第3話 襲われた後で
長く列車に乗って僻地の基地までやってきて、ギルベルト含む隊員の健康診断を心を無にして行って、かなり近い位置で行われる歓迎会にも参加したエリーアスは精神的にも肉体的にも限界を超えていた。体は丈夫な方だが、他人との接触を避けて生きて来たこれまでと違って、今日はあまりにも接触する人数が多すぎた。
診察にはギルベルト以外は医療用手袋を着けていたし、歓迎会も参加しなければよかったのだが、嫌なことははっきりと嫌という性格のエリーアスがなぜか今日は断れなかった。自分でも自分の変化についていけていないのに、挙句の果てには部屋に押し入られて押し倒されかけた。
洗面所で胃の中のものを全部吐いてから、エリーアスは自分が列車の中で食べた軽食以来何も食べていないことに気付いた。吐いたものはほとんど胃液だった。
ギルベルトがミネラルウォーターのボトルを差し出してくれる。
「こんなことを言えた義理ではないのだが……」
「あ、ありがとうございます」
「辞めないでくれるか?」
受け取ったミネラルウォーターのボトルにお礼を言っていると、ギルベルトが真剣な表情でエリーアスを見詰めていた。
「あの兵士は厳罰を課して、この基地から追放する。この基地の医者が長続きしなかった理由がやっと分かった」
「これまで気付いてなかったのですか?」
「俺は、あまり他の兵士とも医師とも交流を持たないからな」
その辺りもギルベルトの兄弟から聞いていた性格と一致している。自分を大事にできない人物が、他人に深く興味を持つとは思えない。それなのにエリーアスのことを追い駆けてきて、エリーアスの部屋に留まっているのは何故なのか、ギルベルト自身に聞いてみたい気がしていた。
「自分のことを『俺』というのですね……」
「あぁ……普段はこんなことがないんだが、あなたの前では、出ていたようだ。失礼した」
「いいえ。どうして私を追い駆けて来たのですか? 歓迎会にも参加していましたし」
エリーアスの問いかけにギルベルトが困った顔になって頭を掻いている。
「自分でも分からないんだ……。新しい医者だから丁重に迎えないと、また逃げられてしまうというのもあったんだが……いや、そうだろう。そうだな。新しい医者に何かあっては大変だと思ったんだ……と思う」
自分でも納得していないようなことを言うギルベルトに、エリーアスは苦笑してしまった。
「説明になっていませんよ。私を追い駆けて来た理由も分からない」
「あなたは、酷い顔色をしていたから……」
「私の顔色を見ていたんですか?」
ギルベルトは歓迎会の席でエリーアスが酷い顔色をしていたから気になって追いかけて来たのだと答えている。ボトルのミネラルウォーターを飲みながら、エリーアスはこの訳の分からないお互いの行動の理由を探ろうとした。
エリーアスはギルベルトに素手で触れるようなことをしているし、ギルベルトはエリーアスの顔色を気にして部屋に来るようなことをしている。何度も逃げられたという医師を確保するためだとしても、ギルベルトのやっていることは過保護すぎるような気がした。
「あなたのことを、みんなが心配している」
「俺を?」
「命を軽々しく投げ出すのではないかと。周囲はあなたを大事に思っているのに」
エリーアスの言葉に、ギルベルトが光りのない目でふっと笑う。
「俺を惜しむのは、戦争に使えるからだろう。俺が大事なんじゃない。戦える人員が大事なんだ」
顔をぐしゃぐしゃにしてエリーアスに泣き付くくらいギルベルトの兄弟はギルベルトを想っているのに、それは少しもギルベルトに通じていない。どれだけ言葉を尽くして説明したとしても、ギルベルト自身がその事実を拒んでいるのならば、通じることはないだろう。
「ハインツェ先生、あれ、もう一度してくれないか?」
「あれ、とは?」
「俺の身体に指を置いて、その指を叩いて音を聞いていた」
「あぁ、打診ですね」
指を身体に添えて、その上から指で叩く聴診の仕方を打診という。エリーアスの大学のときのゼミの先生が教えてくれたのだが、エリーアスは空洞になっている場所ではなくて、骨の音もある程度聞き分けられるように練習した。
「古傷は誰も診ないのに、ハインツェ先生は違った……」
