えていない春香に、龍己はため息をつく。


「春香と行くんだよ」

「え!? 僕、旅行とか行ったことないですよ?」


 家庭環境が複雑な春香が旅行に行ったことはないのは予測済みだった龍己は、初めての旅行を自分とのものにしたいという欲望があった。部屋に温泉の付いている旅館ならば、はばかることなく温泉でもいちゃつける。

 小説の主人公たちはこれから存分に交わるのだろうから、その部分を読んで龍己が我慢できる自信はなかった。絶対に春香に抱かれたくなる。


「この続きは、ものすごくつらいが、旅行まで我慢する。だから、俺と温泉に行こう!」


 誘うと春香の表情が明るくなってそわそわしだすのが可愛い。


「温泉なんて初めてなのです。僕、修学旅行以外の旅行は行ったことないのです」


 何を持って行けばいいかとか、何がいるかとか考え始める春香に、龍己は微笑ましくなる。


「国内だから、足りないものがあれば買い足せばいいからな」

「ローションとコンドームは持って行かないと……龍己さん、コンドーム、買えますか?」


 顔を真っ赤にしている春香はこれまでコンドームなど買ったことがないのだろう。龍己に頼って来るところが年相応で可愛く思える。龍己にとっては春香は萌える小説を書く癒しの存在であり、可愛い相手だった。


「分かった、買っておくよ」


 自分に入れるために使うコンドームを自分で買わされるとか、どんな羞恥プレイなのだろう。これまでは自分で使う分のコンドームを買っていたが、これからは春香が使うコンドームを買うようになる。

 後ろを触るために最初はオリーブオイルを使ったが、妙な感じがして、ローションを通販で頼んだときのような羞恥心が出て来るが、売っている方は龍己がそのコンドームを使うとしか思わないだろう。

 請け負ったからには早めに買っておこうと、龍己はスーパーに食材を買いに行くついでに薬局に寄った。コンドームの棚の前で春香は逞しく立派なものを持っているので、サイズを確かめていると、客らしき女性に声をかけられた。


「もしかして、作家の速水龍己先生じゃないですか?」

「いや……」


 コンドームを選んでいるときに声をかけられてもどう対応すればいいのか分からず戸惑う龍己の手に、その女性は手を重ねてくる。


「これ、使うお相手決まってるんですか? 私、立候補しちゃおうかな」


 重ねられた手の温度と囁かれた内容が気持ち悪くて、龍己はその手を振り払っていた。持っていたコンドームの箱をそのままに、足早にレジに行く。会計をして走って家に帰ると、春香がリビングで麦茶を飲みながら龍己を待っていてくれた。


「お帰りなさいなのですよ」

「ただいま……」


 春香と出会う前ならば、あんな誘われ方をしても嫌悪感なくついて行ったかもしれない。美人だったしラッキーくらいの気持ちで抱いて、一晩だけの遊びに身を委ねたかもしれない。

 それが今は嫌悪感しかない。


「春香……手を握ってくれ」

「どうしたのです?」

「なんでもない……なんでもないんだ」


 完全に龍己は春香に堕ちている。

 それを自覚したからこそ、春香にもこちら側に堕ちて来てもらわなければいけないと龍己は考えていた。

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