子どものように好奇心を見せるギルベルトにエリーアスは仕方がなく、ギルベルトの上半身を脱がせて背中の方を見せてもらう。背中にも古い傷が多く残っていた。まだ治ったばかりで引き攣ったような傷口もある。
「これはいつ頃の傷ですか?」
「さぁ? 一か月前くらいかな?」
「痛むのではないですか?」
「分からない……感覚が遠くて、自分が痛いのかどうか、分からないんだ」
命を簡単に捨ててしまえるようなギルベルトは、痛みに対しても非常に鈍感だった。それを聞けばエリーアスはギルベルトのことが気にかかる。
「痛みは生命活動のために必要なものですよ? 感覚が鈍いというのは気になりますね」
「それで困ったことはない。怪我をしても動けるし助かっているくらいだ」
ギルベルトの答えにエリーアスは眉を顰めた。
「困ったことはない、じゃないですよ! 怪我の状況を自分で把握できないというのは危険なことです」
「俺が死んでも、代わりはいるだろう」
「そういう問題ではないでしょう」
「次の隊長が来て、この基地を引き継ぐだけだ」
「本気で言っているのですか?」
感情が平坦なことが自分の長所だと思っていただけに、エリーアスは自分がギルベルトを怒鳴っているという場面に戸惑いを感じていた。ギルベルトは簡単に「自分の代わりはいる」と言ってしまう。死を恐れない姿こそが、エリーアスには一番怖かった。
「あなた、楽しいことはありますか?」
「楽しい……? それが何か意味があるのか?」
「大いに意味があります。戦地においては酒でも、あのひとはやり方を間違えましたが他人との肉体関係でも、とにかく、戦場の緊張感で抱える膨大なストレスを発散しなければ病んでしまいます」
基地の医師として隊員の精神的なケアもエリーアスの仕事には入っていた。戦場に出た兵士のほとんどが精神を病んで帰ってくる。そうならないためにも、前線の基地にアルコールや娯楽を支給しているギルベルトならば、それくらいのことは分かっていてもおかしくないはずなのだが、ギルベルトは自分のことは別枠と考えている。
信じられない気持ちで必死に言ったエリーアスに、ギルベルトがぽつりと呟いた。
「ハインツェ先生は、俺のストレスを発散させてくれるのか?」
「医師としてできることならば、やりますよ?」
答えた瞬間、エリーアスは手首を掴まれた。ギルベルトは打診のために上半身は裸だし、エリーアスの座っているのはベッドだった。こういう状態とは自覚がなく答えてしまったことをエリーアスは後悔する。
「何をしようと、考えていますか?」
「ハインツェ先生が嫌なら、しない」
「私が嫌がるようなことをしたいのですか?」
具体的に行為を言ってこないが、ベッドの上に押し倒されている時点で何をされるかがエリーアスにも想像がついていた。抵抗するべきだと分かっているが、エリーアスの頭をギルベルトの兄弟たちの言葉が過る。
――頼む! 私たちが言ってもギルベルト兄さんの心には届かない。ギルベルト兄さんは、自分を大切にする気持ちがないんだ。
自分には代わりがいる。自分でなくてもいい。自分はいつ死んでも構わない。
命を粗末にするようなことを言わせるのは、エリーアスにとっては医師としての矜持が許さない。エリーアスの身体を差し出すことによって、この捻じ曲がったギルベルトの思考が、少しでも生に傾くのならば、それもいいのではないかとエリーアスは思ってしまった。
緩んだ抵抗に、ギルベルトがエリーアスの制服を脱がせて、自分の制服のズボンと下着も降ろしている。
「それで……どうすればいいんだ?」
お互い全裸になった状況で問いかけられて、エリーアスは沈痛な面持ちで額に手をやった。
自分を大事にしないギルベルトは、行為自体が初めてだった。
エリーアスも初めてなのだが、男性同士の行為では準備をしないと危険なことは分かっている。
「どうして私が……」
不満を口にしながら、エリーアスは自分のカバンからハンドクリームを取り出した。その間、ギルベルトはベッドの上にちょこんと正座して大人しく待っていた。
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